フィンランド クオピオ(2)
文字数 2,549文字
2015年3月7日
早朝、ライチョウとレミンはキルナ空港からフィンランドへ向かう便に乗り込んだ。オウガンの住むクオピオへは首都ヘルシンキでの乗り継ぎが必要となる。飛行機での移動に苦手意識が芽生えていたレミンを気遣って、ライチョウはヘルシンキで一泊しようかと提案した。
「オウガンさんに会いに行くのは一日でも早い方がいいでしょう」
とレミンは言ったが、それは本心と言うより一泊する金銭的余裕がないことを知ってしまったがための “気遣い返し” であった。
クオピオに到着したのは日没前だった。結局オウガンに会うのは明日になりそうだとレミンに言って、ライチョウはスマートホンの電話帳を開いた。
「もしもし?」
「おお、ライチョウ君!今どこからだい?」
オウガンの張りのある声は八十歳を越えているとは思えない。ライチョウは先日彼と初めて電話で話した時からそう思っていた。
「クオピオです。今空港からなんですよ。今日はもう時間が遅いので明日、そちらにお伺いしようと思っているんですが」
「もう着いたのか!思ったより早いな、旅は順調かい?」
「ええ。まだ目的地は残ってますけど」
「そうか、いや、私は今からでもかまわんよ。車で迎えに行けたらいいんだが、もう何十年も前に乗らなくなったもんでな。空港から我が家まではタクシーで三十分足らずだよ。宿が決まってないなら今日はうちに泊まればいい」
「えーっと・・・今からですか・・・」
ライチョウの頭の中は今からオウガンと会って話すことより、今夜の宿代が節約できるかもしれないということに意識が向いていた。
「わかりました、宿も決まってませんので今から向かいます」
「えっ!?」
隣で聞いていたレミンが驚いてライチョウを見た。
「はい・・・はい・・・劇場の裏ですね。ではタクシーで向かいますので・・・」
通話を終えたライチョウはレミンに向き直って言った。
「今から行っていいってさ。しかも今夜は泊めてくれるらしい」
「ほんとですか?あっ、でもちゃんとお礼はしましょうね。礼儀知らずだと思われないように」
「わかってる。タタで泊めてもらおうとは思ってない」
歌劇場では今夜クラシックコンサートが予定されている。海外から有名なソプラノ歌手を招いての公演を観に、フィンランド各地から観客が訪れていた。この歌劇場を一目見ておこうと、二人は目的地のオウガン宅の手前でタクシーを降りていた。薄明の中煌々と輝くイルミネーションを前に、ライチョウはサイガのことを思った。オウガンと気候活動を通じて親交があったなら、サイガもここへ来たことがあったかもしれない。どんな音楽を好んで聴いていたのか、はたまた興味がなかったか、ライチョウは知らなかった。もし彼が生きていたら、サイガは自分をこの場所に連れてきてくれただろうか?
「オウガンの家は反対側の通り、劇場の裏だ」
「・・・村長、今別のこと考えてましたね?」
レミンの一言にライチョウはドキリとした。サイガのことを考え出すと心ここに在らず、誰かと一緒にいることを忘れてしまう。しかしレミンにはそれを悟られないようにしているつもりだった。
「劇場のイルミネーションに見とれてただけさ」
二人は歌劇場の正面にある大通りを左折して、民家の立ち並ぶ通りへ回った。北極圏より南に位置するクオピオの三月はまだ厳しい寒さがつづいている。容赦ない寒風が時折吹いては、町中に深く積もる雪を巻き上げた。ライチョウは「フィンランドでは砕雪モビルは必要ないからハンメルフェストへ送り返す」(本心は今後の輸送費用を浮かすために) と判断したことを少し後悔していた。
ビニールハウスのある庭がオウガン宅の目印となっていた。雪で覆われた庭に建つ温室の中は暗く、何を育てているのかは見えないが、地面に突き刺さる立て札には “カチの家” と書かれている。
インターホンを鳴らすとすぐに玄関扉が開けられた。門扉から玄関ポーチまでは数メートルの距離がある。老人は扉から顔だけ出して若者二人を交互に見た。ライチョウは目が合うと軽い会釈をした。きっとこの人がオウガンに違いない。
「こんばんは、ライチョウです」
オウガンはかけていた眼鏡を額の上に乗せてニッコリと笑った。
「よくぞ来てくれた!どうぞ入ってくれ」
電話で話した時と同じ、張りのある若々しい声でオウガンは勢いよく家の中から外へ出た。赤と緑のクリスマスカラーのセーターが雪の白によく映えている。
