第8話 何も要求しない女

文字数 1,565文字

 要は私に何も要求しない。同伴出勤を頼まれたこともなければ「プレゼントが欲しいの」とねだられたこともない。「お店に来て」という営業電話や営業メールもない。私が店に行けばいつも大歓迎してくれるし、帰り際には、「またいらしてね?」と笑顔で言ってくれるのだが。
 私が店に行った翌日には必ずお礼のメールが送られてくる。前夜私と交わした会話について触れ、最後に「またのご来店を心よりお待ちしております」という言葉は必ず添えられてはいるのだが、要は決してそれ以外のタイミングで来店を要求してくることはなかった。

 あれは要に出会ってから二カ月後のことだ。私が店に通うようになっても要がまったく営業をかけてこないのでなんだか不安になり、思い切って理由を尋ねたことがある。
「要ちゃんはどうして僕に営業をかけてこないの?」
「え? 私、営業は毎回してますわよ?」
「いや、営業なんて一度もされてないよ」
「いえいえ、してますよ、毎回」
「いやいや、されてないよ、全然」
 話が噛み合わない。
「んー……。ご来店いただいた翌日にはお礼メールに『またのご来店を()()()お待ちしております』と書いてますでしょう?」
「うん。それで?」
「あれが、営業です」
「え?」と私が言うと、要は私の目をまっすぐにみつめたまま、コクッと小さく頷いた。何かを訴えるような何かを察してほしそうな目だ。
「……、いや、僕が聞いてるのは営業トークじゃなくて『営業』だよ。来店を催促するような電話とかメールとか」
「私の『営業』はお礼メールだけですわ」
「だけ?」
「ええ。何かイベントでもあれば別途ご案内はしておりますけど」
「いや、あれは『営業』じゃなくてお礼メールに必ずつける単なる営業トークでしょ」
「それが、必ずではありませんの……」
 つらそうに首を左右に振りながら要は言った。
「どういうことかな?」
「本来は全員にそう書くべきなんでしょうけど……」
「じゃあ、文末の『またのご来店を心よりお待ちしております』という営業トークを書かない相手もいるってことかい?」
「ええ。私、心にもないことは絶対書かないんです。嘘はつきたくないんです」
 要は申し訳なさそうな顔で白状した。
「あれはほんとにそう思ってるお客さまにしか書かないんです。だから単なる営業トークじゃなくて()()なんです。本心だから『()()()』と書いてるんです」
「え、ほんとに?」
「今から言うことはどうかママにはご内密にお願いしますね?」
 私が頷くと要は私の耳元に唇を寄せ、小声で言葉を続けた。私は小さく頷きながら聞いた。
「中には、二度と来てほしくないお客さまもいらっしゃるので、そういう人には、『()()()』なんて大嘘は、書けないんです」
「えぇ? ほんとかなぁ?」と語り終えた要を尚も疑うと、彼女は悲しそうに小さなため息をついてから自分のスマホを取り出し、送信先の名前を指で押さえて見えないようにしながら他の客への送信済メールの画面を見せてくれた。
 そこには「昨夜はご来店ありがとうございました」とは書いてあるものの、私へのメールの文末に毎回必ず書いてある「またのご来店を心よりお待ちしております」という文言はなかった。
 私は営業をかけてこない要のことを『何が魂胆なのだろうか』と疑っていた。要には何の魂胆もなかったのに。私は要の純粋さと正直さに胸を打たれ、そんな要を疑っていた自分を恥じた。
 私へのお礼メールの文末の文言『またのご来店を()()()お待ちしております』は単なる営業トークではなく、()()だったのだ。要は本当に心から私の来店を望んでくれていたのだ――。
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