むじてん
文字数 1,890文字
すばしっこく逃げ回るむじなを、少年は無心に追いかけていた。
いや、無心ではない。むしろ功名心が胸に満ち満ちていた。
上手く捕って、にいちゃんに自慢してやるんじゃ。
――むじなをな、何匹か捕まえて、そうして、沢の奥まで持って行って、素揚げにするのだよ。
にいちゃんはそういって、梁神 の山奥に湯治に来た京都の大先生のお供をしたときのことを話してくれた。
ここらの山で起こることなんぞ、もう何年も走り回って過ごしていたら、おおかた経験してしまった。
そんなませた少年にとって、だいのおとなが天ぷら鍋を背負って山に入り、むじなを揚げて、狐の嫁入りをおびき寄せてやろうなどと企てた話は、にやりとする冒険譚だった。
(おれも、やってやる)
こちらを見失って一息つくむじなを斜め前に見据えながら、音を立てずに藪の中を匍匐する。
あと少し、飛び込めば手が届くところにまで辿り着く。
(じっとしていてくれよ)
頃合いを見て、ざっと飛びかかった彼の身体は、しかし柔らかいむじなの体を押しつぶすことなく、ぼろりと土塊を踏み抜いて、崖の下へと滑った。
しまった。ここ何日かの雨で土が、だいぶ湿っていたようだ。
痛みでしばらく動きが取れずにいると、今日もまた雨が降ってきた。
冷たさが身を打つのに活を入れられて、かろうじて半身を起こすと、眼前にはコンクリートの構造物が口を開いていた。
(こりゃ、防空壕じゃ。こんなとこにもつくっとったんか)
戦争が終わって十年近く経つが、その形跡は紀浦きのうらのこんな山奥にも残っている。
三方を囲んだ無機質な空間に入り込み、ありがたく雨をしのいだ。
だがそのうちに雨脚はますます強くなってくる。
斜面の上から、大量の泥水が落ち込んで、防空壕の入り口を打っている。
彼は慌てて、入り口に土留めを盛って、侵入をせき止めた。
雲に隠れて分からないが、もう陽が沈む刻限が近い。
最悪の場合は、ここで夜を明かす必要があるかも知れない。彼は急速に心細くなってきた。
どこかで、うおーん、と犬の遠吠えが聞こえたような気がした。
雷が一つ、落ちる。
「わわっ」
声をあげて、人影が少年のいた防空壕に入り込んでくる。
「にいちゃん」
「あれ、なんだ先客か。別天地だな」
にいちゃんは梁神と北部 の町を往復するバスに同乗しながら、湯治客たちのために荷物を運ぶ歩荷 の仕事をしていた。
そして久しぶりの休みに故郷の村に帰ってきて、山歩きをしているときに少年と出会ったのだった。
――山の神の姫御前が、男龍に変化して匍 うたんじゃ。
どうして渓谷はこれほど深いのか、と尋ねる彼に、にいちゃんは答えた。
――この時期になれば、飾り旗を付けた御船と、その周りを護る筏舟が、蟻田 の渓谷を往還する。そうして此岸と彼岸は溶け合っていく。ご先祖さまや、古い友人たちと再会するのだ。
祭りじゃ、いっしょに見物しょ、と。
にいちゃんが語ってくれる山の物語は、それまで
全体、この国には、男が少ない。そのようになってしまった。
もう一週間もすればにいちゃんも賦役に復帰しなければなるまい。
くーん、とまたひとつ、今度ははっきりと遠吠えが聞こえた。
「行かないで、にいちゃん」
彼にとって唯一無二の先生の若やいだ身体は、土砂降りの中へ再び突き進もうという素振りをみせている。
そのシャツの裾を、少年はぎゅっと掴んだ。
「あいつはぼくの相棒なんだ。迎えに行ってやらないと。ここで待っていられるだろう」
少年は寂しさと心細さを呑み込んで、なんとか頷いた。
「よし。ついでに食べられそうな木の実でも拾ってこよう」
にいちゃんは彼を元気づけるように、快活に言った。
「戻ってきたら夜通し、梁神でのことを語り部してやろう」
優しいにいちゃんの言葉を信じて、少年は、洞 の冷気が濡れた身体を叩く痛みをこらえた。
しかし、雨はますます強くなり、怒り狂ったように大地に打ち付ける。
どどどと、山が動いている気配がした。
巨大な崩 えが、どこかで起きているのかもしれない。
(巻き込まれてなけりゃいいが)
雨はいつまでもいつまでも、降り続いていた。
結局少年は独り、小さな防空壕で夜を明かした。
にいちゃんが戻ってくることはなかった。
カマドウマの這い回るその壕にも。
