桃園へ
文字数 14,036文字
結局一遥も本宅で夕食を摂ることになって、彰人くんとおばあちゃんと三人で卓を囲んだ。
彰人くんがあてがわれた部屋に引っ込むのに、一遥もついていった。
話を整理したかったからだ。
「この部屋、お父さんの部屋?」
「そうらしいよ。結婚するまで使ってたんだって」
泣き腫れた目を拭きながら答えた。
おじいちゃんの部屋ほどには年期を感じないが、それでも平成の初期のものであろう文庫本や漫画が所狭しと並べられている。
「明日だけど、どうする。おれはどっちでも良いけれど」
桃園に行くかどうか、である。
「さっきの話だと、桃園には一応、お孫さんとやらが何ヶ月かは住んでいたってことだよな」
「わたしと会っていた男の子・・・。名前は、十和じゃないけれど」
「そうだな、十和ってのはおじいちゃんの兄貴分だった人の名前だったんだな。そのお孫さんだ。顔は、よく似ていたんだろう」
一遥が実際に会って目にした彼の容貌は、少なくとも見比べて不自然に感じないくらいには、写真とよく似ていた。
「狭い村のことだ、トゥルヒスの写真を見せながら聞き込みをすれば、どの家の人かくらいはすぐに分かるだろう。もしかしたら連絡先を知ったご近所さんがいるかもしれない。問題は・・・」
「そこまでするかどうか、ということだよね」
一遥が会って、話をしていた彼は、十和という人物の孫ということになる。
そして彼は、つい先日までは桃園に滞在していたが、既に外国へと発っているということだ。
桃園へ行って、彼の滞在していた家を訪ねて、連絡先を聞き出して。
それで、彼にまたメッセージを送るのか。直接訪ねるのか。
何のために?
その場限りの関係
というものは、ある。一遥にもそれは分かる。例えば小・中学校の頃に参加した地域のキャンプ行事や、習い事の系列教室との合同会など、普段は会わない同年代の子どもたちと交流する機会がその一つだ。
そうした場で出会った仲間たちと、その場において心の交流を図り、普段とは違う相手の反応や視点を得て高揚した気持ちになることはある。
だが、そんな仲間たちと再び会う機会は、それほどない。
もちろん近い地域に住んでいるのだから生活圏は似通っているし、場合によっては連絡先を交換することもあるだろう。
それでも、わざわざメッセージを送り、会おうという気持ちにまでなることは少ない。
それは彼ら彼女らとの関係がその場限りの関係だと弁えているからだ。
翻って、十和――精確に言い直すなら、その孫である彼のことである。
彼が一遥に与えてくれたのは、自分のことを分かって貰えたという安らぎと、自分でも分かっていない自分のことを教えて貰えた高揚だった。
「彼のことを特別に思ったのは、やっぱりマッチング率が98%だったからなのかな」
一遥が引っかかりを覚えたのはそこだった。
おじいちゃんが明らかにしたのは、一遥はおじいちゃんの遺伝子に反応しただけで、彼との間に高いマッチング率を示した訳ではなかったことだった。
そんな話を、百伊や千咲としたこともあった。
――98%の罠。
トゥルヒスの
それはこうした紛れが入り込むことによってもたらされているのかもしれない。
そして、高いマッチング率であると思っていたはずの人が、実はそうではなかったと知ったとき、騙されていたような気持ちになる人も多い。
その恨みはトゥルヒスではなく、相手へと向かうのだ。
「まあ、そこは気になるよな」
彰人くんは言った。
「おれも、一遥と同じトゥルヒスユーザーだからな」
「トゥルヒスユーザーはみんな、マッチング率が気になっちゃう、ってことなのかな」
一遥は苦笑した顔を向けた。彰人くんは頭を掻きながら、
「おれ、結局、彼女とは別れたんだよ」
「ええー。80%の彼女さん」
「82%だよ。ってどうでもいいわ」
正月に十二神社で話を聞いた彼女、もう別れたのか。
いや、どのくらい交際するのが長くて、どのくらいなら短いのかよく分からないけれど。
「やっぱり、マッチング率が低かったから?」
