鰹波海水浴場
文字数 8,005文字
右手の親指はカチッカチッと空回りして、力強い手応えが返ってこない。
冬場はこれが困る。スターターを押しても、エンジンがかからない。
「アン!」
アンスリウムが心配げに、悪戦苦闘する一遥に声援を送ってくれている。
チョークを引いて、キックスタートを蹴る。
苦手なんだけどな。
やっぱりプスプス言うばかりで、冷え切ったスクーターのエンジンにはなかなか喝が入らない。
ふわわ。
一遥は欠伸を一つ入れた。
最初は義務的に取り組んでいた紀浦大水害の調べ学習だったが、毎日図書館に通っているうちに、なんだかんだハマってしまった。
やはり身近な地名が色々と出てくると、リアリティを感じられる。
金曜日に首尾よく一冊の文献を借りられたので、昨日の晩も思わず読み耽ってしまった。
「根詰めてなにやってるんだ?」
お父さんが不審げに、しかし嬉しそうに尋ねてきた。
一遥がスマホ画面ではないものに熱中しているのが珍しかったのだろう。
SS紀浦で災害を取り扱うことを報せた。
「高校生で郷土学習をやるのは、小学生とはまた違って良いかもな」
「なんか、子ども扱いしてる?」
両親とも小学校の先生だから、たまに一遥は自分も担任クラスの子どもたちと同じような扱いをされている気持ちになる。
「いや、お父さんも紀浦大の人文地理のゼミで、県内のバス路線を調べたことがあった。いくつになっても地域密着は楽しいもんだ」
それで今日は、昼前にようやく起き出して、朝昼兼用のうどんをすすった。
ウチから山を一つ越えた蟻田川水系の被害として最も大きかったのが、土砂崩れによって集落一つがまるごと呑み込まれてしまったというものだったという。
桃園村。
十和の住んでいる自治体に属する集落が、その被災地だったというのだ。
「一遥」
依然、悪戦苦闘していたら、散歩にでも出ていたのか、お父さんがちょうど帰ってきた。
「あ、お父さん。エンジン、かけてくれない?」
一遥はイグニッションの名手のことを頼ったつもりだったのだが、お父さんはそれには答えず、
「おまえ、男の子に会いに行くのか」
と詰め寄ってきた。昨日とはうってかわって、ご機嫌がだいぶ麗しくないみたいだ。
「え。いや、図書館に行くって言ったじゃん。SS紀浦で」
「嘘じゃないだろうな。さっきそこで紀路 くんが教えてくれたぞ、おまえ、マッチングアプリで遊んでるらしいじゃないか」
「え、違うよ」
佐波っち、意外と噂好きだな、余計なことを。
実際はなにも違わず、今日は十和と海に行く約束の日なのだ。
たった一度会っただけの十和とのことが、これだけ勢いよく広まるとは予想外だった。
「それじゃ、おふくろが言ってたのはホントか」
お父さんは一遥の表情を見て、納得するように頷いている。
一遥は逃げ出したくなって、もう一度キックを蹴る。
ブルーン、プスプス。
ああ、あと一息。
「正月におばあちゃんに相談したんじゃないのか。おまえ、よりにもよって、遺伝子情報を開示するコースを選んだんじゃないだろうな」
「いや、それは」
「ちょっとスマホ、こっちに渡しなさい」
「やだよ」
だが、むりやりむしり取られた。
「ロックは。何番」
「やめてって」
一遥は奪い返そうと手を伸ばす。しばしもみ合いになる。
だけれど、力でかなう訳がない。
「娘のプライバシーを覗こうとするなんて、最低の父親だよ」
「なに思春期みたいなこと言ってるんだ」
「思春期だよ」
「インターネットで遊んで個人情報を流出させるなんて、いちばんやっちゃならないことだって教えただろう」
お父さんは叱りながらも、ちょっと意外そうな顔をしている。
一遥が言い返してくることに、けっこう怯んでいるようにもみえた。
「いいから返してよ」
再びキックを蹴る。ブルン。今度はかかった。
スタンドを立てたまま、思いっきりスロットルを回す。
ギュゥーンと、一遥の感情を代弁するかのように、エンジンがうなり声を上げた。
「アン!」
アンスリウムが空気を読んで、カーポートの前の蛇腹門を滑らせてくれた。
こいつ、忠犬だ。あとでジャーキーをあげよう。
「彼、ただの高校の先輩だから! ほっといて!」
怒りに駆られて、スマホをお父さんの手に残したまま、一遥はスタンドを払って家を飛び出した。
十和とともに海へ行く。
お父さんを振り払ってまで、そんな行動をしたことに、一遥自身が一番驚いていた。
冬の澄明な風を駆って、山を下る。
パタパタとヘルメットの紐の端がなびいて音を立てる。
鰹波の海水浴場に着くと、なるべく暖かそうなところにスクーターを停めた。
一応、かわいい服の方が良いかなと思って着替えは持ってきているが、この季節に更衣室は閉鎖されている。
公衆トイレで着替えるというのも愛想がないしな。
一遥はもこもこのジャンパーにスキニーという格好のまま、砂浜へと歩を進めた。
