17. 病理解剖を想像する
文字数 3,977文字
・この物語はフィクションを元にしたフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
・また、解剖学的な表現が多く出てきます。十分注意してお読みください。
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無機質な壁に囲まれたステンレス製の台の上に、イリイチ氏は横たわっていた。その台は浅い浴槽のような形で、排水溝を二か所備えている。見るからに冷たい場所であるが、イリイチ氏は何も感じない。そう、彼は既にこの世の人ではないから。そこに横たわるのは、イリイチ氏だった物体なのである。
病理医のアレクサンドル・イワノフは、在宅主治医であったダニーロヴィッチが語る臨床経過に頷き、宣言した。
「では、故イワン・イリイチ氏の病理解剖を始めます」
二人の助手のうち、一人は若い研修医、マキシムだった。病理解剖によって死因を究明しておくことは医学の発展に不可欠な行為であるが、ご遺族の了解を得られないことが多く、なかなか機会がない。近頃は死後のCTによるAI(Autopsy Imaging)で代用されることも増え、ますます貴重な経験となってしまった。当然気合が入るものの、マキシムは御遺体の顔を直視できない。解剖台の中間、ちょうどイリイチ氏の鳩尾あたりから、下顎の無精髭をちらりと見上げるのが精いっぱいだった。
その腹部は全体的に膨れており、右のわき腹は濃い紫色をしている。ここが四か月前の受傷部位であることは容易に想像できた。表面の出血痕は明らかではない。また側腹部から微 かにうかがえる背中は、斑 模様のようだった。
病理学教室の講師であるヴェロニカが、何のためらいもない様子で腹囲を測定し、メスを握った。メスは右側から広がる紫斑を避け、臍よりも左寄りに刺さった。薄く赤みを帯びた液体が流れ出る。これを予想していたようで、ヴェロニカは大きなシリンジを創部に当て、その血性腹水を次々と吸い取っていった。五十ミリリットルを吸うことができるシリンジが四本。何ら病気を持たなくとも、腹水は三十ミリリットルほど存在するから、六倍以上の量をイリイチ氏は保有していたことになる。肝硬変があったにしては少ないかもしれないが、低アルブミン血症、かつ血管透過性 の亢進 が推測される。ダニーロヴィッチ医師はベテランであるが、この腹水にはあまり意識が向かなかったらしく、驚きの表情を隠していなかった。
腹水を取り除いた後、創部を広げていく。四十代男性にしては腹壁の脂肪も、筋肉も非常に薄い。やはり低栄養状態が続いていたのだろう。
そしてヴェロニカが右側下方にメスを進める。その真剣なまなざしにマキシムは見とれそうになったが、自分がしっかりと記録を取らなければこの解剖が無駄になることを思い、気を取り直した。
ヴェロニカのメスはしかし、進みが鈍い。正中と比べ明らかに切れ味が悪いようだ。皮膚の層(真皮 と皮下組織の間)に血液が溜まっており、滑りが悪かったのだろう。ドロッとした黒い液体が流れ出る。そしてその下にある腹直筋 が肥大し、変色しているのが分かった。これは痛かったろうな、とマキシムは思う。痛み止めは十分だったろうか。抗生剤は適切に使ったのだろうか。そう思わずにはいられない。
「ここが起点だとして、こんなに早く悪くなったのは、どうしてだろうなあ」
イワノフの言葉に、マキシムもヴェロニカも首をかしげる。ダニーロビッチは決まりが悪そうだ。結局この血の溜まり場に菌が定着し、菌が血流に乗ってしまった、ということだろうか。真皮レベルの血液溜まりであれば、視診ですぐに気付けるし、触診で腹腔 内のしこりと間違えることもないはずだが、とマキシムは思う。
