②バランゲルフィヨルド

文字数 6,066文字

2015年3月3日

「もしもし?」
 ライチョウのスマートホンにハンメルフェスト極地研究所の所員、ネアから連絡が入った。
「ライチョウ、今どこだ?」
「キルケネス」
「ベルゲンに向かったんじゃなかったのか?」
「もう行って来たよ。再北上したんだ」
「まあいい。お前にフィンランドから連絡があった。オウガンという気候活動家のじいさんだ。わかるか?」
「オウガン?いや、」
「お前がまだ極地研で働いてると思ってたらしい。どうする?」
「とりあえず連絡先教えてくれ。折り返しかけてみる」
 ライチョウはオウガンの連絡先を聞き、後でかけることにした。


 ライチョウとレミンは昨夜ベルゲンを発ち、ノルウェー北部、バランゲルフィヨルドに位置するキルケネスという港町に降りた。機内では熟睡する程の時間はなく、夜も明けきらないうちに到着。キルケネスのホテルでは少し眠ったもののライチョウはまだ起き抜けで、さっきから何回も欠伸をしている。しかしレミンは元気そうだ。
「荒れてますね、海。天気もどんよりして降り出しそうですよ」
「ハンメルフェストとは空の雰囲気も違って見えるだろ。ちょっとグリーンランドと似てると思わないか?」
 二人は砕雪モビルにまたがって、今日の仕事を終えた漁船の並ぶ人気のない港町を眺めた。今後の移動手段として、砕雪モビルをハンメルフェストから二台輸送してもらっていた。
「ええ。極夜明けの、風が強くて雲の流れが早いところも」
「バランゲルフィヨルドは浅くて穏やかな谷だけどな、次の目的地はまさに峡谷だ。フィヨルドの岸にある村へ行く」
「そこには何があるんですか?クレバスの村のような自家発電?」
「砕雪モビルを売りに行くのさ。冬場はスノーモビルでもないと行けないような場所だからな」
 ライチョウは眠気覚ましのために清涼タブレットを数粒口に放り込んだ。
「え!?まさかそのためにここへ!?」
「なわけあるかよ冗談だ。砕雪モビルはついでさ。村はフィヨルドの恩恵を百パーセント受けられる奇跡的な場所にある。さ、行くか」
 砕雪モビルのエンジン音だけが響く港町。レミンは初めての運転に少し緊張の顔を浮かべたが、操作は通常のスノーモビルと変わらない。すぐにコツを掴んだレミンの様子にライチョウは軽く笑みを見せた。キルケネスの雪解けはもう少し先だ。