流行の ブーツだけが、かろうじてJKらしい色気を担保している。
「一遥」
透き通った声で呼び止められる。
振り返ると、黒いコートでモノトーンにまとめた格好の十和が手を振っていた。
「十和。もう来てたんだね」
あれからメッセージを重ねるうち、十和の方から敬語はやめて欲しいという申し出があった。
それで少しむずかゆいのだが、呼び捨てで十和のことを呼ぶことになった。今日はその第一日である。
「今日はアメリカ風の格好だね。似合っているよ」
「ありがとう」
褒められているのかよく分からないが、上手く彼のツボにはまったようでよかった。
「なにか、元気がないように見えるけれど。少し冷えるかな」
「ううん。そうじゃなくて、ちょっと出がけに、お父さんとケンカして」
砂浜を並んで歩きながら、一遥はこぼした。
「お父さんと? どうして」
「男の子と会うのかって」
言ってから、それを十和に伝えると気を遣わせちゃうなと気づいた。
だが、十和はくすくす笑っている。
「それじゃ、お父さんとぼくと、板挟みになって、ぼくを選んでくれたということ」
「ふぁあ」
意味を成さない間投詞を投げた。
「光栄だけど、確かに親子間に緊張関係が生まれるのは良い状態とは言えないか」
「うーん、本当はきっと、トゥルヒスをやってたこと、隠してたから、お父さんは怒ったんだと思う」
「遺伝子情報のことを、お父さんは心配したということだ」
「うん。わかるよ。私も怖いし」
だけど、十和と会えた。そして本当の自分を探し始めた。
十和といるときのわたしのことを、わたしは好きになり始めている。
トゥルヒスの帯びる外形的な危険性にばかり目がくらんで、こんなにも豊かな時間を過ごすことや、自分が変わり始めていることを自覚する、そんな高揚を得ることができなくなるのは、それはそれでもったいないことじゃないか。
そんな気持ちで、お父さんが頭ごなしに叱るのに反発してしまったのだ。
「十和はさ、どうして私たちのマッチング率、98%なんだと思う?」
「難しい質問だな」
十和は苦笑したが、
「きっとそれは、お互いのことをもっと知っていって、最後の最後に分かることなのだろうね」
「えーっと、それは、まだなにも分からないってこと」
なんだか一生一緒に居ようと言われたような照れを感じてしまった。
さらっとこういうことを言うからな。十和は。
少し歩き疲れて、護岸擁壁に隣り合って腰をかけた。
「最近、先生に頼まれて、郷土史を調べてるんだ」
「郷土史。それはまた、渋いことをしているんだな」
「だよね」
「豪族や武将ゆかりの旧跡でも訪ねるの」
「あー、テーマは先生たちがもう決めてて、私は紀浦大水害をまとめることになったんだ」
十和はパチパチと瞬きをして、
「なるほど・・・、確かにそれも郷土史か」
「戦後間もない頃に全国で大雨が続いて、色々な川にダムが造られた。昔は山から切り出した木を筏で運んでいたけど、ダムが出来たからそれができなくなったんだって」
「ダム・・・」
「そういえば昨日の晩に読んだ本に、桃園村で土砂崩れが起きて、集落がひとつ埋まっちゃったっていう記事があった。十和の家、もしかして近い?」
詰め込んだばかりの知識を運用するのが楽しくて、つい色々と聞いてしまう。
「ああ、石碑が、うちの近くにあったよ」
「そうなんだ。やっぱり現地に行けば、そういうのも見られるんだね。一度、行ってみようかな」
そのように呟けば、十和は「案内しよう」と提案してくれると思って上目遣いに顔を覗き込んだ。
だが、十和はぼんやりと考えごとをしているようだった。
「ごめん、なんか暗い話題になっちゃって」
一遥はあわわ、と、ちょっと一方的に喋りすぎたことを後悔した。
「いや、そんなことはない。後世を生きる者たちがそうやって思い出してくれるなら、死んでいった者たちも少しは浮かばれるだろう」
「うん。インタビューとかを読んで、そういうのも知ろうとしてみる。うまく発表できるといいけど」
そうだ、死者ある出来事なのだ。災害をダシにして十和と関係を深めようと欲張ったかもしれない。
そしてまた、被災体験を適当にコピペして発表しようと考えていたことを反省した。
「うまくしなくてもいいんだよ。ただ考えてくれるだけで」
十和は水平線に目を凝らした。
「川は、海に繋がっているから。流された人たちは、行方が分からなくてもやがて必ず海に辿り着く。埋められた人たちも、いずれは土に還る。還らないといけないんだ」
「それは、でも・・・・・・」
一遥は必死に、十和に何かが伝わるように言葉を連ねた。
「でも、その人たちが生きていたことには間違いない」
「・・・・・・ありがとう」
そんな感情を見抜くかのように、十和は瞑目した。
十和、あなたは今、泣いているの?
