フィンランド ビオマサキュラ(1)

文字数 4,134文字

2015年3月8日

 寝台列車スオラビーバは首都ヘルシンキを出発して北上、タンペレ、クオピオ、カヤーニで停車した後、現在クーサモを目指す途上であった。
 南のヘルシンキから終点、北のウツヨキまで二十時間かけてフィンランド国内を縦断する長距離移動列車は、旅の道中数え切れないほど多くの湖と湖水地方の素晴らしい自然の景観を楽しませてくれる。旅疲れしてきたライチョウの心は癒され、一時の間何も考えず解放された気分でいられた。
「村長、十二時ですよ。食堂車でお昼にしませんか?」
 十二両全ての車両を見学し終えたレミンが一般車両に戻って来た。
「ああ。食堂車どっちだ?」
「九号車です。早く行かないと混んできちゃいますよ」
 バーカウンターのある八号車は異彩を放つ空間となっていた。フィンランド出身の若手芸術家達がデザインしたテーブルや椅子、車内の左右と天井に敷き詰められた何十枚もの絵画、客に提供されるグラスやコップはどれも違う形、ここには何一つ同じものが存在しない。複数人で楽しむというより一人で非日常を味わいたい大人のための場所、そんな趣の空間である。
 ライチョウとレミンは九号車へ入った。食堂車は白と緑の色使いで統一されている。フィンランドの冬の森をイメージしたデザインは隣の車両とは随分と異なる印象だった。食堂はすでに混雑していて席もほとんど埋まっていたが、厨房前のカウンター席が空いていたので二人はそこに座った。
「ビオマサキュラの情報に一通り目を通したんだけど」
 ライチョウが目をこすりながら言った。
「どんな村なんですか?」
 レミンの目の前で炎が上がった。厨房ではトナカイのステーキを焼いている。
「バイオマス発電所のある村みたいだ。木質バイオマス、森林の多いフィンランドは木材を燃料にした再生可能エネルギーを多く生み出している」
 ライチョウはメニュー表を見ながら言った。眠気の方が勝っていてあまり腹は空いていなかった。
「新しくできた村なんですよね。発電所は元々あったのかな?」
「発電所も新しい。そこで働く人達が近くに住めるように周辺に家を建てたようだ。つまり発電所ができたと同時にビオマサキュラという村が誕生したってことさ。オウガンは知らなかったけど、北部では発電所ができる何年も前から計画が話題になってて、従業員の募集や移住の支援も行われてたって」
「へえー、大きなプロジェクトだったんですね。村長、何にするか決まりました?」
 ライチョウは軽く済ませようとサンドイッチを、レミンはスオラビーバ名物、ミートボールとサバのトマト煮込みのプレートを注文した。
「ところで今夜はどこに泊まるんですか?ビオマサキュラに宿はあるんですかね?」
「小さなビジネスホテルがあるみたいだよ。出張で訪れる人が結構いるんだろうな」
 ライチョウの前に瓶入りの炭酸水が置かれた。極地研時代によく飲んでいた銘柄と同じものだった。
 二人が食事をしている間、車内では男性シンガーがギターで弾き語りをしていた。三曲披露したうちの一曲は、ライチョウが好きなシルバー・クカヤタの『rhinoceros(犀)』が演奏された。
 サンドイッチは思った以上のボリュームで、ライチョウは満腹になって自分の席へと戻った。レミンは食事の後八号車のカフェバーへ行きたいと言って一人あの落ち着かない空間で過ごしている。酒が飲めない彼はベリージュースを注文し、目が覚めるようなオレンジ色のソファーに座って残りの列車旅を楽しみたいそうだ。


