第5話 天使のような女

文字数 1,376文字

 今年度の売上げも右肩下がりだと言うのに、今日も取引先から取引中止を言い渡されてしまった。こんな日は(かなめ)に会いたくなる。
 夕方、電話で要を食事デートに誘ったが、「今日は先約があるんです。残念なんですけど、また今度誘ってください」と天使のような声で断られてしまったのだ。
 たいていのホステスはこういう場合、「今日はちょっと都合が悪いの……」と言葉を濁す。だがそのホステスが他の客と遅くに出勤してくれば、『今日はあの客と同伴出勤だったのだな』とすぐにわかる。だから変な隠しだてをされると気分が悪い。その点、要は正直にはっきりと理由を言って断ってくれるので信用できる。

 私は経営者という立場上、心を許せる人間がほとんどいない。常に警戒し用心していなければ、いつ誰に足を(すく)われるかもわからないのだ。
 学生時代に学友やチームメイトたちから出し抜かれた経験から、私は用心深い性格になった。人からの信用を得るために誠実にふるまってはいるものの、私自身は他人をあまり信用できないでいる。学生時代の苦い経験から他人を信じることがすっかり怖くなってしまったのだ。
 もし誰かを全面的に信用してしまったら、本音を吐露してしまったら、私はすべてを失ってしまうのではないか――。そんな不安を(かか)えて生きている。
 仕事で成功するための一種の政略結婚だったので、ワイフにも醜い本音は決して言えない。もしワイフに愛想を尽かされたら会社が倒産しかねないからだ。だが要のことは信用できるので要の前でだけは安心していられるのだ。

「今日は同伴ですので八時半までに出勤します。それより早めにいらしてお待ちいただくほうが確実にお席に着けますわ」
 私が尋ねるまでもなく、要は必要な情報を教えてくれた。耳の穴の毛の一本一本を愛撫するような心地好い要の声にうっとりしながら私は答えた。
「じゃあ八時頃、先に行って待ってるよ」
「はい、その旨チーフに申し伝えておきます。お誘いありがとうございました。お店でゆっくりお話しましょうね?」
 要は電話口で無駄なお喋りは一切せず要点を簡潔に言ってくれる。と言ってもビジネスライクで情緒がないというわけではなく、カシミアのように暖かく柔らかく私を包み込むように話すのだ。

 要との電話を切り、自宅に電話するとワイフが出た。
「今日は銀座に行くから遅くなるよ」
「ハーイ、わかりました。浮気しちゃダ・メ・よ?」
「バカだなあ、するわけないだろ?」と笑いながら答える。
「わかってるわよ、言ってみただーけ♪」
 脳天気なワイフとのいつものやりとりである。
「十一時には帰るよ」
「ハーイ」
 このように私が「銀座に行く」と早めに連絡しておけば、ワイフは接待だと思って何も文句は言わない。それから一時間ほど残業した後、最寄りの「長寿庵」から旨味たっぷりの鴨南蛮そばと柚子香る浅漬けの出前を取ったのだった。

 腹ごしらえを済ませた私は、銀座に向かうため会社を後にした。秋も深まり夜風が身にしみる頃だ。首にかけていただけの白いカシミアのマフラーを巻きつけ、最寄り駅までの銀杏(いちょう)並木道を歩いた。夜目(よめ)にも美しい黄金色(こがねいろ)だ。晩秋、この黄金色のトンネルを通り抜けるようになって、もう十五年になる。
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