「フィヨルドの恩恵って何ですか?」
 なだらかな傾斜を伴う雪に覆われたバランゲルフィヨルド。その支流の一つメルゲセイルフィヨルドは全長五十キロ、両端にそびえる崖は海抜五百メートルを超える。キルケネスと村をつなぐ崖に作られた一本道は、スノーモビル一台半程の幅しかなく、対向車を迎え入れる余裕はないに等しい。標高二百メートル近いこの場所で、向かい側から車でも来たらどうしたものかとライチョウは考えずにいられなかった。
「何か言ったか?」
 ライチョウはゴーグルの隙間から入ってくる冷たい風に目を潤ませながら、後ろを走るレミンに大声で聞き返した。
「フィヨルドの恩恵って何ですかって聞いたんですよ」
 レミンもさらに声を張り上げる。
「この辺りは北緯七十度、大昔に存在した陸地の氷河は他所に比べて特別でかかった。で、その氷河が大地を削り取ってフィヨルドと呼ばれる地形ができるわけだが、削り取る時に凄まじいエネルギーが生まれたらしい。他のフィヨルド形成の際には見られない現象だ。そのエネルギーは長い年月、メルゲセイルフィヨルドの湾内に満たされてた・・・って、もう説明がしんどい!着いてからにしてくれ!」
「てことはそこで生まれたエネルギーを何らかの形で電力にしてるんですね!再生可能エネルギーフィヨルド製って感じですかね」
「良いことばかりかどうかはさておき、自然の力だしそう言えるかもな」
 降り積もった雪の下はでこぼこ道が続いている。砕雪モビルはフルパワーで雪を砕き、道を平らにならしながら衝撃を最低限に抑えて走っている。それでもふいに訪れる激しいアップダウン。おそらく雪の下に埋まった大きな石であろう。ガリッという嫌な音と共に砕雪モビルは車体を上下に揺らして乗り越える。
「ああもう!悪路だなまったく!」
 走り始めのうちこそライチョウは砕雪モビルの性能に満足していたものの、すでに一時間以上走っているとだんだんといら立ちが募ってきた。
 標高二百メートルを超えて、ようやく前方が平坦になってきた。赤や黄色のカラフルな色に塗られた家々がポツポツ現れ、雪かきをする村人の姿も見られた。
「やっと着きましたね。風は強いし道は狭くてでこぼこだし、結構きつかったですね。村長大丈夫ですか?」
 レミンがゴーグルを外しながら言った。
「普通のスノーモビルだったらこんな道走れない。住民の足はどうなってるんだ」
 ライチョウは雪かきをしていた女性にグリーンランド環境管理局からの依頼でやって来たことを伝えた。
「グリーンランド?まあ随分と遠くから来たのね。あなた達が代表して極地の村調査をしてるの?温暖化の影響?へえー、そう」
 外からの、しかも外国からの人間が珍しいのだろう。女性は目を輝かせてライチョウとレミンを見た。イヌイットに会ったのは初めてだと言う。
「村の代表の方はいらっしゃいますか?」
「ええ、あの青い屋根のお家。八十近いちょっと昔気質のおじいちゃん」
 二人は女性に案内してもらった家へと向かった。玄関先は雪かきされたばかりのようで、家の横手にはライチョウの腰の高さの辺りまで雪の塊が盛られていた。扉の側に吊るされたかわいらしいベルを鳴らす。家の奥から床を踏み鳴らす音が外まで聞こえてきた。
「はあい。どなたかしら」
 出て来たのは明るい表情をした小柄な女性だった。彼女はライチョウとレミンを見上げると、少し驚いたような顔をしてから、軽く会釈をした。
「突然の訪問失礼します。グリーンランドの環境管理局からの依頼で、極地の村を訪問してお話をお聞きしているんです。主に気候変動に関する、村への影響について。村の代表の方がこちらのお宅だと伺ったもので」
「はあ。主人はいますよ。どうぞお入りください」