「妻は友達と旅行中でね、三週間ギリシャに行ってるんだ。子供達は皆ヘルシンキに住んでいるし、今この家には私だけなんだよ」
室内はとても暖かかった。廊下に設置されたスピーカーから微かにピアノ演奏が聞こえてくる。リビングの中央には大きな白樺のテーブルがあり、夕食の皿やグラス、カトラリーがセッティングされていた。隣接するキッチンからは食欲をそそるいい香りが漂い、少し暗めの照明がライチョウとレミンの気持ちをリラックスさせてくれた。しかし何よりも二人の興味を引いたのは、部屋の隅に畳んで立て掛けられたテントと小さなハンモックだった。それにランタンや折り畳みテーブル、バーナーといったキャンプ用品。床に寝ている三脚はおそらく天体望遠鏡用と思われた。
「すまんね、置き場がなくてな。孫が毎年夏にキャンプをするんだ。自分の家はマンションで狭いからうちに置いてくれとさ。ま、とにかく座って寛いでくれ。今夕飯の支度の途中でね、君達が来るとわかって急いで準備していたんだ。さっきロールキャベツをオーブンに入れたところだよ」
オウガンはエプロンを腰に巻いてキッチンに戻ろうとした。
「すみませんオウガンさん、急に来てご迷惑を。遠慮すべきだったんでしょうが・・・」
「いやいやいや。遠慮なんか無用だよ、私の方が君達を呼んだんだから。旅の順路まで変更させてしまっただろう。申し訳なかった。たいしたもてなしにはならんだろうがせめて食事や寝るとこぐらいは提供させてくれ」
キッチンから雑音を含んだようなメロディーが流れてきた。
「おっと!カボチャだ!」
オウガンは軽快な足取りでキッチンへ戻っていった。メロディーは年季の入ったタイマーのようだ。
「何だか楽しそうだからいいか」
ライチョウがレミンに言った。
早朝、ライチョウとレミンはキルナ空港からフィンランドへ向かう便に乗り込んだ。オウガンの住むクオピオへは首都ヘルシンキでの乗り継ぎが必要となる。飛行機での移動に苦手意識が芽生えていたレミンを気遣って、ライチョウはヘルシンキで一泊しようかと提案した。
「オウガンさんに会いに行くのは一日でも早い方がいいでしょう」
とレミンは言ったが、それは本心と言うより一泊する金銭的余裕がないことを知ってしまったがための “気遣い返し” であった。
クオピオに到着したのは日没前だった。結局オウガンに会うのは明日になりそうだとレミンに言って、ライチョウはスマートホンの電話帳を開いた。
「もしもし?」
「おお、ライチョウ君!今どこからだい?」
オウガンの張りのある声は八十歳を越えているとは思えない。ライチョウは先日彼と初めて電話で話した時からそう思っていた。
「クオピオです。今空港からなんですよ。今日はもう時間が遅いので明日、そちらにお伺いしようと思っているんですが」
「もう着いたのか!思ったより早いな、旅は順調かい?」
「ええ。まだ目的地は残ってますけど」
「そうか、いや、私は今からでもかまわんよ。車で迎えに行けたらいいんだが、もう何十年も前に乗らなくなったもんでな。空港から我が家まではタクシーで三十分足らずだよ。宿が決まってないなら今日はうちに泊まればいい」
「えーっと・・・今からですか・・・」
ライチョウの頭の中は今からオウガンと会って話すことより、今夜の宿代が節約できるかもしれないということに意識が向いていた。
「わかりました、宿も決まってませんので今から向かいます」
「えっ!?」
隣で聞いていたレミンが驚いてライチョウを見た。
「はい・・・はい・・・劇場の裏ですね。ではタクシーで向かいますので・・・」
通話を終えたライチョウはレミンに向き直って言った。
「今から行っていいってさ。しかも今夜は泊めてくれるらしい」
「ほんとですか?あっ、でもちゃんとお礼はしましょうね。礼儀知らずだと思われないように」
「わかってる。タタで泊めてもらおうとは思ってない」
歌劇場では今夜クラシックコンサートが予定されている。海外から有名なソプラノ歌手を招いての公演を観に、フィンランド各地から観客が訪れていた。この歌劇場を一目見ておこうと、二人は目的地のオウガン宅の手前でタクシーを降りていた。薄明の中煌々と輝くイルミネーションを前に、ライチョウはサイガのことを思った。オウガンと気候活動を通じて親交があったなら、サイガもここへ来たことがあったかもしれない。どんな音楽を好んで聴いていたのか、はたまた興味がなかったか、ライチョウは知らなかった。もし彼が生きていたら、サイガは自分をこの場所に連れてきてくれただろうか?
