第10話 美味しそうに呑む女
文字数 1,780文字
並木通りに面したテナントビル一階にある『アール・ヌーヴォー』の流麗な彫刻が施された木製の扉を開けるとなじみの黒服がうやうやしく出迎えた。
「いらっしゃいませ、松山さま。お待ちしておりました」
「やあ、こんばんは。もうお客さん入ってる?」
「いえ、松山さまが一番乗りです」
「ああ、そうなの」
店内に一歩入っただけで暖かく、ふんわりと漂う清々しい大白百合 の香りもあいまって一気に緊張が緩む。私はコートとマフラーと鞄をクロークに預けた。
「ご案内いたします、どうぞこちらへ」
広いフロアに入るとチーフがカウンターから「いらっしゃいませ!」と声を上げ、それを号令のように待機していたホステスたちが一斉に立ち上がり、私に向かって深々とお辞儀をする。店内の黒服たちも同様、私に向かって深々とお辞儀をした。
ここ『アール・ヌーヴォー』は大箱のクラブで、絨毯はオパールグリーン、ソファと建具や木製品は明るいブラウンでコーディネートされている。店内は十九世紀末から二十世紀初頭までヨーロッパを席巻した新芸術 調で統一され、フォーカルポイントとなっているオーク材の飾り棚には、植物を思わせる流れるような曲線が特徴的な彫刻が施されている。
もちろんその中には、イタリアのヴェネツィアングラスやフランスのバカラグラス、アール・ヌーヴォー期とそれに続くアール・デコ期のガラス工芸家ルネ・ラリックのグラスなど、宝石のように美しく価値のあるグラスが磨き抜かれ、飾られている。
一点何百万円もするエミール・ガレやドーム兄弟らの手によるキノコのようなフォルムのガラス製のランプが店内のあちらこちらに置かれ、何色もの色ガラスを通して幻想的な光を放っている。
そしてオフホワイトの壁では、ミュシャの精緻な筆使いによって描かれた女神のような美女たちがそれぞれ金色の額縁の中に納まり、各々がこちらをじっとみつめていたり微笑んでいたり遥か彼方をみつめていたりうっとりと目を閉じていたりする。
店内中央には白いグランドピアノが置かれ、夜 ごと老練なピアノ弾きが軽快なシャンソンや洒落たフランス映画のテーマ曲を奏で、非 日 常 の空間を演出するのだ。
要がチーフに連絡してくれているので私のテーブルがすでに用意されており、本の形をしたブランデーのボトルが置かれているのが見える。鮮やかなピンクの薔薇の一輪挿しと共に。「薔薇色の人生」と聞いて思い浮かべるような華やかなピンクの薔薇だ。他のテーブルにはない。私のテーブルだけだ。
私は革張りのソファにゆったりと座る。眼前のテーブルには、誂えたように私の掌にしっくりとなじむ丸いブランデーグラスと要のお気に入りのショットグラス。
要はこのフクロウが浮き彫りされたように見えるルネ・ラリックのグラスでジンを呑むのが好きで、私はそのグラスで美味しそうにジンを呑む要を見るのが好きだ。
だから要のためにシュリヒテ=シュタインヘイガーというジンをボトルキープしたのだ。無色透明で乳臭さも酸味もないのに、なぜか乳製品のようなまろやかな味がする不思議な酒だ。アルコール度数が高いため凍らないこのジンは冷凍 庫で保存するのだが、ボトルをテーブルに置いておくとぬるくなって美味しくなくなってしまう。
そこで気を利かせたチーフがシャンペンのようにこのジンのボトルを氷につけてテーブルに置いてくれるようになった。こうするとテーブルの上が華やぐので、「なんだかシャンペンみたいで素敵ね」と要が喜んでくれたのを思い出す。