「それはあんまり関係なかったかな。でもお互いに無理して合わせてる感じがしてきたから。おれはラグビー、最後の年だから集中したいけど、彼女は寂しがったりしてさ」
「だから、別れようと思ったの」
「ちょっとだけ迷った。この先82%より高いマッチング率の女の子に出会うことがあるだろうかって。もしそうじゃないなら、ちょっとくらい不満があっても関係を続けた方が低コストだ」
「コストって。ドライな言い方だね」
「そうかもな。でも答えは、そんなことはないということだ。人生の次の局面で、自分に適した相手に巡り会える。関係を深めようという気持ちさえ備えていればさ」
「そうなのかな」
「高校生の恋は、それが人生における最初で最後のものであるかのように錯覚するけれど、実はそんなことはない。必ず次があるんだよ」
さすがモテ強者のラガーマンは頼もしいことを言う。
でも、優しい言葉だ。
一遥が諦められるように、言葉を尽くして、自分のことに引きつけて説得してくれている。
「まあ明日は、どっちでも良いよ。土砂崩れのなんかだっけ? 見に行きたいなら連れて行くし、気晴らしに恋し高原にドライブするだけでも良いし」
お茶もらってくる、と言って彰人くんは立ち上がった。
そう、そうなのかもしれない。
一遥は本棚に背を預けた。
拘っていたのはマッチング率のことではなく、あれほど満たされた気持ちを、再び味わうことが出来なくなるのではないかという不安だったのかもしれない。
その不安が、彼を強く求める感情へと転換された。
別に、だからって、自分で自分を責めることはない。
喪失感がこの身にあふれ出しているのは確かなのだから。
一遥は支えにした手をまさぐって、畳をこすった。
カタッと、左手に何かが打ち返してくる。
何だろう、と振り返ると、一番下の段に一冊、背の低い本が差してある。
絵本だろうか。
そぞろな考えを散らそうと手を動かしたくなって、硬い装丁を取り出してみる。
『むじてん』とある。
水彩画のようなきれいな絵に、心を惹かれた。
パラパラとめくると、しおりの挟まったページがあった。
戦後間もない頃だろうか、土埃の立つ街角に、商店が軒を並べた様子が描かれている。
その一幅の絵巻の中央には、ボンネットバス。
あ、これ。
一遥はスマホを起動させて、トゥルヒスの写真を拡大した。
赤い縞模様が入ったボンネットバスの絵は、十和の写真にチラリと見える背景の模様と、そっくりだ。
しおりの裏には、メモが記されている。
レポート用 父より
S28.7
どうやらこのボンネットバスは、「
――紀浦大の人文地理のゼミで、県内のバス路線を調べたことがあったな。
基行お父さんがいつぞやそういって破顔していたのを思い出した。
一遥がSS紀浦に熱中しているのを見たときのことだ。
お父さんの大学時代、二十年近く前の資料が、そのまま残されていることに驚いた。
だが、それより一遥が気になったのは、「S28.7
北部というのが
絵本に水彩画で描かれているこの情景は、往時の北部の町だということか。
昭和二十八年七月。
紀浦大水害は、昭和二十八年七月十八日の大雨だ。
十和の祖父を土砂崩れが呑み込んでいった災害。
一遥がここ数週間、調査に注力している七十年近く前の大災害・・・
もしかして、ここには、
さっきおじいちゃんが手に持っていた写真が挟まっていたのではないだろうか
。ふと、そうひらめいた。
絵本の見開きの、大きく目立ったボンネットバスが、そんな連想を生み出した。
そう考えると、ここに書かれたメモは整合的に理解できないだろうか。
同じ年
というのは、絵本に描かれたこの一枚と、あの写真の撮られた年が同じ
だと言うことだ。一遥は再びトゥルヒスの写真に目を落とした。
北部の町も大水害で大きな被害を受けたことを考えれば、町並みがきれいに整っている絵本の絵は、確かに被災前のものであると考えられる。
写真は当然、被災前に撮られたものだ。十和が、生きて写っているからだ。
だとすると。
俊之おじいちゃんが「にいちゃん」と呼んでいた十和のことを、「年の離れた」「もう働きに出た」くらいの年齢だと表現していたことで、勝手に十歳か十五歳くらいは年上だったのかな、と勘違いしていた。
