16. 死の瞬間から考える

文字数 2,726文字

 (1.より要約の引用 再掲)
 しかし意識が飛ぶほどの麻酔を打たれる。激烈なものと予測される苦痛を緩和するためにアヘンを使うことは可能、と夫人は説明を受ける。その後意識は保ちながら三日間叫び続け、一八八二年二月四日、永眠。

 ***

 悪化の一途をたどるイリイチ氏。一二九ページでアヘンの使用を提案され、その量が多くなり意識が飛ぶことさえ出てきます。そのくらい痛い中で、普段は意識がしっかりしている。そして三日間叫び続け、ついに死亡します。死への恐怖を超越した時、その時には死に至る。そんな結末の一三八ページですが、読者は必然的に冒頭へと引き戻されるのですね。

 文学として、死に至るまでの心理を味わいたいですが、これは本稿の役割ではありません。実はまだ最終的な診断、死因を突き止めていないではないですか。


 そこで今回は、直接的な死因を探ってみようと思います。これはどういう意味かと言うと、亡くなる時は心臓が止まる訳ですが、ではあらゆる死の原因は心停止と記録されるかというと、そんなことはありません。現代日本では原則的に、死亡診断書の死因欄に「心不全」「呼吸不全」という記載をしません。その心不全に至る原因となる病名を書きます。これは国家試験でも問われます。ちょっと脱線しましたが、つまり今まで検討した「病名」と心停止とを繋いでみようということです。

 まず、臨床現場での死亡確認ですが、基本的には「心停止」「呼吸停止」「瞳孔散大(どうこうさんだい)」の三つをゆっくり確認し、時計を見て時刻を含め、「何時何分、ご臨終です」とやります。普段院内PHSで時間を見る医者が多いですが、死亡確認は腕時計の方がいいですよね。イリイチ氏は自宅での看取りになりましたが、病室だといわゆるモニター(三極心電図とSpO2モニター、自動測定の血圧あたりが画面に出ている)が病室にあって、ご家族までもがそれを見て、ご臨終の瞬間を待っているかのような光景がいまだにあるのは残念。急変で絶対救命するという場合は必要ですが、末期の看取りではモニターを外しておく方がしっかりしたお別れになると思います。まあ、イリイチ氏には関係ありません。
 この死亡確認をされたという記載はないのですが、最後の一文は「そのまま死んだ」ですので従います。その直前は「彼は息を吸い込み、吐く途中で止まったかと思うと、ぐっと身を伸ばして、」とあります。息を吐く途中で止まっているので、この時点で心停止もしくは呼吸停止。同じページのちょっと前には、「彼の胸のうちではなにかがぜいぜいと音を立て」とあり、これもヒントになるかもしれません。前置きが長かったですが、今回はここから考えたいなあ、と思います。

 15.の診療情報提供書からもわかるように、イリイチ氏は鎮痛薬が効き過ぎている場合を除いて、意識がしっかりしています。またここまで息苦しいという訴えもなく、脳あるいは肺を含む呼吸器系には問題がなかったのではないかと思います。脳は例の味覚問題がありますが、あれ以上の進行はないようなので、不問。いや、疑い出せば筋力低下なども脳神経の病気の症状とも言えるのですが。
 心臓については、12.で見たように急激な左胸の痛みを訴えることはなく、いわゆる狭心症(きょうしんしょう)ではなかったと思います。でも鈍痛はありました。膿胞か腫瘍による圧迫と解釈すれば、と思いましたが、外傷部位である右わき腹から横隔膜(おうかくまく)を越え心臓に影響を及ぼせるサイズにまで増大するとは、とても思えませんね。でも直接縦隔(じゅうかく)(左右の肺と胸骨(きょうこつ)胸椎(きょうつい)に囲まれた部分)に何かあれば、肺や気管、そして心臓を圧迫できるかもしれません。肺や気管を潰せば、窒息死です。でもこれは息を吸えなくて苦しいのではないかなあ、と思いますが、たまたま吐く途中で止まった、という説は否定しきれないかな。引用の、「胸のうち」の「ぜいぜい」が心理的な描写でなければ、窒息が原因だったか、あるいは死戦期呼吸(しせんきこきゅう)を指しているのかもしれません。これは心停止の時におこる呼吸様の動きです。ぐっと身を伸ばして、苦しそうに見えますが、もし死戦期呼吸の描写ならこの時点ではもう、意識がないかもしれません。十九世紀後半だと、これはまだ生きていると解釈しているかもしれませんね。現実的にはこれはもう死のサインなので、即、胸骨圧迫!

 脳は問題が無いと言いましたが、何らかの理由で脳浮腫(のうふしゅ)が進行し、脳幹(のうかん)という所が圧迫されると、その脳幹にある呼吸中枢や心臓に連なる自律神経(じりつしんけい)を障害する可能性もあります。後から起こした(二次性、といいます)腎不全の可能性はあったと思いますが、腎不全で脳浮腫、ということはあり得ます。でも、やっぱり意識がしっかりしすぎているのと、尿が出なくなった、あるいは極端に減った、という記載がないので、候補の域を出ません。あとは、心臓の左房(さぼう)あたりから血栓(けっせん)が飛んで、脳幹を支配する椎骨(ついこつ)脳底(のうてい)動脈、あるいは心臓の冠動脈(かんどうみゃく)をいきなり詰めて即死、という線も有り得ます。それなら肺塞栓(はいそくせん)もありですね。こっちは静脈系でできる血栓ですが。いずれにしても長期臥床(ちょうきがしょう)からの急な離床(りしょう)心房細動(しんぼうさいどう)の既往があれば説得力があるかな、というところでしょうか。

 じゃあやっぱり、外傷契機の膿胞から菌が全身に広がっての敗血症(はいけつしょう)だったのでしょうか? 敗血症だと、凝固・線溶系(ぎょうこ・せんようけい)という出血・止血のコントロール系に異常が生じ、出血傾向が生じたり、あるいは逆に血栓ができやすくなります。DIC(Disseminated Intravascular Coagulation)という状態です。日本語だと、播種性血管内凝固異常(はしゅせいけっかんないぎょうこいじょう)。全然分かりやすくならずすみません。まあつまり、上に挙げた血栓も、敗血症から起こりえます。そして敗血症と言えば多臓器不全。多臓器不全による死亡となれば、多臓器ですから何でもあり的なところになるので、まあ説明できそうですが。毎回同じことを言いますが、やっぱり体温や皮膚色、あるいは触診の情報が欲しいです。そしてこれも毎回同じ蛇足ですみませんが、感染症ではなく、肉腫でも同様のことは起こりえます。

 となると、感染症もしくは肉腫を絞り切ることは難しいですね。大きな膿胞・腫瘍が一つ、ではなく、多発したのだとすれば、縦隔(じゅうかく)にも出来ていておかしくはない。悪性腫瘍なら転移で説明でき、診断は肉腫に大きく傾きます。ただ、これも以前指摘しましたが、転移もしやすいところが決まっていて、縦隔には、うーん……。敗血症の結果、別のところに菌が定着してそこで育つ、ということもあり得ますが、これもなあ。

 もはや堂々巡りですかね。強引になるかもしれませんが、次週はいよいよ、まとめとして最終診断を下します!
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