きっと、先祖の誰かが、紀浦大水害で被災したのだろう。
山奥の小集落であるほどに、郷土史は古老たちの語りとして受け継がれるものだ。
そして郷土史はまた、家族史に繋がっている。
意図せず、一遥は十和の心の柔らかい部分に触れてしまったらしい。
申し訳ない気持ちと裏腹に、一遥は嬉しかった。
他人の感情の機微に触れる。それが自分へと連鎖する。
深くその人に関わらなければ、決して得られない体験だ。
十和はわたしに、次々に新しい感情と、新しい体験を与えてくれる。
「積極的に催事にも参画して、高校生活を満喫しているね」
十和が落ち着いた声で褒めてくれた。もう、ひとときの激情は治まったようだ。
一遥は、十和と同じ方、海の方を見やりながら首を振った。
「ううん。たぶん、今までの私なら、そんなふうに積極的にはなれなかった。でも最近は、自分が行動することで周りの景色が変わっていくのが、なんだか楽しくて」
十和は瞳に光を差した。
「良いんじゃないかな。ぼくも、自分を変えてみようと思っていたことに気づいていた?」
「え、どこだろう」
弾んだ顔でこちらを覗き込んでくるので一遥も安心して、今度はそんな悪戯を当ててやりたい気持ちになったが、十和の顔と、胸元とを交互に見渡してみても、見当も付かない。
「答えは、メッセージの送り方と、喋り方と」
「えー、それ全然わからないよ。でも確かに十和、なんかおじいちゃんみたいな喋り方だもんね」
「はは。一遥とやりとりをするうちに、ぼくもそんな気がしてきたよ」
十和は短髪をガリガリと掻いた。
「一遥は柔らかい文をしたためるからな。秘訣を教えてくれないか」
「別に秘訣とか、そんなのはないけど。ああ、でも顔文字とか使ってみたら?」
「顔文字とは何だろうか」
「(^_^)こんな感じで」
一遥はスマホをフリックして適当な顔文字を示した。
「なるほど、算術記号を重ねることで顔に似せると言うことか。やってみよう」
「待ってるね。でもわたしは、十和の喋り方、好きだけど」
しばらくそうやって、華やいだ声で語らったり、静かに黙り込んだりを繰り返した。
寒くなれば歩き、暖まれば座った。
「なんだか、帰りたくない」
薄い雲の向こう側から差していた光が灰色から紫に変わるにつれ、一遥は家に帰ってお父さんと行きがけのことを話すのが憂鬱になり始めた。
「お父さんとのこと」
十和は的確に見抜いてくる。
「もうトゥルヒスはやめろって言われるだろうね。別にそれは良いけど、十和とも会うなって言われるかも」
「もしそう言われたら、一遥はもうぼくとは会ってくれないの。それは寂しいな」
十和が困ったように微笑むので、一遥は涙が出そうになった。
「ううん、いくらお父さんに言われたって、わたしだって、そんなの聞きたくない」
「嬉しいけれど、先刻も言ったけれど、親子関係が緊張するのは、良いことではないからなあ」
十和は慎重に言葉を選んでいるようだった。
「わたし、お父さんに言うよ」
「言うって、何を」
「どんなにお説教されたって、嫌なものは嫌だって」
一遥は唇を尖らせて、激した感情をその先端に溜めた。
「一遥、きみは」
十和はそれを、ゆっくりといたわるように、
「お父さんと喧嘩をしたい訳ではないだろう。むしろ、仲直りしたいと思っているはずだ。嫌なものは嫌だと、言ってくれるのは嬉しい。だけれどそれは、一方的にぶつけるのではなく、伝わるように伝えるということが大切なのだ」
「十和」
十和の柔らかな物言いが、胸にすとんと落ちた。
どうして、十和はいつも、わたしの心を、わたし以上にうまく説明してくれるんだろう。
そうだ、意見が衝突したならば、それを伝えて、話し合えば良い。
そんな簡単なことすら、いままでしてこなかった。
お父さんに言われたことは、そのまま守ることしか考えてこなかったからだ。
なんだか帰りたくない。
さっきとは別の意味で、そう思った。
「今日はもうしばらく、一緒に居られるだろう。図書館にでも行こうか。一遥の調べものを、ぼくも手伝おう」
十和が気遣ってくれる。
「でも、もう五時過ぎちゃってるから、市の図書館は閉まっているんじゃないかな」
「学校のはどうだろう」
「あー、土日は閉まってるんじゃないかな。なんかセキュリティも強化してるし」
「そうなのか」
「らしいよ」
藤琴興産のご活躍について、一遥はこの前社長から聴いた話を教えてやった。
「なるほど、これは迂闊だった」
「あー、でも、それなら、一緒に漫画喫茶に行かない」
一遥はそんな提案をした。
でも、十和はが時間を気にしているように見えたので、悪い気がした。
「ごめん。無理にそうしたい訳じゃないんだけど」
「いや、少しなら良いんじゃないかな。初めてだし。一遥によって、ぼくも変えられているということだよ」
破顔しながらそんなことを言われて、からかわれているのだと気づいた。
「もう!」
スクーターに二人乗りは出来ないので、国道沿いの漫画喫茶まで、十和が一遥のスクーターを曳いてくれた。
エレベーターで雑居ビルを上って入店する。
この店には学校の帰りに何度か寄り道をしたことはあったが、二人部屋に入ったのは一遥も初めてだった。
「なるほど、書物は多かれど、図書館などとはだいぶ雰囲気が違うな」
柔らかいマットに腰を下ろしながら、十和が感想を漏らす。
暖房の匂いがする風が目頭から頬をなで回して、一遥は頭がくらくらしてきた。
隣に、彼の健康的な赤い唇が見える。
なんだか距離が近いな。これは、恋人同士の距離なのだろうか。
やがて、彼だけが、一遥の視界を占拠する。
もしかして、こういう時に、ラブシーンというのは始まるのだろうか。
いや、全然心の準備ができていない。
「一遥」
とろけるような声が耳の奥を震わせる。
ええええ。どうすればいいんですか。でも、十和に任せてしまえば・・・
十和の顔が、唇が、霞んでいく。
一遥は本能に導かれるように目を瞑った。
あれ?