でも実は十和は、当時小学生だったおじいちゃんと、それほど変わらない年齢だったのではないだろうか。
そして、紀浦大水害の土砂崩れで、この写真に写っている、まだ高校生くらいの年齢で亡くなったのではないだろうか。
だとしたら、若くして亡くなったそんな人物に、
孫などいるのだろうか
。おじいちゃんが話してくれたのは、
本当のことだったのだろうか
。――
わしも
悪かった。おじいちゃんは、誰か、他の人を
庇っている
?「一遥、おじさんが迎えに来てくれてるぞ」
彰人くんが襖を開けて顔を覗かせた。
はっと我に返ると、『むじてん』の絵本を携えて部屋を出た。
「お父さん」
基行お父さんは居間でおばあちゃんと話していた。
「そろそろ帰るぞ。明日は彰人くんと出かけるんだって?」
「まだ決めてないですけどね。どうする、一遥」
彰人くんが答えた。
「お父さん、この絵本」
一遥はおもむろに『むじてん』を差し出した。お父さんはそれを受け取ると、
「おお、懐かしいな。この間話しただろう、県内のバス路線を調べてたって。確かその絵本は、梁神バスの資料に使ったんだったかな」
「しおりにメモがあったよ」
「そうだろ。ストーリーは確か、戦後の梁神温泉郷で、山奥で夜明かしして
「ここ、もしかして写真が挟まってたんじゃない?」
一遥はトゥルヒスの画面を示した。
「おお」
お父さんは口をすぼめて驚いている。
やはり、予想通りか。
「なんでこんな写真、よく出てきたな。えらく解像度が粗いが」
「おじいちゃんが見せてくれたんだよ」
微妙に正しくない説明だが、間違いでもない。
「そういえばついこの間、親父とこの写真の話をしたな」
お父さんは顎に手を当てて、もったいぶった言い方をした。
え、と一遥が呆けた顔をすると、
「ちょっと前に、桃園の方で地滑りがあっただろ」
確か連日、雪が降り続いていて、お父さんに迎えに来てもらった日。
昼休みにトゥルヒスを見たら十和とマッチングしていて、美術室からおそるおそるメッセージを送った日。もう随分前のような気がする。
――だいぶ奥の方だと地滑りみたいなことになったらしいから。
愛梨ちゃんがそんなふうに呟いていた。あれは桃園の話だったのか。
「この写真の男の子、紀浦大水害で亡くなった親父の知り合いだったらしいが、その人の巻き込まれた土砂崩れのあたりじゃないかって、そんな話をしたんだ」
「そんなに有名な話なんですか」
彰人くんも話に乗ってくる。
「どうだろう。学生時代に親父にその写真を借りたときにそんな話を聞いただけだから、別に確証があったわけじゃなくて、桃園と地滑りと聞いて、なんとなく連想しただけだったけど」
お父さんは呟いた。
「でも、親父は、なんだかハッとした顔をしていたような」
既に書斎に引っ込んだおじいちゃんは、息子の顔を見に出てくることもない。
もしかしたらもう寝てしまったのかも知れない。
「明日、桃園に行くよ。お父さん」
一遥は決意した。
「ああそう。何しに行くんだっけか」
「むかしのことと、いまのことと、一遥にとって知る必要があっていくゆうことやな」
スミレおばあちゃんが、一遥のことを見つめていた。
一遥は頷く。
「まあ、よく分からんが、あんまり奥まで行くなよ。雪もまだ残っているだろうから。彰人くん」
「はい、ちゃんとエスコートしますよ」
彰人くんは白い歯を見せた。
ひとくちに桃園と言っても、その地名の指す範囲は広い。
翌朝、彰人くんがウチの前に付けてくれたフィアットの500Xクロスプラスに乗り込むと、ひとまず恐竜博物館を目指すことにした。子どもの頃に家族で来たとき以来だ。
受付のお姉さんに、雪の日の地滑りの場所を尋ねると、窓口の奥のおじさんが、もっと
それで
「何か、思い当たることがあるの」
道々、彰人くんに、昨晩考えたことを話した。
紀浦半島の峰々は深く、谷筋はやがてますます急峻になっていく。
いつの間にか、蟻田川は遥か下方の崖下を蛇行し始めている。
「分からない・・・けど、
本当のこと
