第1話 ウェディングドレスで微笑む女

文字数 1,576文字

 銀座方面に向かう電車に乗り込むと、勤め帰りの人々でほどほどの込み具合。特に変わった様子もなく、平和で平穏で何よりだ。電車は滑るように走り出し、規則的で単調な揺れと静かな走行音が心地好さを生む。
 車窓には立っている私の上半身が鏡のように映っている。同年代の男に比べると長身、骨太。健康だけが取り柄で、風邪以外の病気はしたことがない。顔は漫画の巨匠・手塚治虫に似ているといわれる。
 大学は中堅私立の経済学部でラグビー三昧だったため、学問と就職活動を疎かにしていた。四年生になってから後悔したが後の祭りだった。バブル経済期だったのにまともな就職先がなかったのだ。
 私が就活を始めたのは四年生の秋になってからだった。ゼミの学友たちは早々に就活を開始していたらしく、私の知らないうちにほとんどが就活を終えていた。私は完全に出遅れてしまったのだ。それに大手企業はとうに募集を終えていた。中小企業を受けてみたが、うちの大学名だけでは就職に有利とは言えなかった。
 焦った私はチームメイトたちに就活状況を尋ねてみた。彼らの話題はいつもラグビーのことかこのあと何を食べるかばかりで就活のことなんか一切口にしなかったのに、コネのある者は縁故採用、成績優秀者は教授の口利き、利用できるものは何でも利用して皆、とっくに就職先をみつけていた。
 ラグビーばかりしてないで、しっかりと勉強や就活をしておけば良かった……! 何度後悔したことだろう。やっと小さな呉服問屋から内定をもらっても、ずっと私は後悔し続けていた。
 付き合っていた彼女は、一流企業に就職して疎遠になってしまった。数年後、会社の先輩と結婚した彼女からウェディングドレス姿で幸せそうに微笑む「結婚しました」葉書が届いた。

 こんな小さな呉服問屋でサラリーマンなんかいつまでもやっていられない! こんな小さな会社、大手と比べると生涯賃金が低すぎる。このままでは結婚もできない。もし結婚できたとしても、子を設けることはできない。こんな安月給では、子供を大学まで行かせてやることなどできない。
 自分で起業しよう。この呉服問屋を足がかりにして、起業するための手がかりをみつけよう。四十(しじゅう)までになんとか起業しなければ、私は一生独身だ。そんな淋しい人生はいやだ! 私は家族が、愛する者が、愛してくれる誰かがほしい。

 その小さな呉服問屋で私は懸命に働き、社内での信頼を得、全国各地の織元(おりもと)染元(そめもと)、関東一円の卸先(おろしさき)の販売店からの信頼も得、着実に人脈を作った。
 そして、全国に呉服店をチェーン展開する呉服販売会社の幹部の娘と見合い結婚し、子を設けるに至った。この見合いは将来呉服問屋として独立したときに販路を確保・拡大するためのものだった。先に結婚したのは退路を断つためだ。子まで設けてしまったら、もう後には退()けない。
 ワイフが二人目を身籠った。このままサラリーマンでは老後破産必至だ。ワイフと二人の子供たちの存在に背中を押され、私は独立起業したのだ。
 そして十年があっと言う間に過ぎ、舅が自社の関東中部エリアの販売店の仕入先として私の会社を取り立ててくれたおかげもあって経営は軌道に乗り、渋谷の松濤(しょうとう)に家を建て、オーストラリアに別荘を購入した。
『娘や孫たちに豊かな人生を』と願う舅と『自社を発展させたい』と願う私の利害が一致した結果だ。
 ワイフと子供たちを初めてヨットハーバー付きの別荘に連れて行った時、大はしゃぎする子供たちを見ながらワイフは幸せそうに言った。
「私、幸せよ。貴方と一緒になって良かった」
 私も幸せなはずなのに、なぜか気は重く、心は晴れなかった。それは今後もずっと続くローンの返済のせいかもしれなかったが……。
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