身体中が毛布に包まれたみたいに暖かくぽかぽかとしてきて、一遥はそのまま意識を失ってしまった。
あれ?
突然、空調の音がウイーンと耳にうるさく入り込んで来た。
一遥は本当に毛布に包まれて突っ伏していた。
ヤバい。
ガバッと身を起こした。時計を見ると、もう八時を回っている。
三時間近くも、いぎたなく眠りこけてしまっていたようだ。
慌てて左右を見渡す。十和の姿はどこにも無くなってしまっている。
夢?
ではない。机の上に、十和の書き置きがあった。
帰らなければならない時刻だが、疲れが溜まったように見える一遥を起こすに忍びない。
店員に言って、マスターキーで部屋の施錠をしてあるから心配ない。
また近く、会おう。
そんなことが書いてあった。
なんだか、良いところで意識が途切れてしまったな。
いやいや、良いところってなんだ。あのまま起きていたらどうなっていたのだ。
連日、紀浦大水害のことを調べていたおかげで、次に進むことはなかった。
そのことはホッとしたようでもあり、残念なようでもあった。
と、そんなことを考えている場合ではない。今から急いで帰っても、帰宅は九時をまわってしまう。
めちゃめちゃ遅い。ただでさえお父さんと微妙な感じなのに、さらに状況が悪化してしまう。
しかも、出がけにお父さんの手にスマホを残したままだったから、帰る時間を連絡することすらできない。
一遥はますます憂鬱になってきた。
飛び出すように漫画喫茶を出ると、スクーターを始動する。
夜の海北は、昼間と違ってひとけが無い。そのくせ赤信号にばかり引っかかる。
焦りに焦って市街地を抜けると、街灯もまばらな田舎道に入っていく。
こういう道では、前後を走る車より、左右の道から来る車のライトに気を取られる。
|信号がない交差点で側面同士で十字に衝突する事故 を起こす危険があるからだ。
あー、左から来てる。どうしよう。
いつもなら減速してやり過ごす訳だが、今日ばかりは一遥も焦って、石橋を叩いている訳にはいかない気持ちになってしまっていた。
グイッとスロットルを回す。速度メーターは見なかったことにした。
あー、でもダメだ。
左からのライトとの距離を図りかねて、中途半端なスピードになってしまう。
ダメだ、ダメだ。
一遥の巧緻性が、こんなときにばかり能力を発揮する。
そして、車体は、視線の方向へと傾いて動く。
向こうの車が、白い軽トラであることを視認した時には、もう遅い。
突然、強い力で身体を押されたような気がした。
ややあって、ぺちゃっと左半身がどろどろとしたものとこすりあわされる。
衝撃は、感じなかった。
ずずずっと泥との摩擦が身体を留めて、気がつくと、一遥は田んぼにハマって倒れ込んでいた。
スクーターは数メートル先まで吹っ飛んでいるが、側溝に上手くタイヤが納まって、倒れてまではいない。
そうだ、衝突事故を起こす前に、側溝にタイヤをとられたのだ。
一遥は寒さを忘れて、そのまま寝っ転がっていた。
アドレナリンがドクドクと分泌されて、全身を巡っている音がする。
「――――」
その脇に回り込んできた軽トラから人が降りてくる気配がして、一遥はかろうじて上半身を起こした。
ぐにゅぐにゅの土の上に座り込んでぼうっとしていたら、その人は一遥の方へ近づいてくる。
「――――」
耳の中に土が詰まって、相手の声がよく聞こえない。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
一遥は腰が抜けて立てなかった。それでも、まずはそうしなければならないと思って、相手に向けて謝り続けていた。
「こん時期は、水が抜けとるが、そんでも、こないだの雪でちょっとは湿っとったでな」
あれ?