は、別にある気がする」集落を埋め尽くした土砂崩れの場所に、石碑があると書いている資料を読んだ。
鰹波の海水浴場で十和にそのことを話した。一緒に見に行こうと思って。
彼は涙を流した。遠いそのときのことを、
思い起こしていたかのように
。彰人くんは500Xを舗装の剥がれた空き地に駐めた。
「これが、言っていた石碑?」
彰人くんの身の丈ほどの
いしぶみ
が、刈り込まれた草地の先に立っている。慰霊碑と書かれた古いそれは、摩耗して細かな文字をほとんど読み取れない。
幸いにして隣には平成の初期の日付で、横長の石碑が添えられていた。
昭和二十八年七月にふるさとを襲った未曾有の山津波について、その悲劇を語り継いでいる。
「十和は、この石碑は『ウチの近く』だって言ってた。本当かどうか、分からないけど」
一遥はマフラーを巻き直した。鼻と口まで、覆い直す。
「近くの家で、尋ねてみようか」
彰人くんは励ますように言った。
ごめんください、とすぐ近くにあった一軒の家に声をかけた。
ややあって、六十代くらいの男の人が顔を出す。
「すみません、この人のお宅を探していて。紀浦大水害で亡くなった方らしいんです」
男は目をしょぼつかせながら一遥の示したスマホ画面を覗き込む。
「古い写真やな。わしも生まれる前の話で、ちょっと分からんわ。すまんな」
「そうですか・・・」
一遥は次に何を尋ねるべきかも分からなかった。
「ぼくたち、石碑も見てきました」
彰人くんが言う。石碑が建っているのが、かつて集落があった場所だ。
災害について調べている、という体に素早く切り替えたのだ。
「調べ物でもなさってるんか。やが、石碑くらいしか見るもんはないが・・・」
男は申し訳なさそうな顔をしていたが、ふと思いついたように、
「そういうたらちょっと前に、知人の供養をしたいとかでご老人が訪ねてきたな」
「供養ですか。石碑とは別に?」
「ああ、
普段は無人だが、正月の祭礼などはこのあたりの家が持ち回りで管理している土地神らしい。
「被災した方々が供養されとる。縁起の札なんぞも立ててたんと違うかな」
「どこから行けばいいですか」
「そこの裏手から・・・」
男は道筋を詳しく教えてくれた。
「そやそや。その方にも巳岩をご案内したわ。ここらは大した寺なぞないからな」
巳岩自体からして、集落に住む人はすっかり少なくなり、もう紀浦市内や大阪に出てしまったこの男の世代が祭礼のたびに帰ってきて、なんとか回しているとのことだ。
礼を言って去ろうとする一遥たちを、ちょっと待ってなよ、と男は呼び止めた。
「これ、これをもって行きなされ」
ぷちぷちの緩衝材に包まれたのは、パックに詰められた二、三個の鶏卵だった。
「うちの鶏が産んだのや。詣でるならな」
「お供え、ですか」
「巳ぃさんの好物やからな」
供えるところは、すぐに分かるだろうと言われた。
つづら折りの山道は、木漏れ日が差して爽やかで静謐だった。
軽トラでも使うのか、コンクリート舗装されているので思ったよりは歩きやすい。
「基行おじさんにはあんまり奥に行くなって言われたけど」
彰人くんが少しだけ、気にするように言った。
「心配しすぎだよ、お父さんは」
「さっきのおじさんが言ってたご老人ってのは、一遥のおじいちゃんってことかな」
「うん。きっとそうだね」
二人ともに感じ取るものがあった。あとは黙々と歩いた。
二十分ほど登ると、造成された土地にトタンで葺いた小屋が行く手に見えてきた。
登り切った平たい一角に、斜面に向かって祭殿が設けられている。
トタンの社務所との間に、大きな蛇の絵を描いた木札と、さきほどの男が教えてくれた縁起札が建っている。
紀浦山地の道の多くは、彰人くん一家がお正月に初詣していた大師さまに繋がっている。
蟻田川に沿う桃園の参道はとりわけ難所だったらしく、多くの参拝者が道に迷ったという。
そうした人たちを蛇神様が導いたというのだ。
行く手に惑っているのは、いまの一遥も同じだ。
祭壇の正面に立つと、三宝の上に卵が供えてある。確かに、供える場所は一目瞭然だ。
先程譲り受けた卵の梱包を解く。
ころころ、ころ。
「あ」