「若い頃はオスロやベルゲンで水質調査の仕事をしていたよ。退職してキルケネスにやって来たんだ。しかしフィヨルドの景観に魅せられてね。すぐここへ引っ越してきた。二十年前の話だけどね」
 村長は八十近い年齢だが、彼の妻同様、肌つやの良い快活とした印象の人だった。昔気質という前情報を聞いていたライチョウは気難しい老人を想像していたが、久しぶりの来客が嬉しかったようでニコニコ顔で二人を迎えてくれた。
「キルケネスの方が何かと便利なのでは?冬場は特に」
「生活に必要なものはキルケネスから運んできてくれるさ。今年は特別雪が多かったんだが、例年ならもうちょっと楽に来れる」
 ライチョウとレミンは顔を見合わせた。雪がなくても相当険しい道であることに変わりはない。
「お二方共こんな辺鄙な所まで来てくださって、体も冷えたでしょう。どうぞゆっくりしていってね」
 村長の妻がコーヒーと焼き立てのワッフルを持ってきてくれた。ノルウェーのワッフルはハート型で、それに山羊の乳から作られるブラウンチーズを合わせて食べるのが一般的であった。
「ありがとうございます、ハート型のワッフルかわいくていいですね」
 レミンが言った。
「よかったらこれも。キャラメルソースと、珍しいマケドニア産のとうもろこしジャム、合うわよ」
「マケドニア産!?」
 ライチョウが反応した。
「どうしたんですか?」
 隣でレミンが驚いた。
「・・・いや・・・別に」
「妹が住んでるの。帰って来た時おみやげにもらったのよ」
「いただきます」
 ライチョウはお手製ワッフルを一口食べると、鞄から資料をはさんだファイルを取り出した。ここはメルゲセイルフィヨルドの村。環境管理局の用意した質問リストはA4サイズの用紙一枚。クレバスの細長い村の時にも感じたことだが、質問リストに書かれた質問を潰していくことはあまり意味がないように思われた。回答が欲しいだけならわざわざ足を使って村々を訪問しなくてもいいはずだ。環境問題において北極圏の各地域は国を越えて協力的だとライチョウは思っている。電話でもメールでも、環境管理局が直接やり取りすることも十分できるだろう。けれど今回の調査は極地の村々に実際に足を運ぶことに重きを置いている。質問リストの回答はおまけのようなものだ。現地に住む人と会い、その表情や反応、話の全てから村での生活をこの先維持していく力がどれだけあるか、見極めなければならない。それがライチョウに任された仕事なのだ。
「メルゲセイルフィヨルドのエネルギー生産についてお聞きしてもいいですか?」
「ああ、もちろん。秘密でも何でもないからね。むしろ自慢だよ。口で言うより見た方が早い。お茶をしたら案内しよう」


「随分と都合のいいとこに村があったもんだな」
 ライチョウがレミンに囁いた。
 メルゲセイルフィヨルドの湾奥には海底に沈降するエネルギーを取り出すための、鋼でできた大きな筒型の杭が埋め込まれている。海面から突き出た杭はタービンにつながり、発電機を通って村の全ての家に電気を供給する。
「まるで地熱発電ですね。海底に埋まっているのは地熱ではなく、太古のフィヨルド形成時のエネルギーということですが」
「フィヨルドエネルギーは・・・私らはそう呼んでいるんだけどね、非常に重たいんだ。だから大気中から海へ、海から海底へと沈んでいった。このエネルギーは五十年程前、ハンメルフェスト極地研究所が見つけたらしい」
「そうなんですか?」
 レミンがライチョウに聞いた。
「知らん」
 即答。
「こうやって発電が実用化されたのはほんの五年前なんだよ。それまで村には二世帯しか住んでいなかった。私ら夫婦と、一家四人の、あの白い壁の家だ」
 村長が指で示した先に、白壁の家は見えなかった。おそらく他の家の奥側に隠れているのだろう。
「私らがこの地へ移ってきた二十年前、エネルギーが眠っているという話を聞いてはいたが、興味はなかった。フィヨルドに囲まれて暮らせることが一番の贅沢だったから。電気が通るまでは原始的な生活だったよ。自ら選んでこの地に住んだわけだから、それはそれで楽しめたんだ。だけどさすがに新しい住人はやって来ない。村の存続は諦めていたところで、フィヨルドエネルギーの実用化が決まった。それから少しずつ移住者が増え、今では十世帯が住んでいる」
「セツド村は十二世帯ですよ。そのうち抜かされますね・・・」
「フィヨルドエネルギーは枯渇しないんですか?」
 レミンの囁きをライチョウは無視した。
「今の状態だと少なくとも千年は枯渇しないと聞いている。何せ小さな集落のためだけに供給されてるんだ。村の人口増加もそろそろストップするだろう。もう家が建つ場所がない」
 村長はそう言うと今日一番の笑顔を見せた。
 村の移住者の受入可能数はあとどのくらいか。これは質問リストに載っていた問いだが、ライチョウは今の村長の言葉を回答とみなした。メルゲセイルフィヨルドの村の人口キャパシティーはとても小さいが、少人数だからこそ、おそらく限りあるであろうエネルギーを千年は持続できる。村長はこの技術を自慢だと言ったが、ライチョウは全く感心していなかった。フィヨルドエネルギーが持続可能な開発とは到底言えない。底が見えている資源だ。エネルギーを使い果たした場合、また原始的な生活に戻るのか?それとも三十世紀のテクノロジーに期待するか?あまりに遠い未来のことはわからない。グリーンランドだって千年後どのように変貌していることか。
「しかし懸念もあってな」
「懸念?」
「去年の今頃、珍しいことにバレンツ海からの流氷が流れてきたんだ。えらい細かい流氷がいっぱいな。湾奥に溜まって装置への影響が心配だった。まあ夏には解けたが」
「北極の氷・・・脆くなってるんですね」
 レミンが言った。
「写真はありますか?その流氷の」
 とライチョウ。
「ああ、撮ってあるよ」


