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文字数 2,751文字

 事前説明を終えると、まずは心理検査が行われることになった。
 教授の研究室の学生だろうか、白衣を着たひょろりと背の高い青年が現れると、無言のままてきぱきと教壇にラジカセをセットした。
 それから全員に、プラスチックの板が配られた。ボタンが四個付いたリモコンのようなもので、上には小さなランプ。隅にはナンバーシールが貼られている。

「これからテープを流します。五秒置きに単語が読み上げられますので、その単語の好き嫌いを、手持ちのリモコンで回答してください。一番左のボタンから、好き、どちらかといえば好き、どちらかといえば嫌い、嫌いの順です。押すと上のランプが点灯しますので、きちんと押されたか確認してください」

 学生が自分の持ったリモコンのボタンを押し込むと、ランプが緑色に点灯した。

「率直に直感で回答してください。一つの設問に五秒以上の時間をかけたり、前の設問の回答をすることはできません。五秒以内にボタンが押されなかった場合は、その部分の回答は無しということになります。質問がなければ始めます」

 学生がラジカセのスイッチを押した。しばらくノイズ音が流れたあと、抑揚のない女の声で「犬」と読み上げられた。周りで一斉にカチッとボタンを押す音が響いた。あたしも慌てて一番左のボタンを押した。
 次々と単語が読み上げられた。取るに足らない単語が多かったが、合間に妙な単語もあった。「涎」には一番右を押した。「キス」にはちょっと迷って左から二番目を押した。さすがに淑女として一番左はためらわれる。
 直後にまた「涎」が出ると、みんなが声を抑えて笑った。
「宗教」「自分」など難しい設問もいくつかあった。簡単な質問の隙間に挟まれるので戸惑ってしまった。迷っているとすぐに次に進んでしまうので、途中から直感でともかく押した。
 それが終わると、全員で付属の大学病院まで移動した。実際のカウンセリングの前に、健康状態検査と身体測定を行うらしい。

「カウンセリングに何故身体測定が必要なんですか」

 ぞろぞろと歩いていると、四十過ぎくらいだろう、主婦らしい女の人が苛立たしげに訊いた。こちらもやはり、残念な肌をしている。
 スタッフの学生は、得られたデータの体型別傾向を測ったりするのだと答えた。データ解析のためだけに使い、個人が特定される形にはしないということだ。説明されると、女の人は不愉快そうに鼻を鳴らして、仕方ないわねと頷いた。
 裏口から病棟に入ると、携帯電話の電源を切るように指示された。医療装置への影響を避けるためだそうだ。みんな素直に電源を切ったが、さっきの女の人だけは「メールチェックしたいんですけど」と不服を申し立てた。しばらく粘っていたが、やがて渋々切った。

「どういうことですか」

 廊下に並べられた椅子に座って案内されるのを待っていると、またさっきの女の人が声を張り上げた。いいかげん面倒くさい人だということがわかり、みんな遠巻きにしている。
 スタッフの学生が弱ったような様子で、ぼそぼそと耳打ちしている。女の人は手で振り払い、声を強めた。

「どうして夫が来てるんですか。私、これに参加すること、夫に話してないんですけど」
「それはこちらとしても、わかりかねますが……」
「私が話していないんだから、あなたたちが夫を呼びつけたってことじゃないですか」
「いえ、そんなことは……」
「おかしいと思ってたんです。相手に秘密は漏らさないっていっても、やっぱり夫のことのカウンセリングなんだから、夫抜きで進められないでしょう。呼んだんですね」
「いえ、決して……。ともかく、すぐに来て頂けますか」

 学生が弱った様子で言うと、女の人は憮然とした顔のまま、彼に従っていった。ハイヒールが床を叩く音が聞こえなくなると、みんながざわついた。
 みんな、こんな実験に参加していることは、配偶者や親に秘密にしてきているはずだ。あたしも雅也に言わなかった。あたしあなたとのことで悩んでるから、カウンセリングを受けに行ってくるね。行ってらっしゃい。ない。どうみても当てつけだ。
 漏らされて勝手に呼びつけられていたりしたら、どうしよう。
 それはそれで、雅也と話し合う機会になるだろうけど、あとでどんな顔されるかわからない。

「さすがに、こちらに内緒で相手を呼びつけるなんてこと、しないと思うけどね」

 隣の席に座っていた女性が、あたしに話しかけてきた。
『恋人』に印をつけていた、あたしより三歳年上のOLだ。木下由香里と名乗った。

「法律的にやばいっしょ。守秘義務違反っていうの? このご時世だもの、大学の教授が大々的にそんなこと、できないでしょ」
「じゃあ、なんだったのかな……」
「旦那が文句を言いに来ただけじゃないかな。あの人はああ言ってたけど、なにかの弾みで、匂わすようなこと喋っちゃったんだろうね」
「興味を持たれてるだけいいと思うわ」
 別の主婦が豪快に笑った。
「うちなんかもう会話が一切ないから、知られようがないわよ」

 すぐに別の学生が現れ、皆に順番に検査室に入るように言った。検査室は五つあって、それぞれの部屋で問診と測定を行うということだった。
 順番がくると、あたしは一番右の部屋へ通された。
 小さな診察室だった。身長体重の測定器が据えられていて、心電図の装置もある。人の姿はなかった。二つあるパイプ椅子の一つには、くまのぬいぐるみが置いてある。やたらやる気のないくま、をキャッチフレーズに近頃売り出している、若い子たちに人気のぬいぐるみだ。『人生ってクソだよね』と書かれた白い旗を持って、つぶらな瞳で宙を見やっている。
 すぐに先生が来ますのでお待ちくださいと言って、学生が部屋を出ていった。あたしは椅子に腰掛けて、くまの前で待った。五分ほど待った。何処か遠くから救急車のサイレンの音が聞こえた。十分ほど待った。また救急車が通りすぎていった。急患でもあったのだろうか。

 見続けていたくまの瞳から視線を外したときには、もう十五分経っていた。
 部屋を出て係の人に訊こうかと思い、立ち上がると、ちょうど部屋の奥のドアが勢い良く開いた。
 学生ではなく、中年の男だ。くたびれた白衣を着て首から聴診器をかけている。ドアノブを掴んだまま、首だけ部屋の中を覗き込んだ。
 目が合うと険しい顔をした。

「あなたが北原真紀さん? 根本雅也さんのお連れさん?」
「あ、はい。よろしくお願いします」

 慌てて頭を下げてから、言い回しが引っ掛かった。
 お連れさん?

「すぐ来てください」

 男はそれだけ言うと、足早に身を翻した。あたしは慌てて部屋を出た。
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