またぞろ、
握りしめた手が滑り、パックがどさっとコンクリートの地面に落ちる。
ころころ、とこぼれ落ちたそのうちの一つを、慌てて追いかける。
「一遥、大丈夫?」
後ろから彰人くんの声が追いかけてくる。
割れてしまいもせず、調子よく傾斜を転がる卵を伏し目に見つめながら、あわわと足を動かす。
とん、と。
こんもりと、塚が盛られていた。
その土が、一遥の卵を優しく受け止める。
傍らには、黒をまとった足元が。
ふと、顔を上げる。
「やあ」
探し求めていた顔があった。
「十和・・・」
一遥はそれ以上の言葉を継げなかった。
「一遥、大丈夫か」
彰人くんが追いかけてくる。
「あなたは、確か大阪で、世話になりました」
十和は彰人くんに向かって礼を言った。
「十和、さん。どうして」
「あなたは、一遥のご親族ということですか」
「はい。小倉彰人といいます。一遥とは、
はとこ
で」「それではやはり、俊之の血を引いた方なのですね」
十和は、
おじいちゃんの名前を呼び捨てで呼んだ
。あ、卵。
ころころ、ころ、とまた転がり出す。
卵は、
十和の足を通り抜けて
、さらに先へと転がっていく。彰人くんが小走りに回り込んで、ようやく拾い上げた。
「俊之の眷属には、なぜかぼくの姿が見えるようです」
十和は苦笑した。
「あなたは、あの世との
あわい
にいるということですか」彰人くんは身震いしながら尋ねた。
――幽霊部員ならぬ、幽霊生徒を見つけようって訳だ。
「そう、そういうことです。ただし、足はちゃんとついていますけれど」
そんな予感はあった。
ビッグファミリーの、最後の逆説。
非実像
、だったのだ。「本王寺でのことは、やっぱりあなたが」
「ええ、お邪魔してしまいました。でも、誰にでも憑ける訳ではないのです」
十和は首を傾けた。
「この身体では、一〇一号室を始め、どの部屋の扉にも触ることが叶いませんでした。右往左往しているときに幸運にもあなたが廊下に出てきて話し掛けてくれた」
「驚いた顔をされていました」
「そう。それで思い切って、こう。お邪魔しました」
十和は飛び込むような仕草をした。
「俊之の血を薄く引いているから、僅かな時間であれば憑依できたということだと思います」
一遥たちの危機を救いに来てくれたとき、彰人くんが一時喪神していたのは、そういうことだったのだ。
彰人くんは引きつった笑いを見せながら、
「その、構わないですけど、何というか、
すり抜けたり
はできないんですか?」「意外と融通が効かなくてね。現世の人たちが移動するようにしか移動できないのです。逆に言うと電車には乗れたりして。本王寺へ向かう電車の中では、一遥と目が合って驚いたよ。今の姿のままでは、俊之以外の誰の目にも映らないと思っていたから」
「やっぱりあれは十和だったんだ・・・」
本紀快速の隣の車両に一瞬姿を見たように思ったのは、思った通り、十和だったのだ。
「俊之のお宅に寄ったとき、スミレさんには見えないようだったけど、もしかしたら基行さんには見えていたかもしれない。会釈をくれた気がするから」
――誰もいない方に向かって会釈したりしてたし。
お母さんが言っていたのは、そのことか。
「でも、おかしいよ。それじゃ、私に会いに来たのはどうやって。ファミレスでのことは、佐波っちにも見えていたはずだよ」
「それは・・・一遥に会うときは、俊之の身体を借りていたんだよ」
十和は後ろ暗そうに言った。
「もうすっかり老いた身体に、軽トラで遅くまで出かけさせて、悪かったと思っている。俊之に無理はさせられないから、もうこれ以上、こんなことを続けてはならないと思ったんだ」
おじいちゃんが遅くまで外出したり、疲れたように寝込んだりしていたのはそういうことだったのか。
鰹波に行った帰りの一遥と交通事故を起こしたときは、
おじいちゃんも帰り道だったのだ
。「そうか、憑依すると、
見た目にはあなたになる
んですね」彰人くんは思い起こすように言う。本王寺でラグビー部の仲間たちに助けを呼んだのは、彰人くんに憑依した十和だった。だから仲間たちには、十和の姿が記憶されていたのだ。
