7. 「盲腸炎」について考える

文字数 1,873文字

 さて、医師がイリイチ氏に告げた三つの病名。いよいよ最後の「盲腸炎」です。これは良く聞く病名ですね。でも、ちょっと待ってください。「盲腸」って、どこですか?

 これについては、ご存じの方も多いと思いますが、改めて解説しましょう。小腸は口側(クチソクと医師たちは読みます)から空腸(くうちょう)回腸(かいちょう)という名前に分けられますが、これには明確な区別はありません。小腸の後半五分の三くらいを回腸と呼びます。そして回腸から大腸に繋がるのですが、その大腸は回腸に比べ腔が広いです。そして回腸の出口には、食物が逆流しないように弁があります。ややこしいのですが、この大腸は、肛門側から直腸・結腸・盲腸に分類できます。そして回腸は結腸の壁に穴を開けているように繋がっています。その開口部からもう少しだけ大腸が続いていて、行き止まりになっています。そこが「盲腸」です。「盲」の意味としては、「突き抜けていない」(デジタル大辞泉より)。盲端、行き止まりです。大腸カメラのように肛門から入って行くと、行き止まり、という感覚は分かりやすいですね。そしてその盲端に一つ抜け道のようなものがつながっていて、これが「虫垂」です(つまり拙作「ハコニワ」でご紹介した「盲腸線」は本来の意味で正しく表現するとすれば「虫垂線」です)。

 さて、一般に「盲腸の手術をした」という場合、それはこの虫垂に炎症が起き、手術で虫垂を切除した、という意味であろうと思われます。そのくらい一般的に使われているので先ほどのセリフも、専門家にいちいち訂正されることもないでしょう。これに「炎」が付いていればまだいい方かもしれません。
 つまり、イリイチ氏が告げられた「盲腸炎」も、「虫垂炎」のことであると見なしてよいのだろうと思います。ロシア語の、しかも一般的な用語として、「盲腸」「虫垂」をどのくらい区別しているのかは分かりませんが。もし正しい意味での「盲腸炎」だとすれば、少なくとも現代日本では「回盲部炎」と表現する可能性が大きいと思います。
 
 ここからは「虫垂炎」として話を進めます。虫垂炎は右下腹部痛と高熱、場合によっては嘔吐などが出ます。初期には鳩尾(みぞおち)心窩部(しんかぶ)と言います)の痛みであることもよくあります。経過や痛い場所(マクバーニー点など)も昔からよく知られていますが、確定診断は意外に難しく、やはりエコーやCTに診断を頼ることも多いです。治療は抗生剤で様子をみる(俗に「散らす」)か、手術で虫垂を取るか。多くの場合は比較的急激に悪化していきますが、中途半端に痛いままの人もおられます。激しい痛みは、時に立って歩けないくらいです。診察室でつま先立ちからストンと踵を落としてもらうと、激しい痛みが誘発されることもあります。また激しい痛みが急に止まった場合、狭い虫垂が腫れ過ぎて破裂してしまった可能性もあるので、もう痛くないなと思っても受診した方がいいと思います。破裂までいかなくとも、穴が開いて(穿孔(せんこう)といいます)お腹の中に細菌が広がってしまう(腹腔(ふくくう)内に播種(はしゅ)し、腹膜炎になる)こともあるのです。怖いんですよ、「盲腸」。

 さて、そこまで確認してイリイチ氏です。鳩尾の痛みは記載がありません。高熱も不明です。日に日に悪化はしているのですが、どうも上に書いたような痛みとは違う印象です。では中途半端に痛い、つまり虫垂炎にしてはゆっくり目に進むタイプだったのでしょうか? これはありかもしれません。慢性もしくは亜急性(急性というほどではないが、慢性いうほど長期ではない)虫垂炎という診断、可能性はありそうです。しかし虫垂をピンポイントに打って損傷するというのは、非現実的だなあ。もし虫垂炎なら、やはり外傷はフェイクでしょう。

 また、正確な部位の「盲腸炎」、すなわち「回盲部炎」の場合ですが、これは慢性カタル同様に感染症が多いと思います。また憩室炎(けいしつえん)(大腸の壁に小部屋が先天的にできていて、そこに感染する)や虚血性腸炎(きょけつせいちょうえん)(腸への血流がなんらかの理由で障害された結果おこる)、大腸癌や炎症性腸疾患(クローン病や潰瘍性大腸炎。6.参照)あたりは可能性があります。これらは血便が診断のヒントになります。

 右下腹部圧痛の有無を確認して、エコーもしくはCTで異常がなければ、下部消化管内視鏡。前回同様に便検査と尿検査は必須。これでイリイチ氏の診断はつくでしょう。イリイチ氏、小説ばりに現代日本へタイムスリップしてきたら(いや、もともと小説だ)、なんとか診断はつけられるだろうと思います。次回はドクターショッピングと代替医療とを検討しましょう。
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