なんだか聞き覚えのあるようなないような声だ。
一遥は小指で耳を掻いた。
「おじいちゃん!」
「そんだけ叫べりゃ、ひとまずはええ」
軽トラのライトに照らされていたのは、それっきりむっつりと押し黙ってしまった、俊之おじいちゃんだった。
冬場はこれが困る。スターターを押しても、エンジンがかからない。
「アン!」
アンスリウムが心配げに、悪戦苦闘する一遥に声援を送ってくれている。
チョークを引いて、キックスタートを蹴る。
苦手なんだけどな。
やっぱりプスプス言うばかりで、冷え切ったスクーターのエンジンにはなかなか喝が入らない。
ふわわ。
一遥は欠伸を一つ入れた。
最初は義務的に取り組んでいた紀浦大水害の調べ学習だったが、毎日図書館に通っているうちに、なんだかんだハマってしまった。
やはり身近な地名が色々と出てくると、リアリティを感じられる。
金曜日に首尾よく一冊の文献を借りられたので、昨日の晩も思わず読み耽ってしまった。
「根詰めてなにやってるんだ?」
お父さんが不審げに、しかし嬉しそうに尋ねてきた。
一遥がスマホ画面ではないものに熱中しているのが珍しかったのだろう。
SS紀浦で災害を取り扱うことを報せた。
「高校生で郷土学習をやるのは、小学生とはまた違って良いかもな」
「なんか、子ども扱いしてる?」
両親とも小学校の先生だから、たまに一遥は自分も担任クラスの子どもたちと同じような扱いをされている気持ちになる。
「いや、お父さんも紀浦大の人文地理のゼミで、県内のバス路線を調べたことがあった。いくつになっても地域密着は楽しいもんだ」
それで今日は、昼前にようやく起き出して、朝昼兼用のうどんをすすった。
ウチから山を一つ越えた蟻田川水系の被害として最も大きかったのが、土砂崩れによって集落一つがまるごと呑み込まれてしまったというものだったという。
桃園村。
十和の住んでいる自治体に属する集落が、その被災地だったというのだ。
「一遥」
依然、悪戦苦闘していたら、散歩にでも出ていたのか、お父さんがちょうど帰ってきた。
「あ、お父さん。エンジン、かけてくれない?」
一遥はイグニッションの名手のことを頼ったつもりだったのだが、お父さんはそれには答えず、
「おまえ、男の子に会いに行くのか」
と詰め寄ってきた。昨日とはうってかわって、ご機嫌がだいぶ麗しくないみたいだ。
「え。いや、図書館に行くって言ったじゃん。SS紀浦で」
「嘘じゃないだろうな。さっきそこで
「え、違うよ」
佐波っち、意外と噂好きだな、余計なことを。
実際はなにも違わず、今日は十和と海に行く約束の日なのだ。
たった一度会っただけの十和とのことが、これだけ勢いよく広まるとは予想外だった。
「それじゃ、おふくろが言ってたのはホントか」
お父さんは一遥の表情を見て、納得するように頷いている。
一遥は逃げ出したくなって、もう一度キックを蹴る。
ブルーン、プスプス。
ああ、あと一息。
「正月におばあちゃんに相談したんじゃないのか。おまえ、よりにもよって、遺伝子情報を開示するコースを選んだんじゃないだろうな」
「いや、それは」
「ちょっとスマホ、こっちに渡しなさい」
「やだよ」
だが、むりやりむしり取られた。
「ロックは。何番」
「やめてって」
一遥は奪い返そうと手を伸ばす。しばしもみ合いになる。
だけれど、力でかなう訳がない。
「娘のプライバシーを覗こうとするなんて、最低の父親だよ」
「なに思春期みたいなこと言ってるんだ」
「思春期だよ」
「インターネットで遊んで個人情報を流出させるなんて、いちばんやっちゃならないことだって教えただろう」
お父さんは叱りながらも、ちょっと意外そうな顔をしている。
一遥が言い返してくることに、けっこう怯んでいるようにもみえた。
「いいから返してよ」
再びキックを蹴る。ブルン。今度はかかった。
スタンドを立てたまま、思いっきりスロットルを回す。
ギュゥーンと、一遥の感情を代弁するかのように、エンジンがうなり声を上げた。
「アン!」
アンスリウムが空気を読んで、カーポートの前の蛇腹門を滑らせてくれた。
こいつ、忠犬だ。あとでジャーキーをあげよう。
「彼、ただの高校の先輩だから! ほっといて!」
怒りに駆られて、スマホをお父さんの手に残したまま、一遥はスタンドを払って家を飛び出した。
十和とともに海へ行く。
お父さんを振り払ってまで、そんな行動をしたことに、一遥自身が一番驚いていた。
冬の澄明な風を駆って、山を下る。
パタパタとヘルメットの紐の端がなびいて音を立てる。
鰹波の海水浴場に着くと、なるべく暖かそうなところにスクーターを停めた。
一応、かわいい服の方が良いかなと思って着替えは持ってきているが、この季節に更衣室は閉鎖されている。
公衆トイレで着替えるというのも愛想がないしな。