この直下の腹膜 は炎症により癒着 し、腹直筋 から剝がす作業はやや難しかった。これが硬くなっていたということだろうか。腸管は比較的きれいであり、病巣が消化管にないことが推測されたが解剖のルーチンにしたがいこれを避 けていく。切り開いて中身を洗浄するのは研修医の仕事であるが、今回は後回しで良さそうだ。
腸管を全て外したが、膿胞は見られなかった。そして後腹膜 越しに右の腎臓を確認した。少し小さいサイズであるが、特に足側に落ち込んでいるということはなく、固定も問題なさそうだった。臨床診断の遊走腎は間違っている。また先ほど外した腸管に付いた虫垂 も正常な大きさであった。だから虫垂炎もないだろう。ただ、腹壁の裏側と大網 とが癒着し、硬くなっている。これを硬めの構造物と考え、遊走腎を想定するのは、ありうるかもしれないとマキシムは考えたが、ヴェロニカは最早ダニーロヴィッチを見下していた。全然難しくないじゃない、この症例。そんな不満げな表情にさえ思えた。
肝臓などの腹部臓器を取り出し、続いて胸部に切開を加えていく。鋸 で肋骨 を数本切り、胸骨 を外していった。肺と心臓があらわになる。右肺は左のそれに比べ黒っぽく変化している。本来は左肺よりも大きいはずのそれは、ほぼ左と同じサイズに見えた。これは、片側の肺塞栓 を起こしたなあ、と直感する。そして肺動脈の断面にも柔らかそうな赤黒い塊を確認し、直感を確信に変えた。
二つの肺に続いて、大動脈、大静脈を切断し、心臓を取り出す。裏面の左室 も含め、表面上は心筋に壊死した箇所はないようだ。少なくとも心筋梗塞による突然死ではないのだろう。
続いて下大静脈 と大動脈を丁寧にはぎ取っていった。見た目には大きな問題はなさそうだったが、マキシムはヴェロニカから渡された下大静脈の断面に何かが詰まっているような印象を持った。
「先生、この静脈の詰まりのようなものは……」
いちいち煩 いわね、というような表情のヴェロニカだったが、その後ろからイワノフが声を上げる。
「下大静脈の内皮 に肥厚か? それはしっかり切り分けて顕微鏡だな」
その後、食道、胃を取り出し、胸腹部の主な解剖は終了となった。頭部については遺族の同意が得られず、口腔内を観察し、右の眼球を摘出するに留めた。右上顎 には齲歯 があり、全体に歯肉炎を認めた。
臓器がもともとあった空間に新聞紙などを詰め、皮膚を縫い合わせる。検査技師のアレクセイとマキシム、二人の作業となった。外科志望のマキシムは縫合 と結紮 の練習を欠かさず行っているが、解剖後に太い糸で豪快に行うそれはむしろ苦手だった。近頃はエンバーミングという技術が普及しているが、病理解剖後には施さないのだろうか? と疑問に思う。アレクセイにほとんどお任せするような形になり、申し訳ないと思いながら、腸管や大血管を裂き、切り分ける。先ほどの下大静脈だけはヴェロニカが持って行ってしまった。マキシムは逸 る気持ちを抑えながら作業に勤しんだ。肉眼的に、逆流性食道炎があったことが分かり、少し自信がついた。これらの臓器は重さと長さを測り、定規とともに写真に収めた後、ホルマリンに漬けていく。軽くなった元イリイチ氏は、その間に浴衣を着せられ、先に解剖室から出ていった。
どのくらい時間がたったのだろう。作業を終えたマキシムは、前腕と下腿とに巻き付いたビニールテープを剥がし、長靴を脱ぎ揃える。ホルマリンの臭いが浸み付いたガウンをゴミ箱に押し込め、更衣室を出た。俗世間に帰ってきた。この瞬間の解放感が好きだ。もう陽は沈んでいた。
数日後、病理研究室でヴェロニカが叫んでいた。
「ちょっとこれ、すごいわよ!」