「そして、いまの姿では何かに触れたりはできないけれど、身体を得てしまえばそれが可能になるということですね」
「そう。そういうことです」
「ちゃんと手を繋いで、チョコレートも受け取ってくれた」
一遥は呟いた。
「バレンタインの日のことだね。あの日は大変だった」
十和は振り返って苦笑している。
「そもそもファミレスで迂闊にも海北高校生だと述べてしまったものだから、まさか一遥も海北高校生だったとはね。あのときは焦ったよ」
「そうだ、まっちゃんのクラスだって。どうしてまっちゃんを知ってたの」
「あれもたまたまだよ。暮らしがもう少し楽ならば、進学しようと思っていたときもあったんだ。そのときに世話をしてくれたのが、松浦という教諭だった。高校の先生といえば、ぼくにはその人なんだ」
――生活指導の松浦先生は、先祖代々教師の家系で・・・
「それって、まっちゃんの・・・」
「係累にあたる方なのかも知れないね。定かではないけれど」
「それで朝から俊之と出かけようと思ったけれど、基行さんに監視されてしまって、結局昼前にならないと抜け出せなかった」
「結局抜け出されて、今度は縛り付けてやるって張り切ってた」
「まだそのときは、霊体でも一遥の目には映るとは知らなかったからさ。それに、チョコレートを受け取らないといけない。どうしても俊之の身体が必要だったんだ。学校が終わった後なら、どうとでもできたんだろうけど・・・」
「あのときは私が、外出禁止令の最中だったからね」
「そう、だから昼休みしか機会がなかった。校門のセキュリティは、海辺で一遥が教えてくれたから、一遥と二親等の俊之のマイナンバーキーで開けられると知っていたけれど、海北高校の昼休み開始時刻が分からなかったから・・・」
それで、十和の手はあんなにも冷えていたのか。
「随分待ったから、俊之の身体をまた寒さの中に置いてしまった」
「そのときの出入りが、校門のログに残ったんだね・・・」
「騙してしまって、本当に申し訳なかった」
十和は頭を下げた。
「でも、必死だったんだ」
「必死って言ったって、どうしてこんなことをしたんですか。こんな、一遥を傷つけるようなことを」
彰人くんが遠慮がちに、しかし詰め寄るように言葉を投げる。
「そうだ。傷つけてしまった。でも、ごっこ遊びをやってみたかった、という理由では不足だろうか。ぼくは、ぼくたちは」
十和は唇に力を籠めた。
「幼くして働きに出された。北部の町では、路線バスの助手をしていたんだ。温泉郷に向かうお客さんが多かったからね、荷物の積み卸しだけでも大した労働だ。お客さんは有閑な人たちだったから、写真を撮ってもらったし、可愛がってもらってはいたけれどね」
十和は遠くを見るように、
「でもやっぱりつらかったよ。そうしてようやく夏休みをもらって帰郷して。小学生だった俊之とは山で出会ったんだ。相棒の、犬の麦福も連れて、三人で一緒に山遊びをした。結果的にあれが最後の思い出になったのか」
梁神バスの前で笑う十和の写真。
それはレトロな町並みに遠い時代への憧憬を与えるだけのものでは決してなく、過酷な労働の間の僅かな安らぎを切り取ったものだったとも言える。
「いまはよいね、ものが溢れている。一遥にスパゲッティを食べさせてもらったけれど、温泉に行くお客さんたちの食べるものに、ずっと憧れていたよ」
「後悔が、未練があったということですか。それですぐにビッグファミリーを使うというのは、少し飛躍しているようにも思いますが」
彰人くんは十和に同情的ではあるが、毅然と言う。
「ちょうど、そういうアプリがあると奥さんの、スミレさんから聞かされていたらしいね」
「それ、わたしがおばあちゃんに話したから・・・」
「そうだったのか。不思議な巡り合わせではあるな。一遥が教えてくれたアプリで、一遥と出会えたというのなら」
「おじいちゃんの遺伝子を使ったのなら、わたしとマッチングするのは当たり前だったんでしょ」
一遥は恨むように言った。
一瞬、間が出来た。
静寂が訪れると、山の霊気が五感に流れ込んできた。
鳥の飛び立つ音が遠くに聞こえる。