一遥はもこもこのジャンパーにスキニーという格好のまま、砂浜へと歩を進めた。
「一遥」
透き通った声で呼び止められる。
振り返ると、黒いコートでモノトーンにまとめた格好の十和が手を振っていた。
「十和。もう来てたんだね」
あれからメッセージを重ねるうち、十和の方から敬語はやめて欲しいという申し出があった。
それで少しむずかゆいのだが、呼び捨てで十和のことを呼ぶことになった。今日はその第一日である。
「今日はアメリカ風の格好だね。似合っているよ」
「ありがとう」
褒められているのかよく分からないが、上手く彼のツボにはまったようでよかった。
「なにか、元気がないように見えるけれど。少し冷えるかな」
「ううん。そうじゃなくて、ちょっと出がけに、お父さんとケンカして」
砂浜を並んで歩きながら、一遥はこぼした。
「お父さんと? どうして」
「男の子と会うのかって」
言ってから、それを十和に伝えると気を遣わせちゃうなと気づいた。
だが、十和はくすくす笑っている。
「それじゃ、お父さんとぼくと、板挟みになって、ぼくを選んでくれたということ」
「ふぁあ」
意味を成さない間投詞を投げた。
「光栄だけど、確かに親子間に緊張関係が生まれるのは良い状態とは言えないか」
「うーん、本当はきっと、トゥルヒスをやってたこと、隠してたから、お父さんは怒ったんだと思う」
「遺伝子情報のことを、お父さんは心配したということだ」
「うん。わかるよ。私も怖いし」
だけど、十和と会えた。そして本当の自分を探し始めた。
十和といるときのわたしのことを、わたしは好きになり始めている。
トゥルヒスの帯びる外形的な危険性にばかり目がくらんで、こんなにも豊かな時間を過ごすことや、自分が変わり始めていることを自覚する、そんな高揚を得ることができなくなるのは、それはそれでもったいないことじゃないか。
そんな気持ちで、お父さんが頭ごなしに叱るのに反発してしまったのだ。
「十和はさ、どうして私たちのマッチング率、98%なんだと思う?」
「難しい質問だな」
十和は苦笑したが、
「きっとそれは、お互いのことをもっと知っていって、最後の最後に分かることなのだろうね」
「えーっと、それは、まだなにも分からないってこと」
なんだか一生一緒に居ようと言われたような照れを感じてしまった。
さらっとこういうことを言うからな。十和は。
少し歩き疲れて、護岸擁壁に隣り合って腰をかけた。
「最近、先生に頼まれて、郷土史を調べてるんだ」
「郷土史。それはまた、渋いことをしているんだな」
「だよね」
「豪族や武将ゆかりの旧跡でも訪ねるの」
「あー、テーマは先生たちがもう決めてて、私は紀浦大水害をまとめることになったんだ」
十和はパチパチと瞬きをして、
「なるほど・・・、確かにそれも郷土史か」
「戦後間もない頃に全国で大雨が続いて、色々な川にダムが造られた。昔は山から切り出した木を筏で運んでいたけど、ダムが出来たからそれができなくなったんだって」
「ダム・・・」
「そういえば昨日の晩に読んだ本に、桃園村で土砂崩れが起きて、集落がひとつ埋まっちゃったっていう記事があった。十和の家、もしかして近い?」
詰め込んだばかりの知識を運用するのが楽しくて、つい色々と聞いてしまう。
「ああ、石碑が、うちの近くにあったよ」
「そうなんだ。やっぱり現地に行けば、そういうのも見られるんだね。一度、行ってみようかな」
そのように呟けば、十和は「案内しよう」と提案してくれると思って上目遣いに顔を覗き込んだ。
だが、十和はぼんやりと考えごとをしているようだった。
「ごめん、なんか暗い話題になっちゃって」
一遥はあわわ、と、ちょっと一方的に喋りすぎたことを後悔した。
「いや、そんなことはない。後世を生きる者たちがそうやって思い出してくれるなら、死んでいった者たちも少しは浮かばれるだろう」
「うん。インタビューとかを読んで、そういうのも知ろうとしてみる。うまく発表できるといいけど」
そうだ、死者ある出来事なのだ。災害をダシにして十和と関係を深めようと欲張ったかもしれない。
そしてまた、被災体験を適当にコピペして発表しようと考えていたことを反省した。
「うまくしなくてもいいんだよ。ただ考えてくれるだけで」
十和は水平線に目を凝らした。
「川は、海に繋がっているから。流された人たちは、行方が分からなくてもやがて必ず海に辿り着く。埋められた人たちも、いずれは土に還る。還らないといけないんだ」
「それは、でも・・・・・・」
一遥は必死に、十和に何かが伝わるように言葉を連ねた。
「でも、その人たちが生きていたことには間違いない」
「・・・・・・ありがとう」
そんな感情を見抜くかのように、十和は瞑目した。
十和、あなたは今、泣いているの?
