6. 「慢性カタル」について考える

文字数 2,267文字

 4.でイリイチ氏が医師から告げられた病名のうち、今回は「慢性カタル」について考えたいと思います。

 さて、「慢性カタル」。何のことでしょう? 「慢性」というのは「急性」の対義語ですが、どの時点で急性から慢性に切り替わるか、は病気によって違います。例えば腎不全なら、腎機能障害が三か月続くと「慢性」です。膵炎だと、期間は決まっておらず、急性膵炎に罹ったことがあって(既往がある、といいます)、慢性膵炎に特徴的な画像(CTやMRI)、組織像(取ってきた膵臓の断片を顕微鏡で観察)が見つかれば「慢性」膵炎です。一般に「急性」の方が激しい症状ですが、回復の見込みもあります。
 そして問題は「カタル」です。今や文学作品か温泉の効能書きくらいでしかお目にかからない単語になっているのではないでしょうか。あっ、眼科では「春季カタル」という病名が現在も使われているように思います。この画像を検索していただくと「カタル」のイメージが湧きやすいと思いますが、慣れていない方は閲覧注意だと思います。Wikipediaによると「カタル」とは「感染症の結果生じる粘膜腫脹(ねんまくしゅちょう)と、粘液と白血球からなる濃い滲出液(しんしゅつえき)を伴う病態」。合ってると思いますが、要するにバイ菌が入って膿が出来ている状態。周りが赤く腫れますよね。「炎症」に近い意味と考えていいですが、「炎症」は原因を感染に限るものではありません。

 病名は時間(「急性」/「慢性」)、場所(「大腸」や「腎臓」など)、何が起きているか(「―炎」や「―癌」など)と付けるのが分かりやすいのですが、ここでいう「慢性カタル」は、場所が不明です。どこかに慢性化した感染がある。これなら大概診断としては当たるのではないでしょうか? こういうのを一部の現場では「ゴミ箱診断」と揶揄(やゆ)したりしますが、それは余談です。イリイチ氏の状態から考えるに、その場所は、腹部であると考えてよいでしょう。個人的には「口の中の変な味」に物凄く引っかかりがあるのですが、これも脳や口腔周囲の「慢性カタル」が原因だと言えなくはない……。

 カタルが腹部に起きているとすれば、一番有り得るのはやはり「腸」。大きく分けて「小腸」と「大腸」。「胃カタル」という文字も見たことはあります。さて、現代。これらの存在の有無については、エコーやCTである程度分かります。CTで被ばくするまでもなく、腸管内に何かありそうだな、と思えば消化管内視鏡検査でしょうか。いわゆる胃カメラ、大腸カメラ。その間にある小腸は、内視鏡では入って行きにくく、かつてはバルーン内視鏡という風船付きの長い内視鏡で小腸を畳みながら観察……をやっていました。最近はカプセル内視鏡を飲み込んで、便と一緒に出たカプセルに保存されている画像を確認する方が主流でしょうか。これらで消化管の内部をしっかり観察して診断をつけることになるでしょう。

 もっともその前に、便の検査です。「カタル」は感染症が原因。ここではウイルスではなく細菌が主に想定されます。ウイルスだけで膿が形成される、というのは考えにくいのです(「コロナ菌」とか言う人は、信じないほうが無難)。そもそも腸内細菌という多種類の細菌と我々は共存しているのですが、病原性のある細菌が増殖してしまうと腹痛、下痢、血便、嘔吐、高熱などの症状が出てくる訳です。(オー)一五七を始めとする病原性大腸菌、赤痢、サルモネラ、カンピロバクター。腸カタルの原因として十分ありえます。コレラもそうか。胃の慢性カタルなら、ヘリコバクター・ピロリもそうかもしれません。なので、便の状態、頻度、血液の有無を確認し、細菌培養という検査で、通常の腸内細菌以外に狙った菌が生えてくれば確定診断です。
 しかし本作品、便についての記載が皆無なのです。もし便が全く異常なし、なのであれば、少なくとも「慢性カタル」の部位は消化管ではないでしょう。消化管以外の腹部臓器に「カタル」を作るとなれば、まずは腎臓や肝臓です。腎臓なら前回以上に尿検査が重要です。まず間違いなく尿に白血球が混じっているでしょう。肝臓に膿、というと「肝膿瘍」という名前になりますが、これは「発熱」「右わき腹の痛み」「肝腫大」という症状。進行しないと分からないかもしれません。原因で有名なのは赤痢アメーバという寄生虫。不衛生なところで飲水すると、今でも感染しうる。また肛門と口とを使った性行為でうつります。日本でもまだ感染者がいるので、知っておいて損はしないでしょう。これは腸炎のところで紹介した「赤痢」とは別物ですが、最初はやっぱり下痢など消化管の症状があるはずです。イリイチ氏のケースだと、痛みが先行した、という解釈になるのでしょうか。うーん。あと、腸腰筋(背骨と骨盤、大腿骨までを繋ぐ筋肉群)に膿瘍を作るなどもあり得ますが。痛いのは背中、になるよなあ。

 そして腸管に戻りますが、安倍元首相も治療中の「潰瘍性大腸炎」。潰瘍性大腸炎は大腸だけに起こる慢性炎症ですが、口から肛門まで広がり得るのが「クローン病」。おっ、こうした炎症性腸疾患の可能性はありそうです。クローン病なら、口腔内に病変ができてもおかしくないですし。でも、やっぱり、便の様子が知りたいです。頻回の下痢・血便で体重が減っていれば、これかもしれないです。

 ただ、「わき腹を打った」がだんだん無関係な出来事になってきました。きっかけにはならないと思うのですね、さすがに。文豪は、これを知っててトリックを仕組んだのでしょうか? 謎だ……。次回は「盲腸炎」を考えます。
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