そして少年が青年になり、子どもができる程の大人になった後にも。
いつまでも、いつまでも。
そのときの雨が、下流域に甚大な被害をもたらした巨大災害であったことを少年が知ったのは、ずっと後になってからのことだった。
いや、無心ではない。むしろ功名心が胸に満ち満ちていた。
上手く捕って、にいちゃんに自慢してやるんじゃ。
――むじなをな、何匹か捕まえて、そうして、沢の奥まで持って行って、素揚げにするのだよ。
にいちゃんはそういって、
ここらの山で起こることなんぞ、もう何年も走り回って過ごしていたら、おおかた経験してしまった。
そんなませた少年にとって、だいのおとなが天ぷら鍋を背負って山に入り、むじなを揚げて、狐の嫁入りをおびき寄せてやろうなどと企てた話は、にやりとする冒険譚だった。
(おれも、やってやる)
こちらを見失って一息つくむじなを斜め前に見据えながら、音を立てずに藪の中を匍匐する。
あと少し、飛び込めば手が届くところにまで辿り着く。
(じっとしていてくれよ)
頃合いを見て、ざっと飛びかかった彼の身体は、しかし柔らかいむじなの体を押しつぶすことなく、ぼろりと土塊を踏み抜いて、崖の下へと滑った。
しまった。ここ何日かの雨で土が、だいぶ湿っていたようだ。
痛みでしばらく動きが取れずにいると、今日もまた雨が降ってきた。
冷たさが身を打つのに活を入れられて、かろうじて半身を起こすと、眼前にはコンクリートの構造物が口を開いていた。
(こりゃ、防空壕じゃ。こんなとこにもつくっとったんか)
戦争が終わって十年近く経つが、その形跡は紀浦きのうらのこんな山奥にも残っている。
三方を囲んだ無機質な空間に入り込み、ありがたく雨をしのいだ。
だがそのうちに雨脚はますます強くなってくる。
斜面の上から、大量の泥水が落ち込んで、防空壕の入り口を打っている。
彼は慌てて、入り口に土留めを盛って、侵入をせき止めた。
雲に隠れて分からないが、もう陽が沈む刻限が近い。
最悪の場合は、ここで夜を明かす必要があるかも知れない。彼は急速に心細くなってきた。
どこかで、うおーん、と犬の遠吠えが聞こえたような気がした。
雷が一つ、落ちる。
「わわっ」
声をあげて、人影が少年のいた防空壕に入り込んでくる。
「にいちゃん」
「あれ、なんだ先客か。別天地だな」
にいちゃんは梁神と
そして久しぶりの休みに故郷の村に帰ってきて、山歩きをしているときに少年と出会ったのだった。
――山の神の姫御前が、男龍に変化して
どうして渓谷はこれほど深いのか、と尋ねる彼に、にいちゃんは答えた。
――この時期になれば、飾り旗を付けた御船と、その周りを護る筏舟が、
祭りじゃ、いっしょに見物しょ、と。
にいちゃんが語ってくれる山の物語は、それまで
独学
で山のことを学んできた彼にとって、綿が水を吸うようにしみわたる知恵そのものであった。全体、この国には、男が少ない。そのようになってしまった。
もう一週間もすればにいちゃんも賦役に復帰しなければなるまい。
くーん、とまたひとつ、今度ははっきりと遠吠えが聞こえた。
「行かないで、にいちゃん」
彼にとって唯一無二の先生の若やいだ身体は、土砂降りの中へ再び突き進もうという素振りをみせている。
そのシャツの裾を、少年はぎゅっと掴んだ。
「あいつはぼくの相棒なんだ。迎えに行ってやらないと。ここで待っていられるだろう」
少年は寂しさと心細さを呑み込んで、なんとか頷いた。
「よし。ついでに食べられそうな木の実でも拾ってこよう」
にいちゃんは彼を元気づけるように、快活に言った。
「戻ってきたら夜通し、梁神でのことを語り部してやろう」
優しいにいちゃんの言葉を信じて、少年は、
しかし、雨はますます強くなり、怒り狂ったように大地に打ち付ける。
どどどと、山が動いている気配がした。
巨大な
(巻き込まれてなけりゃいいが)
雨はいつまでもいつまでも、降り続いていた。
結局少年は独り、小さな防空壕で夜を明かした。
にいちゃんが戻ってくることはなかった。
カマドウマの這い回るその壕にも。
そして少年が青年になり、子どもができる程の大人になった後にも。
いつまでも、いつまでも。
そのときの雨が、下流域に甚大な被害をもたらした巨大災害であったことを少年が知ったのは、ずっと後になってからのことだった。