きっと、先祖の誰かが、紀浦大水害で被災したのだろう。
山奥の小集落であるほどに、郷土史は古老たちの語りとして受け継がれるものだ。
そして郷土史はまた、家族史に繋がっている。
意図せず、一遥は十和の心の柔らかい部分に触れてしまったらしい。
申し訳ない気持ちと裏腹に、一遥は嬉しかった。
他人の感情の機微に触れる。それが自分へと連鎖する。
深くその人に関わらなければ、決して得られない体験だ。
十和はわたしに、次々に新しい感情と、新しい体験を与えてくれる。
「積極的に催事にも参画して、高校生活を満喫しているね」
十和が落ち着いた声で褒めてくれた。もう、ひとときの激情は治まったようだ。
一遥は、十和と同じ方、海の方を見やりながら首を振った。
「ううん。たぶん、今までの私なら、そんなふうに積極的にはなれなかった。でも最近は、自分が行動することで周りの景色が変わっていくのが、なんだか楽しくて」
十和は瞳に光を差した。
「良いんじゃないかな。ぼくも、自分を変えてみようと思っていたことに気づいていた?」
「え、どこだろう」
弾んだ顔でこちらを覗き込んでくるので一遥も安心して、今度はそんな悪戯を当ててやりたい気持ちになったが、十和の顔と、胸元とを交互に見渡してみても、見当も付かない。
「答えは、メッセージの送り方と、喋り方と」
「えー、それ全然わからないよ。でも確かに十和、なんかおじいちゃんみたいな喋り方だもんね」
「はは。一遥とやりとりをするうちに、ぼくもそんな気がしてきたよ」
十和は短髪をガリガリと掻いた。
「一遥は柔らかい文をしたためるからな。秘訣を教えてくれないか」
「別に秘訣とか、そんなのはないけど。ああ、でも顔文字とか使ってみたら?」
「顔文字とは何だろうか」
「(^_^)こんな感じで」
一遥はスマホをフリックして適当な顔文字を示した。
「なるほど、算術記号を重ねることで顔に似せると言うことか。やってみよう」
「待ってるね。でもわたしは、十和の喋り方、好きだけど」
しばらくそうやって、華やいだ声で語らったり、静かに黙り込んだりを繰り返した。
寒くなれば歩き、暖まれば座った。
「なんだか、帰りたくない」
薄い雲の向こう側から差していた光が灰色から紫に変わるにつれ、一遥は家に帰ってお父さんと行きがけのことを話すのが憂鬱になり始めた。
「お父さんとのこと」
十和は的確に見抜いてくる。
「もうトゥルヒスはやめろって言われるだろうね。別にそれは良いけど、十和とも会うなって言われるかも」
「もしそう言われたら、一遥はもうぼくとは会ってくれないの。それは寂しいな」
十和が困ったように微笑むので、一遥は涙が出そうになった。
「ううん、いくらお父さんに言われたって、わたしだって、そんなの聞きたくない」
「嬉しいけれど、先刻も言ったけれど、親子関係が緊張するのは、良いことではないからなあ」
十和は慎重に言葉を選んでいるようだった。
「わたし、お父さんに言うよ」
「言うって、何を」
「どんなにお説教されたって、嫌なものは嫌だって」
一遥は唇を尖らせて、激した感情をその先端に溜めた。
「一遥、きみは」
十和はそれを、ゆっくりといたわるように、
「お父さんと喧嘩をしたい訳ではないだろう。むしろ、仲直りしたいと思っているはずだ。嫌なものは嫌だと、言ってくれるのは嬉しい。だけれどそれは、一方的にぶつけるのではなく、伝わるように伝えるということが大切なのだ」
「十和」
十和の柔らかな物言いが、胸にすとんと落ちた。
どうして、十和はいつも、わたしの心を、わたし以上にうまく説明してくれるんだろう。
そうだ、意見が衝突したならば、それを伝えて、話し合えば良い。
そんな簡単なことすら、いままでしてこなかった。
お父さんに言われたことは、そのまま守ることしか考えてこなかったからだ。
なんだか帰りたくない。
さっきとは別の意味で、そう思った。
「今日はもうしばらく、一緒に居られるだろう。図書館にでも行こうか。一遥の調べものを、ぼくも手伝おう」
十和が気遣ってくれる。
「でも、もう五時過ぎちゃってるから、市の図書館は閉まっているんじゃないかな」
「学校のはどうだろう」
「あー、土日は閉まってるんじゃないかな。なんかセキュリティも強化してるし」
「そうなのか」
「らしいよ」
藤琴興産のご活躍について、一遥はこの前社長から聴いた話を教えてやった。
「なるほど、これは迂闊だった」
「あー、でも、それなら、一緒に漫画喫茶に行かない」
一遥はそんな提案をした。
でも、十和はが時間を気にしているように見えたので、悪い気がした。
「ごめん。無理にそうしたい訳じゃないんだけど」
「いや、少しなら良いんじゃないかな。初めてだし。一遥によって、ぼくも変えられているということだよ」
破顔しながらそんなことを言われて、からかわれているのだと気づいた。
「もう!」
スクーターに二人乗りは出来ないので、国道沿いの漫画喫茶まで、十和が一遥のスクーターを曳いてくれた。
エレベーターで雑居ビルを上って入店する。
この店には学校の帰りに何度か寄り道をしたことはあったが、二人部屋に入ったのは一遥も初めてだった。
「なるほど、書物は多かれど、図書館などとはだいぶ雰囲気が違うな」
柔らかいマットに腰を下ろしながら、十和が感想を漏らす。
暖房の匂いがする風が目頭から頬をなで回して、一遥は頭がくらくらしてきた。
隣に、彼の健康的な赤い唇が見える。
なんだか距離が近いな。これは、恋人同士の距離なのだろうか。
やがて、彼だけが、一遥の視界を占拠する。
もしかして、こういう時に、ラブシーンというのは始まるのだろうか。
いや、全然心の準備ができていない。
「一遥」
とろけるような声が耳の奥を震わせる。
ええええ。どうすればいいんですか。でも、十和に任せてしまえば・・・
十和の顔が、唇が、霞んでいく。
一遥は本能に導かれるように目を瞑った。
あれ?