しかし、この素晴らしい人生を暗示させるようなこの美しい薔薇は一体……。花びら一枚一枚の縁 が裏側へとゆるやかにカールしている。そんな花びらたちで構成された一輪の薔薇は、神の手による美術品のようだ。作品名は『素晴らしき哉、人生!』というところか。嗅いでみると甘い中にも爽やかな清々しい香りがした。
「この薔薇は要さんからですよ」
挨拶しに来たチーフが教えてくれた。
「花言葉は『感謝』だそうです。『お食事に誘ってくださってとっても感謝してる』と云ってましたよ」
グラスにブランデーを静かに注ぎながらチーフが言った。要のまごころに胸がいっぱいになった。
「いらっしゃいませ、松山さま。お待ちしておりました」
「やあ、こんばんは。もうお客さん入ってる?」
「いえ、松山さまが一番乗りです」
「ああ、そうなの」
店内に一歩入っただけで暖かく、ふんわりと漂う清々しい
「ご案内いたします、どうぞこちらへ」
広いフロアに入るとチーフがカウンターから「いらっしゃいませ!」と声を上げ、それを号令のように待機していたホステスたちが一斉に立ち上がり、私に向かって深々とお辞儀をする。店内の黒服たちも同様、私に向かって深々とお辞儀をした。
ここ『アール・ヌーヴォー』は大箱のクラブで、絨毯はオパールグリーン、ソファと建具や木製品は明るいブラウンでコーディネートされている。店内は十九世紀末から二十世紀初頭までヨーロッパを席巻した
もちろんその中には、イタリアのヴェネツィアングラスやフランスのバカラグラス、アール・ヌーヴォー期とそれに続くアール・デコ期のガラス工芸家ルネ・ラリックのグラスなど、宝石のように美しく価値のあるグラスが磨き抜かれ、飾られている。
一点何百万円もするエミール・ガレやドーム兄弟らの手によるキノコのようなフォルムのガラス製のランプが店内のあちらこちらに置かれ、何色もの色ガラスを通して幻想的な光を放っている。
そしてオフホワイトの壁では、ミュシャの精緻な筆使いによって描かれた女神のような美女たちがそれぞれ金色の額縁の中に納まり、各々がこちらをじっとみつめていたり微笑んでいたり遥か彼方をみつめていたりうっとりと目を閉じていたりする。
店内中央には白いグランドピアノが置かれ、
要がチーフに連絡してくれているので私のテーブルがすでに用意されており、本の形をしたブランデーのボトルが置かれているのが見える。鮮やかなピンクの薔薇の一輪挿しと共に。「薔薇色の人生」と聞いて思い浮かべるような華やかなピンクの薔薇だ。他のテーブルにはない。私のテーブルだけだ。
私は革張りのソファにゆったりと座る。眼前のテーブルには、誂えたように私の掌にしっくりとなじむ丸いブランデーグラスと要のお気に入りのショットグラス。
要はこのフクロウが浮き彫りされたように見えるルネ・ラリックのグラスでジンを呑むのが好きで、私はそのグラスで美味しそうにジンを呑む要を見るのが好きだ。
だから要のためにシュリヒテ=シュタインヘイガーというジンをボトルキープしたのだ。無色透明で乳臭さも酸味もないのに、なぜか乳製品のようなまろやかな味がする不思議な酒だ。アルコール度数が高いため凍らないこのジンは冷
そこで気を利かせたチーフがシャンペンのようにこのジンのボトルを氷につけてテーブルに置いてくれるようになった。こうするとテーブルの上が華やぐので、「なんだかシャンペンみたいで素敵ね」と要が喜んでくれたのを思い出す。
しかし、この素晴らしい人生を暗示させるようなこの美しい薔薇は一体……。花びら一枚一枚の
「この薔薇は要さんからですよ」
挨拶しに来たチーフが教えてくれた。
「花言葉は『感謝』だそうです。『お食事に誘ってくださってとっても感謝してる』と云ってましたよ」
グラスにブランデーを静かに注ぎながらチーフが言った。要のまごころに胸がいっぱいになった。