14. 誤診、と断じてみる

文字数 1,526文字

 (1.より要約の引用 再掲)
 発症から三か月がたち、アヘンやモルフィネを使い頭が朦朧とし始めていた。食事は特別メニューになり、排泄には特別な装置を要し他人の手を借りることになった。ズボンを持ち上げる力もなく、足を他人の肩で支えられると楽になった。痛みは片時も休まらず、かかりつけ医と有名な医師の合同診察で、彼らは腎臓と盲腸という臓器を懲らしめ更生しようとし、「回復の可能性はある」と言われている。しかし意識が飛ぶほどの麻酔を打たれる。激烈なものと予測される苦痛を緩和するためにアヘンを使うことは可能、と夫人は説明を受ける。その後意識は保ちながら三日間叫び続け、一八八二年二月四日、永眠。

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 いよいよ痛みは片時も休まらなくなりました。普段の医者として、百十ページにようやく名前が挙がるのが、ミハイル・ダニーロヴィチ医師。この方がかかりつけで往診もされています。そして夫人はある有名な医師にも往診をお願いしました。文脈からは、レシチェンスキー医師でもニコラーエフ医師でもなく、これまで登場していない人物のようです。この有名な医師とダニーロヴィチ医師が患者であるイリイチ氏の前でカンファレンスを行い、「腎臓と盲腸がなにかしら誤ったまねをしてい」て、この二人の医師が「これらの臓器を懲らしめ、更生させようとしている」ということになっています。これまでの考察で腎臓は原因ではないと我々は考えています。が、結果として腎障害が来ている可能性はあります。盲腸、つまり虫垂炎は否定しきれませんが、一般的に虫垂炎が悪化するときは虫垂に穿孔(せんこう)が生じ、腹膜炎(ふくまくえん)に至るというのは、7.でお話した通りです。腹膜炎になると腹痛はもちろん恒常化しますが、基本的に腹壁が硬くなり(板状硬化(ばんじょうこうか))ますので、身体的な診察で分かります。二人の医師はかなり真面目に身体診察を行っていますので、この所見があれば見逃すはずはありません。先ほどの説明に至るとは思えません。また、腹膜炎になっている腹膜から細菌の毒素(エンドトキシン)や、菌体そのものが血管に侵入し、全身に回ってしまうことでさらに悪化します。細菌が血流に乗って全身に回ることでおこる症状を、敗血症(はいけつしょう)と言います。これは現代でもいろいろな原因で起こりますが、高体温もしくは低体温になり、基本的に血圧は低下していきます。やがて多臓器不全から死に至ることになる訳です。

 が、このイリイチ氏。痛みと衰弱は激しいのですが、体温の変動や血圧の低下を思わせる記載は皆無です。血圧低下の自覚症状は難しいですが、心拍数が上がり(頻脈により動悸がでるかも)、意識レベルは低下していきます。イリイチ氏は時々朦朧としていますが、強い痛みと痛み止めの作用のようです。
 となると、ここでの二人の医師による合同診察は、依然として誤診ではないかと思える訳です。でもまあ、「回復の可能性はある」と言われれば、期待もしますね。もっともこの二人に限らず、登場した医師はしっかり診断できていません。イリイチ氏自身の葛藤はまだまだ続くのですが、それは本稿の範囲外ということで。


 でも確実に衰弱は進みます。こうなるとあとは、医療的には痛みをコントロールして死を待つ、ということになってしまいます。現代でも胃瘻(いろう)を作るとか、中心静脈カテーテルから栄養を入れるとか、そういう話になるのですが、これは難しいですよね。
 診断が分かれば、原疾患(げんしっかん)の治療は続けたいところです。でも末期の状態では、原疾患の治療はむしろ徒労、苦痛の上塗り、ということになりかねません。乱暴にまとめると、もう何が原因でもやることは同じです。

 じゃあ、診断は何なんだよ? と思いますよね。
 次回は強力な助っ人が登場します。


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