雲間に隠れた太陽が、再び現れて一遥たちの前後に影を落とす。
「それは違う。勘違いだ。俊之がそう言ったの?」
十和は打ち消すように言った。
「確かにそうだ」
彰人くんが震えながら呟く。
「何で気づかなかったんだ。おかしいんだよ、一遥。仮にトゥルヒスの
おじいちゃんは二親等だから、結婚相手にはなれない
」「あっ」
一遥は呆けたような声を出した。
「あるいは、俊之は分かった上で、一遥に諦めさせるためにそういう言い方をしたのかも知れない」
十和は彰人くんに呼応するように言葉を重ねる。
「どういうこと」
「トゥルヒスに登録したのは、紛れもなくぼくの遺伝子情報だ。ビッグファミリーに送付したのは、
ぼくの遺骨から採取した遺伝子だったんだ
」十和は、足元の塚に目を落とした。
「おじいちゃんは、十和のことを供養したって。そういうことだったの」
「水災に遭遇して、お陀仏になったのはあっという間だったけれど、身体はいつまでも土の中にいた。それがつい最近の地滑りで、やっと地表に戻ってきたということだ」
十和は他人事のように言った。
降り続く雪がもたらした地滑りで目を覚ました十和は、しばらくして、お父さんから示唆されて当時の現場を訪れた俊之おじいちゃんに再会した。
おじいちゃんは今のこの姿の十和と話をしながら、十和の遺骨をしかるべき形で葬った、そういうことだったのだろう。
慣れない嘘を塗り固めて、おじいちゃんが庇っていたのは、十和だった。
「七十年近く前の骨に、遺伝子情報なんて残ってるものなんですね」
彰人くんが驚いている。
「ぼくもそれを心配していたよ。火葬された場合は遺伝子情報も焼き尽くされてしまうらしいけれど、幸いというか、ぼくの骨はずっと土に埋まっていたし、分解もそれほど進んでいなかったみたいだ」
十和は苦笑しながら言った。
「いかにも、進歩というものは凄まじい速度で訪れる」
事実としてビッグファミリーの技術は、十和の送付した古びた検体から、無事に遺伝子情報を読み取ったのだ。
「じゃあ、おじいちゃんは」
「トゥルヒスなんて、家族の絆を数値化するだけの装置にすぎない、と一遥を納得させようとしたんじゃないのか。死人に未練を残すのは、すごく危ういことだから」
「でも、だとしたら、わたしの運命の人は、マッチング率98%の人は、十和だったんでしょ」
「確かにそうだ。だがそれは、そのときの一遥にとって、ぼくという存在が必要とされたに過ぎない」
十和は諭すように言った。
「だが、もうその必要はない。一遥は自分のことを好きになれたはずだ」
「それは・・・」
「人とは、その生涯を通じて一貫した存在ではないのだろう。たえず揺らぎ、惑う。あるとき必要だった相手が、あるとき必要でなくなるのかも知れない。そう考えると遺伝子によって予め規定された運命の相手など存在しない。ビッグファミリーという装置は、はじめから矛盾しているのだ」
「それは、おれもそう思います。使ってみてやっと、そう思ったというだけですけれど」
彰人くんが応じ、十和もそれに頷いた。
「もしも成立するとすれば、それはお互いがお互いの存在を認め合い、高め合うことの出来る関係だ。そうした関係に適した遺伝子の相性というのは、もしかしたらあるのかも知れない。ただ・・・」
十和は言葉を切る。
「死者たるぼくは、一方的な助言を与えることはできても、もはや一遥との間にそのような双方向に開かれた関係を結ぶことは出来ない」
「一方的でもいいじゃん」
一遥は惑いながら、それでも素直な気持ちを表した。
「それでもよかったのに。十和とお話しできて、十和が私のことを教えてくれて、これからもっと十和のことを知っていって、そんなふうに過ごしていくことができたらと思っていたのに」
必死に訴えかけたけれど、十和はさみしそうに笑う。
どうして微笑むの、こんなときにまで。
悔しい。
十和の言ったとおりだ。
十和によって目覚め、高まりを見せた一遥の世界は、今度はそのお礼に、十和へと流れ込んで、十和へと影響を与えることを欲している。
喪失されたのは、そうした双方向性だったのだ。
