2014年3月

文字数 2,156文字

 サイガはホニングスヴォーグのホテルに泊まっていた。大学へは帰らず、明日の朝海水調査用ラジオゾンデを回収しに海へ出るつもりだった。個人のパソコンを開いて今現在のラジオゾンデの位置情報を確認する。バレンツ海の北東部を漂っていた。この辺りの海は春先も凍結したままで、氷の下に隠れたラジオゾンデを取り上げるのは少々厄介だった。そこでサイガはラジオゾンデが南下するよう目的地の設定を加えることにした。これまでは海流にのって漂っていたラジオゾンデが、まるで意思を与えられたかのように自ら動き出すようになる。
 次にサイガは大学と提携している船会社に電話した。北極海を船で航行するための砕氷船をチャーターしなければならない。北極海航路反対を主張するサイガにとって、砕氷船を使う行為は矛盾していると言わざるを得ない。それが研究の一環であったとしても、利用するたびに申し訳ない気持ちでいっぱいになる。それは海と、同じ気候活動をする仲間達、北極で生活する人や生物に対して。そして船で航行するしか選択できない自分自身に嫌気がさした。ライチョウの砕雪モビルのように再生可能エネルギーで動く砕氷船があればと思うが、それはまだ理想の技術だった。
 明日の準備が整うと、サイガは再びパソコンを開いた。自分の持つ海水調査用ラジオゾンデ及びグリーンランドのライチョウの実家の軒先ラジオゾンデのデータを、知り合いの気候活動家に送った。今後観測データが全て彼の元へと送信されるように設定を変えた上で。それが済むとすぐにベッドに入り、布団を頭深くまでかぶって暗闇に潜り込んだ。


 翌朝、迎えの船に乗ったサイガは、目的地に到着するまで船内の個室で過ごした。まだ十代かと思われる若い船員に直に着くことを知らされ、幅の狭い簡易ベッドから起き上がった。手にはかつてグリーンランドのイルリサットで購入したシロカモメのキーホルダーと、ペーパーナイフを持っていた。
 一面薄氷が浮かぶ海を、砕氷船はゴウゴウと激しい音を立てながら進んでいる。船が通ったあとの海面は、まるで一本の道ができたかのようにきれいに氷がなくなっていた。サイガは船のサイドデッキに立ち海氷を眺めていると、船体にはりつくように漂う透明のビーチボールが目に入った。
 海水調査用ラジオゾンデの目的地とは、サイガ自身。正確にはシロカモメのキーホルダーを目指し、ラジオゾンデは航海していたのだった。


 正午を回った頃、先程サイガに声をかけに来た若い船員が船内を歩き回っていた。北緯七十三度、バレンツ海南西部のこの海域周辺に陸地はない。しかし確かに指定された場所に到着したことを知らせようと、船員はサイガを探していた。
「先生!着きましたよ!」
 大声で何度も呼び掛けるが返事はなく、姿も見えない。部屋にはいなかったし、すでに船上を何往復かしている。若者は溜め息をついてサイドデッキで足を止めた。するとデッキの手すり下に何かが落ちていることに気が付いた。それを拾いに行こうとした時、西側の海で海面から突き出る黒いものが視界に入った。
 クジラだ。


 航海に出て今まで二度、クジラに遭遇したことがある。今回で三度目。船乗りの先輩達はもう何度も見ていて北極では珍しくもないと言うが、若い船乗りにとってクジラは海の王様だった。何度見ても飽きる気がしない。ナガスクジラやホッキョククジラほど大きくはなさそうなあれは何という種類だろうか?
 しばらくの間手すりに寄りかかって海を眺めていた。薄氷のバレンツ海を泳ぐクジラは、その姿形の全容を見せることなく、砕氷船からしだいに遠ざかっていった。
 クジラの見えなくなった海を見つめ、余韻に浸りながらも次に起こる変化を期待した。
「おおい!先生は見つかったか?」
 突然の呼び掛け。我に返った若者はサッと手すりから離れた。船長がサイドデッキの端からこちらに向かって歩いてくる。
「いえ、いらっしゃいません」
 若者は先程まで緩んでいたその表情に、緊張の色を浮かべて答えた。
「何だ?キーホルダー?」
 船長は手すり下に落ちている鳥のキーホルダーを拾った。
「シロカモメか」
「船長、あれは・・・」
 若い船員は舷側(げんそく)に密着するように漂う透明の袋を指して言った。それはまるで破れたビーチボールのようだった。船長はキーホルダーを手に、海上に浮く透明袋に目を凝らした。
「・・・あれを拾うんだ」
 かすれた小さな声は震え、船長の顔色はみるみる蒼白になっていった。
 若い船員は柄の長い網を使って透明袋をすくい上げた。みじめにしぼんでいるが、ビーチボールよりずっと丈夫な素材でできている。元の形状はやはり球体のようであった。破れた部分の反対側にくっついている銀色の金属部分が少し重みを加えている。
「刃物・・・で切ったのか?相当強く突き刺さなければ破れないだろう」
 若い船員は船長の言葉を否定したかった。サイガが行った行為であるかのように聞こえるその言葉を。
 船がもうじき着くことを知らせるためサイガの部屋の外から声を掛けた時、砕氷船の氷を砕く音がうるさくて、返事はあったかもしれないが扉の向こうから何も聞こえてはこなかった。しかし確かに彼はそこにいたはずだ。あの時まだ、彼は生きていたのに・・・何故今いないのだ。

 2014年3月
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