第20話 癒やしてくれる女

文字数 1,036文字

 私は今夜も要の温かい心遣いと明るい笑顔と優しい声と愉快なジョークと知的好奇心を刺激される会話によって癒やされ、リフレッシュして、入店から二時間ほどで店を出た。クラブは五分で帰ろうと開店から閉店まで居座ろうと料金は同じだが、クラブに二時間以上居座るのは野暮というものだ。この暗黙の了解を知らずに長々と居座り続ける男は出世しない。

 帰り際、要がマフラーを首にかけてくれた。
「やっぱり、とっても似合ってらっしゃるわ」
「毎日、使ってるよ。要ちゃんにあっためてもらってる気分だ」
 少し照れ臭いが自分の素直な気持ちを伝えた。
「そう思っていただけたら嬉しいわ。シーズン終わりにはクリーニングにお出しになってね。来シーズンも使えるように」
 要は私の気持ちを笑ったりからかったりせずに受け止めてくれる。だから私は怖れずに本音を言うことができるのだ。要の前では自分を偽らずにいられる。
「うん、ちゃんと手入れして長く使うよ」
「はい。またいらしてね?」と笑顔で言ってくれた。
「うん。また来るよ」と答えると要は嬉しそうに、「お待ちしております」と答えてくれる。私の至福の一時である。
 私は新橋方面へ歩き出す。しばらくして振り返ると、私の背中を見送ってくれていた要は手を振ってくれるのだ。私は手を振り返す。そして再び歩き出すが、今度はもう振り返らない。要の姿が消えていたら淋しくなってしまうから。要はいつまでも私の背中を見送ってくれている。そう思いながら振り返らずに帰るのだ。

 ああ、私は……! 本当は、不安で仕方ないのだ。会社の経営が火の車なのだ。オーストラリアの別荘を売却しなければならないかもしれない。事態はかなり切迫している。何も知らないワイフはいつも幸せそうだが、どう説明したら良いというのだ……。
 クラブの経営と会社の経営はまったく違うから、『アール・ヌーヴォー』のママに相談してもどうにもならない。もしそんなことをして、私が経営難に陥っていることが要の耳に入っては困る。要には絶対に知られたくないのだ。
 合理主義者で自分の利を求めない要なら、きっとこう言う。「でしたらまず、うちのお店に通うのを()めましょう」と。自分の売上が落ちるとわかっていても、私のために来店を止めるように言う。要はそういう女だ。
 それだけはいやだ。つらい現実をつかの間忘れるために、要に癒やしてもらうために、私は『アール・ヌーヴォー』に通わずにはいられないのだ。

(了)
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