顕微鏡を覗かせてもらうと、下大静脈の血管内皮細胞が何かに覆われているようだった。拡大するとそれは、通常では見られないものだった。青紫色に染まる細胞たち。球形の細菌が塊になっている。血栓に付着しているようだった。
つまり当初腹壁 に付着した細菌が血流に乗り、下大静脈の内壁に出来ていた血栓に定着したのだろう。ここで大量に増殖すれば、全身への播種 は容易だ。そのまま右心系 を通過し、肺に流れ着き、それが右肺を詰めたのだろう。片側なので直接死因とは言い難いが、衰弱した身体で急に半分の呼吸しかできなくなれば、かなりのダメージを受けたと想像できた。
同時に、敗血症からDIC(Disseminated Intravascular Coagulation)に至って血管透過性 も亢進したということだろう。ただこの菌塊の土台となる血栓は比較的新しい様子で、DICの期間は短かったと推測できた。また、眼球は糖尿病性の網膜症 をおこしており、イリイチ氏が糖尿病であったことを裏付けるものとなった。であれば、その細菌が口腔内常在菌 であったことも納得できた。この菌はしかも、腹壁の血溜まりにも定着していた。
マキシムは改めて臨床経過と照合した。腹部外傷で説明が難しかった味覚異常は逆流性食道炎でよさそうだ。その後、心臓の鈍痛と感じていたものは下大静脈の壁に何かが蓄積される違和感や、血栓が心臓内を通過する感覚だったのかもしれない。虫垂炎という鑑別が記載されていたので、抗生剤は使われていたと思うが、この時点で適切な薬剤を適切な量で投与できていればこの患者さんは救われたのではないかと思った。またバイタルサイン(体温、血圧、心拍数、呼吸回数)を記録し、しっかり服を脱がせての視診触診を含めた、十分な身体診察を心がけようと誓い、糖尿病の発見とコントロールにも気を遣わねばならないことを理解した。それを来月の剖検 報告会で発表しようと思う。そこにダニーロヴィッチを始めとする医師たちが参加するとしても、臆さずに……。
その日の深夜、イワノフは仰々しく病理診断報告書にサインをした。
死因:糖尿病患者の、腹部外傷による皮下組織の損傷と口腔内常在菌による細菌感染。
それによる敗血症からのDICとその結果おきた血栓性肺塞栓。
[完結]
・また、解剖学的な表現が多く出てきます。十分注意してお読みください。
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無機質な壁に囲まれたステンレス製の台の上に、イリイチ氏は横たわっていた。その台は浅い浴槽のような形で、排水溝を二か所備えている。見るからに冷たい場所であるが、イリイチ氏は何も感じない。そう、彼は既にこの世の人ではないから。そこに横たわるのは、イリイチ氏だった物体なのである。
病理医のアレクサンドル・イワノフは、在宅主治医であったダニーロヴィッチが語る臨床経過に頷き、宣言した。
「では、故イワン・イリイチ氏の病理解剖を始めます」
二人の助手のうち、一人は若い研修医、マキシムだった。病理解剖によって死因を究明しておくことは医学の発展に不可欠な行為であるが、ご遺族の了解を得られないことが多く、なかなか機会がない。近頃は死後のCTによるAI(Autopsy Imaging)で代用されることも増え、ますます貴重な経験となってしまった。当然気合が入るものの、マキシムは御遺体の顔を直視できない。解剖台の中間、ちょうどイリイチ氏の鳩尾あたりから、下顎の無精髭をちらりと見上げるのが精いっぱいだった。
その腹部は全体的に膨れており、右のわき腹は濃い紫色をしている。ここが四か月前の受傷部位であることは容易に想像できた。表面の出血痕は明らかではない。また側腹部から