身体中が毛布に包まれたみたいに暖かくぽかぽかとしてきて、一遥はそのまま意識を失ってしまった。
あれ?
突然、空調の音がウイーンと耳にうるさく入り込んで来た。
一遥は本当に毛布に包まれて突っ伏していた。
ヤバい。
ガバッと身を起こした。時計を見ると、もう八時を回っている。
三時間近くも、いぎたなく眠りこけてしまっていたようだ。
慌てて左右を見渡す。十和の姿はどこにも無くなってしまっている。
夢?
ではない。机の上に、十和の書き置きがあった。
帰らなければならない時刻だが、疲れが溜まったように見える一遥を起こすに忍びない。
店員に言って、マスターキーで部屋の施錠をしてあるから心配ない。
また近く、会おう。
そんなことが書いてあった。
なんだか、良いところで意識が途切れてしまったな。
いやいや、良いところってなんだ。あのまま起きていたらどうなっていたのだ。
連日、紀浦大水害のことを調べていたおかげで、次に進むことはなかった。
そのことはホッとしたようでもあり、残念なようでもあった。
と、そんなことを考えている場合ではない。今から急いで帰っても、帰宅は九時をまわってしまう。
めちゃめちゃ遅い。ただでさえお父さんと微妙な感じなのに、さらに状況が悪化してしまう。
しかも、出がけにお父さんの手にスマホを残したままだったから、帰る時間を連絡することすらできない。
一遥はますます憂鬱になってきた。
飛び出すように漫画喫茶を出ると、スクーターを始動する。
夜の海北は、昼間と違ってひとけが無い。そのくせ赤信号にばかり引っかかる。
焦りに焦って市街地を抜けると、街灯もまばらな田舎道に入っていく。
こういう道では、前後を走る車より、左右の道から来る車のライトに気を取られる。
|信号がない交差点で側面同士で十字に衝突する
あー、左から来てる。どうしよう。
いつもなら減速してやり過ごす訳だが、今日ばかりは一遥も焦って、石橋を叩いている訳にはいかない気持ちになってしまっていた。
グイッとスロットルを回す。速度メーターは見なかったことにした。
あー、でもダメだ。
左からのライトとの距離を図りかねて、中途半端なスピードになってしまう。
ダメだ、ダメだ。
一遥の巧緻性が、こんなときにばかり能力を発揮する。
当たるように、当たるように
、速度が調節されてしまう。そして、車体は、視線の方向へと傾いて動く。
向こうの車が、白い軽トラであることを視認した時には、もう遅い。
突然、強い力で身体を押されたような気がした。
ややあって、ぺちゃっと左半身がどろどろとしたものとこすりあわされる。
衝撃は、感じなかった。
ずずずっと泥との摩擦が身体を留めて、気がつくと、一遥は田んぼにハマって倒れ込んでいた。
スクーターは数メートル先まで吹っ飛んでいるが、側溝に上手くタイヤが納まって、倒れてまではいない。
そうだ、衝突事故を起こす前に、側溝にタイヤをとられたのだ。
一遥は寒さを忘れて、そのまま寝っ転がっていた。
アドレナリンがドクドクと分泌されて、全身を巡っている音がする。
「――――」
その脇に回り込んできた軽トラから人が降りてくる気配がして、一遥はかろうじて上半身を起こした。
ぐにゅぐにゅの土の上に座り込んでぼうっとしていたら、その人は一遥の方へ近づいてくる。
「――――」
耳の中に土が詰まって、相手の声がよく聞こえない。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
一遥は腰が抜けて立てなかった。それでも、まずはそうしなければならないと思って、相手に向けて謝り続けていた。
「こん時期は、水が抜けとるが、そんでも、こないだの雪でちょっとは湿っとったでな」
あれ?
なんだか聞き覚えのあるようなないような声だ。
一遥は小指で耳を掻いた。
「おじいちゃん!」
「そんだけ叫べりゃ、ひとまずはええ」
軽トラのライトに照らされていたのは、それっきりむっつりと押し黙ってしまった、俊之おじいちゃんだった。