12. 症状を整理する

文字数 1,617文字

 (1.より要約の引用 再掲)
 こうして年末になり、義弟にはまるで死人のような、と評される。夫人は二人の医師の意見が正反対でよく分からないと言い、友人の医師は「盲腸の中にたった一つ異物がありそれが吸収されれば治る」と言った。一時改善した気がしたが、ある時突然再燃した。更に心臓に鈍痛を覚え、頭がぼやけていた。
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 そして、ついに新しい症状が出てきました。心臓の鈍痛。そして頭がぼやけてくる。

 心臓の痛み、というのは急性心筋梗塞が有名ですが、これは締め付けられるような激しく、鋭い痛みであることが多いです。左肩や背中に痛みが広がることも多いです(放散痛と言います)。ここでは鈍痛ですのでおそらく違います。本当に心臓なのか、という問題も当然あります。前胸部痛の鑑別となれば、心臓だけでなく、肺や食道、肋骨などの病変を考えます。肋間神経痛などもありですね。胆嚢炎や胃潰瘍など、上腹部の臓器も忘れてはいけません。現代では心電図を必ずとります。そして必要なら心臓カテーテル検査です。心筋梗塞などの急性冠症候群(きゅうせいかんしょうこうぐん)(心臓の血管である冠動脈(かんどうみゃく)に由来する)は見逃してはいけません。
 これまでの「遊走腎」「慢性カタル」「盲腸炎」で、胸部の痛みを起こしうるのは、広い意味での「慢性カタル」だけでしょう。特に、胃や食道にも病変を作り得る炎症性腸疾患、代表はクローン病です。でもこれは、以前から指摘の通り便の症状が必発ですので、いくら何でも隠しすぎです。あるいはなんらかの感染症? うーん、病巣が広すぎる。腫瘍や膿胞が大きく成長し、横隔膜を押し上げるようになってしまえば、胸部の鈍痛はあるかもしれません。変な味も胃液の逆流で決まりにできます。でもこれだと腹部の異常な膨らみが見えたり触れたりするでしょうし、行動の制限が生まれそうな気がします。

 そして頭がぼやける。これは難しいですね。腹部や胸部の痛みで意識が遠のくことは十分あるでしょうし、病状を悲観しても同じことが起こり得るでしょう。純粋に病気による症状とすれば、脳腫瘍を再び鑑別に挙げますが、やはり麻痺であったり痙攣であったり、あるいは頭痛といったものですら見られないので、あまり本気で検討はしなくてよいのかな、と思います。それは癌の脳転移でも同じですが、大腸癌なら隣接する膀胱の他、肺転移が多く、いきなり脳転移を考えるのはやりすぎでしょう。胸の痛みが肺転移の症状だとすれば、有り得る線とは言えますが。


 このあとイリイチ氏の死亡まで、新しい症状として特筆すべきものは出てきません。痛みと死の恐怖との闘いが続きます。ということもあり、今回のまとめとして、診断候補の整理をしておきましょう。

 A クローン病などの炎症性腸疾患/食中毒系の腸管感染症
 B 大腸癌を始めとする癌病変
 C 虫垂炎穿孔からの腹膜炎
 D (腸管以外の)腹腔内の膿瘍形成
 E 筋肉や軟部組織の腫瘍(肉腫)

 Eについては、「肉腫」の紹介にとどめていました。これは珍しい病気になります。腹部の筋肉や結合組織と言われるところの細胞が悪性化した状態。例えば腹壁の筋肉も悪性化することはあります。深いところだと表面から観察できないでしょうが、この時点まで来れば何らかのものが腹部に見えてくるでしょう。皮膚の様子がほぼ書かれていないことが大きいですね。
 そしてもう忘れてしまいそうな外傷との関わりですが、DかEなら有りかもしれません。機械的、物理的な損傷を受けて、そこに細菌感染が起こればD、細胞の異常増殖が起こればEです。どちらも珍しいですが、特にEだと証拠を出せれば、現代でも学会報告レベルではないでしょうか。
 お気づきのように、「遊走腎」は挙がりません。厳しく言えば、「遊走腎」は誤診でしょう。「慢性カタル」は、Aに近いと思いますが、Dも解釈次第では含まれるでしょう。Cは7.で検討の通り可能性は小さいですが、まだ捨てきれないかな、と思います。
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