 三人は村長の家へと戻り、去年のフィヨルドの写真を見た。
「なんだか気味が悪いだろう?」
 発電装置を取り囲むように、氷の集団が湾奥を埋め尽くしていた。ライチョウは氷の接近写真をじっと見つめた。
「割れ方が変わってますね。ギザギザしてるというか」
「ほんとだ。作られたようにギザギザしてる」
「今年は流れてこなくて良かったよ。時期が関係しているかどうかはわからんがね」
「最後にもう一つ聞きたいことが」
 ライチョウが言った。
「何だね?」
「発電装置によってフィヨルドの景観が損なわれたと思ったことは?」
「もちろんあるよ。実は今も見る度思う。けど、あれのおかげで村に人が増えたから、一方で感謝もしてるんだよ」
「わかりました。ありがとうございます」
 極夜が明けたとはいえ、高緯度の地域は南部に比べて日没が早い。ライチョウとレミンは日が暮れない内に帰ることにした。


「人は可能性を見つけた時、それに蓋をすることはできない」
 ライチョウとレミンは元来た道を砕雪モビルで走っていた。行きよりも風は穏やかになり、幾分会話も楽にできた。
「でも、そうやって技術は進歩してきたし、人の生活も豊かになったでしょう?僕は村にずっと住んでるからイヌイットの昔ながらの生活をしながらも家電だって普通に使うし、ネットがないと仕事が進まない。最近スマホに買い替えもしましたよ」
「たまにさ、昔は良かったなあって思う時ないか?」
「ありますけど、村長は未来指向でしょ。科学の道に進んだんだから」
「仕事でそう考える癖がついただけさ。フィヨルドの景観を損ねるぐらいならあんなもん作ってほしくない」
「ああ、最後の質問・・・僕もそう思いましたけど」
「本音はな。住んでないやつは大抵そう言うさ。観光客目線で・・・ってあー!忘れた!」
「どうしたんです?」
「砕雪モビルの宣伝してくるの忘れた・・・」


 ライチョウとレミンはキルケネスのホテルへと戻った。部屋の窓から港が見える。バレンツ海の北の流氷は不凍港の沿岸部を流れ、バランゲルフィヨルドへと流れていった。一見、自然な現象に思える。北極圏の海の見慣れた風景。しかしライチョウはメルゲセイルフィヨルドの村長が見せてくれた写真から、異様な感覚を抱かずにはいられなかった。やはりあの割れ方は自然とは言い難い。何か上から圧力をかけられたらああなるのではないか。一枚の大きな海氷が、巨大なドリルで何か所も貫かれたような衝撃・・・この表現が最も近いと感じる。
 明日、ノルウェーを発ってスウェーデンへと向かう。窓辺から港を見つめながら、ライチョウの頭の中は流氷から離れ、過去を彷徨いだした。ちょうど去年の今頃、サイガにグリーンランドの実家にラジオゾンデを吊るすよう頼まれた。二週間余りノルウェーを離れグリーンランドへと帰っていた間、一度サイガから連絡が来た。
「気候調査団を打切る?」
 ホニングスヴォーグからの電話だった。
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