「オウガンの家は反対側の通り、劇場の裏だ」
「・・・村長、今別のこと考えてましたね?」
レミンの一言にライチョウはドキリとした。サイガのことを考え出すと心ここに在らず、誰かと一緒にいることを忘れてしまう。しかしレミンにはそれを悟られないようにしているつもりだった。
「劇場のイルミネーションに見とれてただけさ」
二人は歌劇場の正面にある大通りを左折して、民家の立ち並ぶ通りへ回った。北極圏より南に位置するクオピオの三月はまだ厳しい寒さがつづいている。容赦ない寒風が時折吹いては、町中に深く積もる雪を巻き上げた。ライチョウは「フィンランドでは砕雪モビルは必要ないからハンメルフェストへ送り返す」(本心は今後の輸送費用を浮かすために) と判断したことを少し後悔していた。
ビニールハウスのある庭がオウガン宅の目印となっていた。雪で覆われた庭に建つ温室の中は暗く、何を育てているのかは見えないが、地面に突き刺さる立て札には “カチの家” と書かれている。
インターホンを鳴らすとすぐに玄関扉が開けられた。門扉から玄関ポーチまでは数メートルの距離がある。老人は扉から顔だけ出して若者二人を交互に見た。ライチョウは目が合うと軽い会釈をした。きっとこの人がオウガンに違いない。
「こんばんは、ライチョウです」
オウガンはかけていた眼鏡を額の上に乗せてニッコリと笑った。
「よくぞ来てくれた!どうぞ入ってくれ」
電話で話した時と同じ、張りのある若々しい声でオウガンは勢いよく家の中から外へ出た。赤と緑のクリスマスカラーのセーターが雪の白によく映えている。
「妻は友達と旅行中でね、三週間ギリシャに行ってるんだ。子供達は皆ヘルシンキに住んでいるし、今この家には私だけなんだよ」
室内はとても暖かかった。廊下に設置されたスピーカーから微かにピアノ演奏が聞こえてくる。リビングの中央には大きな白樺のテーブルがあり、夕食の皿やグラス、カトラリーがセッティングされていた。隣接するキッチンからは食欲をそそるいい香りが漂い、少し暗めの照明がライチョウとレミンの気持ちをリラックスさせてくれた。しかし何よりも二人の興味を引いたのは、部屋の隅に畳んで立て掛けられたテントと小さなハンモックだった。それにランタンや折り畳みテーブル、バーナーといったキャンプ用品。床に寝ている三脚はおそらく天体望遠鏡用と思われた。
「すまんね、置き場がなくてな。孫が毎年夏にキャンプをするんだ。自分の家はマンションで狭いからうちに置いてくれとさ。ま、とにかく座って寛いでくれ。今夕飯の支度の途中でね、君達が来るとわかって急いで準備していたんだ。さっきロールキャベツをオーブンに入れたところだよ」
オウガンはエプロンを腰に巻いてキッチンに戻ろうとした。
「すみませんオウガンさん、急に来てご迷惑を。遠慮すべきだったんでしょうが・・・」
「いやいやいや。遠慮なんか無用だよ、私の方が君達を呼んだんだから。旅の順路まで変更させてしまっただろう。申し訳なかった。たいしたもてなしにはならんだろうがせめて食事や寝るとこぐらいは提供させてくれ」
キッチンから雑音を含んだようなメロディーが流れてきた。
「おっと!カボチャだ!」
オウガンは軽快な足取りでキッチンへ戻っていった。メロディーは年季の入ったタイマーのようだ。
「何だか楽しそうだからいいか」
ライチョウがレミンに言った。