 十五時半過ぎ、クーサモ駅に到着した。ライチョウとレミンはスオラビーバの余韻に浸る間もなく急ぎ足で改札を出た。ビオマサキュラ行きのバス乗り場は中央出口から最も離れた場所にあり、二人が駅を出た時、すでにバスは待機していた。この町のバスは鮮やかなレモンイエローだ。
「レミン、急げもう出る時間だ」
 クオピオの街以上に雪はしっかりと積もっている。重いバックパックを背負って足元に気を付けながら、二人はバス停へ向かった。
「あー、良かった間に合って。村長、列車のドアが開いたら走るぞって突然言うから・・・こんなギリギリだったなんて」
 レミンはブーツについた雪を軽く払ってからバスに乗り込んだ。本気で走るライチョウについて行くのに必死だった。
「到着時間がさ、多分遅れたと思うんだよ。ほんとはもっと余裕があったはずだ」
 バスには他の乗客はおらず、ライチョウとレミンはそれぞれ二人掛けの席に前後になって座った。
「どこまで行きますか?」
 運転手がミラー越しに聞いた。
「ビオマサキュラまで。どれぐらいかかります?」
「約二時間です。出発しますよ」
 バスが動き出した。今日は一日移動で終わる。ライチョウはもう少しゆっくり旅ができるように、予算も日程も考えるべきだったとスオラビーバの中で思考を巡らせていた。
「グリーンランドでシルバー・クカヤタを歌いながら砕雪モビルをかっ飛ばしてた頃が懐かしいよ」
 突然言われたレミンは何の話かわからなかった。
 ついこないだのことだというのに、出発当初は気楽なものだった。環境管理局からの指示を受けて渋々始めた極地村調査、メルゲセイルフィヨルドの流氷、オウガンとの出会い、これは全て偶然なのだろうか?いや、サイガにつながる出来事、サイガのことを知るための旅は、グリーンランドの海辺で熱波を感じた時から始まっていた。流れは間違っていないはず、コイド島へ行ってサイガの足跡を辿れば、きっと新しい情報が得られる。
 北緯六十六度の街クーサモを抜けて、乗客二人だけのバスは順調に北上していった。北へ行くほど雲が多くなり、雪原は空の色を映すかのように灰色がかって見える。先程まで長い間どんな車も見かけなかったが、ビオマサキュラに近付くにつれて何台かのトラックとすれ違った。
「村長!あれ!右です!」
 後方からレミンが興奮した様子でライチョウの肩を叩いた。ライチョウは(いささ)か強めの刺激に眉根を寄せたが、レミンの指し示す方角を見た。
「あれは・・・砕雪モビル?」
 右側前方数メートル離れた雪の上を砕雪モビルが走っている。夕日に照らされた特徴的なストレート型のスキーはバスの中からでも確認できるし、ピーコックグリーンのボディ、あれは企業向けに先行販売したモデルの一つだった。砕雪モビルに乗った人を偶然見るのはライチョウにとって初めてで、熱い視線を向けていると砕雪モビルはスピードを上げてバスから離れて行ってしまった。
 十分後、バスはビオマサキュラの停留所に到着した。周辺を森に囲まれた村の入り口にはバイオマス発電所の小さな事務所がある。二人がバスを降りると事務所から中年の男性が出て来て言った。
「こんにちは。バイオマス発電所の村へようこそ。発電所へ行かれますか?」
 男性は警備員の制服を着ている。村へ訪れた者全員に声をかけているのだろう。村の住民は皆発電所の関係者で、来客もほとんどがビジネスでやって来る。まるで村そのものが会社のようだとライチョウは思った。
「 “モウコ” という人に会いに来たんですが」
 ライチョウが告げるとレミンの脳内にはてな?が浮かんだ。初めて聞く名だ。
「モウコ博士ですね。先程帰って来られましたが、発電所ではなくおそらく研究所かと」
「さっき帰って来た?もしかして砕雪・・・スノーモビルに乗った?」
「ええ、その方です」
 ライチョウは警備員から “モウコ” の研究所の場所を教えてもらった。村の中へ入ろうと足を踏み出した時、
「肝心なこと忘れてた。すみません宿泊できる所ありますよね?」
 ライチョウは振り返って警備員に尋ねた。
「村の南側にビジネスホテルがありますよ。朝食がおいしいとなかなか評判なんですよ」
 警備員は柔らかな笑顔を見せて答えた。
「ありがとうございます」
 ライチョウとレミンはその場を立ち去り村への雪道を歩いて行った。


「村長、モウコ博士って?」
 レミンが聞いた。
「俺もわからん。資料にこの人を尋ねるように書いてあった。ビオマサキュラの村長というわけではなさそうだ」
「今までの村は村長に話を聞いていたのに、不思議ですね」
「そうだな。おっと分かれ道だ。発電所へ通じる方と集落に向かう方、せっかくだからちょっと発電所を見ていくか」
 ビオマサキュラ木質バイオマス発電所は五年前の2010年に稼働開始した、使われない木材を燃料とすることに特化した発電所である。警備員のいた事務所から歩いて数分、広大な針葉樹の森の中に佇む要塞のように、冷たい鉛色の建物がその全容を現した。正面の巨大な倉庫から大型のトレーラーが出ようとしている。木材を搬入して仕事を終えたドライバーはライチョウ達のそばを通る時『乗っていくか?』という仕種をして走り去って行った。
「迫力ありますね」
 レミンは発電所の煙突を見上げて言った。この時間稼働は止まっているようだ。
「すごいな、自然の中に溶け込まない感じ。でもここで生み出されるのは再生可能エネルギーなんだよ」
 まもなく陽が落ちる。二人は発電所の外観をしばらく眺めた後、枝分かれしていた道へ戻って集落へと向かった。広過ぎる敷地を全て把握するのは何日もかかりそうだ。
 後方を振り返ると発電所にはいつの間にか明かりが点灯していた。ライチョウはホテルを目指す道中、まばらに建つ家々のどこかに砕雪モビルが駐まってやしないかと探さずにいられなかった。自分の開発した商品が異国で使われているなんて・・・こんなに嬉しいことはない。

「ノルウェーの幾つかの会社とか大学・・・はサイガのとこだけだけど、購入してくれたのは知ってたんだよ。しかしフィンランドで売れていたとは」
 ライチョウはホテルのベッドに大の字で仰向けになった。一日がかりの長距離移動の疲れがじわじわと襲ってくる。これまで蓄積されたものにプラスされて。
「何がです?」
 レミンが聞いた。
「砕雪モビルだよ!わかるだろ」
 最初に気付いたのはレミンなのに彼はたいして関心がないようだった。
「さっきの砕雪モビルもどこかの会社が買ったってことですよね、もしかして発電所が?」
「俺もそう思ってる。モウコという人が乗ってたなら随分乗りこなしてる上級者だ」
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