病理学教室の講師であるヴェロニカが、何のためらいもない様子で腹囲を測定し、メスを握った。メスは右側から広がる紫斑を避け、臍よりも左寄りに刺さった。薄く赤みを帯びた液体が流れ出る。これを予想していたようで、ヴェロニカは大きなシリンジを創部に当て、その血性腹水を次々と吸い取っていった。五十ミリリットルを吸うことができるシリンジが四本。何ら病気を持たなくとも、腹水は三十ミリリットルほど存在するから、六倍以上の量をイリイチ氏は保有していたことになる。肝硬変があったにしては少ないかもしれないが、低アルブミン血症、かつ
腹水を取り除いた後、創部を広げていく。四十代男性にしては腹壁の脂肪も、筋肉も非常に薄い。やはり低栄養状態が続いていたのだろう。
そしてヴェロニカが右側下方にメスを進める。その真剣なまなざしにマキシムは見とれそうになったが、自分がしっかりと記録を取らなければこの解剖が無駄になることを思い、気を取り直した。
ヴェロニカのメスはしかし、進みが鈍い。正中と比べ明らかに切れ味が悪いようだ。皮膚の層(
「ここが起点だとして、こんなに早く悪くなったのは、どうしてだろうなあ」
イワノフの言葉に、マキシムもヴェロニカも首をかしげる。ダニーロビッチは決まりが悪そうだ。結局この血の溜まり場に菌が定着し、菌が血流に乗ってしまった、ということだろうか。真皮レベルの血液溜まりであれば、視診ですぐに気付けるし、触診で
この直下の
腸管を全て外したが、膿胞は見られなかった。そして
肝臓などの腹部臓器を取り出し、続いて胸部に切開を加えていく。
二つの肺に続いて、大動脈、大静脈を切断し、心臓を取り出す。裏面の
続いて
「先生、この静脈の詰まりのようなものは……」
いちいち
「下大静脈の
その後、食道、胃を取り出し、胸腹部の主な解剖は終了となった。頭部については遺族の同意が得られず、口腔内を観察し、右の眼球を摘出するに留めた。右
臓器がもともとあった空間に新聞紙などを詰め、皮膚を縫い合わせる。検査技師のアレクセイとマキシム、二人の作業となった。外科志望のマキシムは
どのくらい時間がたったのだろう。作業を終えたマキシムは、前腕と下腿とに巻き付いたビニールテープを剥がし、長靴を脱ぎ揃える。ホルマリンの臭いが浸み付いたガウンをゴミ箱に押し込め、更衣室を出た。俗世間に帰ってきた。この瞬間の解放感が好きだ。もう陽は沈んでいた。
数日後、病理研究室でヴェロニカが叫んでいた。
「ちょっとこれ、すごいわよ!」
顕微鏡を覗かせてもらうと、下大静脈の血管内皮細胞が何かに覆われているようだった。拡大するとそれは、通常では見られないものだった。青紫色に染まる細胞たち。球形の細菌が塊になっている。血栓に付着しているようだった。
つまり当初
同時に、敗血症からDIC(Disseminated Intravascular Coagulation)に至って
Streptococcus viridans
というマキシムは改めて臨床経過と照合した。腹部外傷で説明が難しかった味覚異常は逆流性食道炎でよさそうだ。その後、心臓の鈍痛と感じていたものは下大静脈の壁に何かが蓄積される違和感や、血栓が心臓内を通過する感覚だったのかもしれない。虫垂炎という鑑別が記載されていたので、抗生剤は使われていたと思うが、この時点で適切な薬剤を適切な量で投与できていればこの患者さんは救われたのではないかと思った。またバイタルサイン(体温、血圧、心拍数、呼吸回数)を記録し、しっかり服を脱がせての視診触診を含めた、十分な身体診察を心がけようと誓い、糖尿病の発見とコントロールにも気を遣わねばならないことを理解した。それを来月の
その日の深夜、イワノフは仰々しく病理診断報告書にサインをした。
死因:糖尿病患者の、腹部外傷による皮下組織の損傷と口腔内常在菌による細菌感染。
それによる敗血症からのDICとその結果おきた血栓性肺塞栓。
[完結]