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文字数 3,047文字
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チャットルームに『雅也』が現れたのは、一週間後のことだ。
あたしはコーヒーを一口啜ると、炬燵に入ったまま、ノートパソコンを手許に引き寄せた。名前の欄に、あらかじめ決めておいた偽名を打ち込む。性別は『男』を選んだ。マウスで『通知者』にチェックをつけ、入室ボタンをクリックする。
【雅也さんですね。神崎です。はじめまして】
【よろしく】
【大切にしたい人は、恋人の真紀さん、でよろしいですね】
【はい】
自分でやる気になったのは、合田の描写のあまりの下手さに、腹が立ったからだ。
自分の欲望を満たすことばかり考えていて、殺されるあたしのその惨めで恥ずかしい姿や感情が、ちっとも伝わってこない。表現力も酷い。いまどき、〝若くみずみずしい果実のような肉体〟はないだろう。表現が陳腐すぎる。
雅也があたしを失って、本当に悲しんでくれたのかも気になった。チャットはどうも演出過剰で、いまひとつ真意が読み取れなかったからだ。雅也があたしを失って本当に悲しんでくれるなら良しとしよう。そうでなければ殺され損だ。
【では雅也さんと真紀さんは恋人、私は真紀さんを殺す殺人犯ということでいきましょう。殺害方法にご要望はありますか】
【真紀は喉もとが凄く綺麗なんです。あと、うなじも】
思わず頬が熱くなった。
雅也がそんな風にあたしを見てくれていたなんて知らなかった。
【では、首周りは傷つけないようにしますね】
【いや、そうではなくて】
あたしは首もとを撫でていた手を止めた。
【真紀の喉もとが傷つけられて殺されたりしたら、俺、やるせない。より喪失感が湧くと思うんです。おかしいでしょうか?】
おかしいでしょう。
確認するまでもなく。
【わかりました。ではロープか手で首を絞めて殺しましょう】
【はい】
【それとも焼殺とかの方がいいですか?】
【え。黒焦げはどうなんでしょう】
残りは設定を固めず、アドリブでやることになった。ト書きはなるべく少なくし、想像に任せる方針とする。
舞台はあたしの寝室に決まった。思わずあたしはノートパソコンを持って、寝室へ移動した。
では、開始。
【(雅也、真紀の寝室のドアを開ける)】
【(そこには神崎が立っている)】
【……おまえ、誰だよ?】
あたしはモニタから顔を上げ、寝室のドアを見やった。ドアを開けて入ってきた雅也が、戸惑って立ち尽くす姿を想像する。
雅也の目の前には、見知らぬ男――神崎が立っている。あたしは神崎になったつもりで、ノートパソコンを持ったまま、部屋の中央に立ってみた。
雅也は何を思うか。神崎をあたしの浮気相手かと思うに違いない。強張った顔をしている。
片手で入力した。
【おまえ、この女の恋人か?】
と神崎は横たわったあたしの死体を顎で示すのだ。あたしの死体は、首すじが青黒くなった無残な姿で、ベッドに横たわっているということにしましょう。
あたしは鏡に映った自分の顔を見てみた。
殺人犯らしい、ふてぶてしい表情をしている。
【……真紀?】
【死んでるよ。俺が殺した。こう、両手で首を絞めてよ】
ノートパソコンを置いた。鏡の向こうで、あたしは両手をかざし、恍惚とした表情を浮かべている。ちょっと気分がよろしい。
次に、ベッドに仰向けに倒れてみた。見知らぬ男に首を両手で抑えられたつもりで、じたばたともがいてみた。手が硬いものに触れた。目覚まし時計だった。
【ばたばたともがきやがって、時計で俺の頭を叩いて逃げやがった】
あたしはベッドから飛び下り、ドアに向かって走った。
途中でカーペットに滑り、つるりと転んで尻から床に倒れこんだ。部屋がどすんと鈍く揺れた。
【可哀想に、転ばなければ逃げ切れたかもしれないのになあ】
なお逃げようともがくあたしを神崎は背中から羽交い締めに。
悲鳴をあげられると面倒なので、口を抑えることにしましょう。
再びベッドまで連れていくよりも、やっぱり床に押し倒すことにして。
あたしはカーペットに両膝をつき、激しくキーボードを叩いた。
【床に叩き伏せて、二、三度頬を打ってやったら、大人しくなったぜ。それから首に両手をのせて、体重をかけていった】
なんて可哀想なあたし。サービスだ。
【真紀ちゃん、雅也雅也、って泣いてたぜ】
雅也からの応答はなかった。
少し、書きすぎたかもしれない。興奮していたのが急速に醒めてきた。
雅也はもう飽きて、ゲームでもしているのではないか。この頃の雅也は、あたしが何か話していても真面目に聞いてくれない。そのたびにあたしは、自分が必要とされていないと感じる。
【凄い!】
しばらくしてようやく応答が返ってきた。
【凄く上手いですね!】
褒められた。
【いやあ、臨場感があって、思わず魅入ってた。なんか、ほんとに部屋で、目の前で真紀が殺されたみたいな気がしたよ。何か打とうと思ったんだけど、嘘になっちゃう気がして】
本当にショックを受けたときに、キーボードを打ち込む余裕はない。それでもキーボードでしか意思疎通の手段がないところに、喪失チャットの限界があると由香里は論じていた。
【何回かチャットしたけど、こんなに上手いの初めてだ】
雅也が興奮しているのがチャットの文面からでも伝わってきた。こちらが返事を返す前に、どんどんと打ってくる。
【なんというか、殺し方に愛があった】
【愛?】
【記号みたいにされちゃうと、入り込めないんだ。真紀っていう存在を感じたいんだ】
てらいのない言葉に、頬が熱くなるのを感じた。
【存在を感じて、その上で殺されないとだめでさ】
結局、殺されるのかあたし。
【あまり一人で盛り上がられると引いちゃうし、逆に遠慮されても入っていけない。神崎さんのは、容赦ないけど、なんか愛があって凄く良かったよ。レイプの描写ばっかりやたら詳しい人が多くて、ちょっとどうかと思ってたんで】
それ以前にいろいろちょっとどうかと思うところはある気がしたが、まあ気にしないことにする。合田のことを言っているのだろう。チャットの使用目的を履き違えている人が紛れ込み、一部で問題となっていることは知っていた。
その日のチャットは、それでお開きとなった。
雅也にせがまれ、あたしはフリーで登録したメールアドレスを教えた。またやろうと約束し、チャットを終えた。終わり際、雅也はこう云った。
【なんだか、真紀と話したくなったな】
ブラウザを閉じると、あたしは我知らず鼻歌を歌っていた。こんなに雅也との会話が弾んだのは、本当に久しぶりだった。
そうだ。思いつき、雅也に電話をかけることにした。今このテンションであれば、リアルでの会話も弾むに違いない。
タイミングのいい電話に、雅也は驚いた様子だった。すぐに勢いこんで話しかけてきてくれた。あたしも喋りはじめた。上手く話せなかったこれまでのあいだの溝を埋めるように。
けれど、次第に沈黙が二人の間に沈んだ。
会話は熱を帯びてはくれない。
やがて雅也はまたいつものように、上の空になってしまった。
〈じゃあ、またね〉
電話を切ると、あたしはノートパソコンの画面を覗き込んだ。
吐息をついた。
どうして普段の会話で、こうやって喋ることができないのだろう。