一遥の奔流のごとき感情と衝動は、行き場を見失い、湧き上がる寸前で押し止められている。
どうすればいいの。
一遥は十和の姿を
掴み取ろう
とした。しかし、その手は、ただ中空を切るばかりである。
「一遥、いや、十和さん」
彰人くんが一歩前に進み出て、苦笑するように、
「ぼくは、ちょっと
外した方が
良いかもしれないですね」その申し出に十和は瞬時、戸惑った表情を見せたが、すぐに得心する。
ありがとう、と僅かに呟くと、瞬くほどの間に、
彰人くんの姿が消え
、そこには十和だけが残った。むんずと、一遥は待ちきれないように十和の腕を掴んだ。
十和もまた、一遥の肩を
掴み、抱き寄せる
。「一遥、ここまで訪ねてきてくれてありがとう。もうそろそろ、眠ろうかと思っていたんだ。でも、きちんと挨拶ができてよかった」
「どうして。ずっと居てくれたらいい。堀内のあの家に居て、たまにお話を聞いてくれるだけでもいい」
一遥は
分からないことを言っている
、と十分に自覚していた。「おじいちゃんは身体に負担かもしれないけど、それなら、お父さんに借りたらいい・・・」
「そうはいかないだろう。もともとが、この山の霊気のほんの僅かを借りて、成されていた恩寵だ」
十和は言い聞かせるように囁く。
「なぜこんなことをしたのか、と君たちは聞いた。ぼくにもそれを、はっきりと説明することができない。だけど今は、なぜだか満足している。きっと未練を断ち切って成仏するというなら、こういう気持ちのことを言うのだろうと、
経験して初めて
気づいているよ」「わたしは、まだそう思えない。一人で勝手に満足しないで」
もっと、ずっと、そばに居たい。そばに居てほしい。
でも、思えば、バレンタインのときから、十和はこのときのことを予感しながら、一遥に接していた。
焦るように、伝えようとしていた。
――すべきことも、させられていることもある。
――だけれども、誰にでも、やりたいことがあるはずだ。
踏み出せ。
恐れずに、表現しろ。
自分の思考と行動を規定するのは、唯一、自分の意思だけなのだ。
「いま一方的な助言に適した媒体として、トゥルヒスはその役割を十分に果たした」
しかし十和はもう、それで十分なのだと繰り返す。
「一遥にとってこれから必要なのは、絶えず相互に交感し、襲い来る苦難にともに立ち向かえる存在だ。そんなふうな相手を自分自身で選び取ることが、一遥にはもう、できるはずだ」
遺伝子情報から与えられたマッチング率ではなく。
仲人さんが流石の才覚であてがってくれる相手ではなく。
自分がどういう人間なのかを理解し。
自分がどういう選好を抱いているかを把握し。
自分の長所を高らかに表明し、アプローチしてくれる人を受け容れ、迎え入れる準備を終え。
父と、母と、学校の先生が与えてくれた世界の外へと歩き出す。
「まだまだ、だめだよ。自分の足で歩くのは、怖い。引っ張って欲しいって願うのは、引っ張られることに心地よさを感じるのは、いけないことなの」
「押し付けられた正当性では、絶えざる変化に対抗する際に、どうしても無理が生じてしまうのだ」
もはや十和は瞑目し、山と一体化しようとしている。
「自らこそが選び取ったという歴史的経緯を帯びさせることで、だれよりも自分にとっての正当性を獲得できるのだよ。ぼくはそう思う」
はかない輪郭を慈しみ惜しむように、一遥は頭を彼の胸に埋めた。
十和も髪に触れ、それに応じる。
これで終わりだ。
ファミレスでファストフードを食べて笑い合い。
海岸で、擁壁に凭れて語り合い。
バレンタインに、冷えきった手を繋ぎ合った。
もうこれまでのように触れあうことはできない。
「それと、もう一つだけ、一遥に謝らないといけないことがある」
十和は最後にもう一度笑った。
「なに?」
一遥は涙を浮かべながら尋ねる。
「ホワイトデー、返さなくてごめん。もらいっぱなしになってしまった」
そのまま透明度を増す。
「そんなこと・・・」
もらいっぱなしだなんて、そんなことはないよ。
いっぱい、お返しをもらったよ。
目を瞑って、涙の熱さを瞼に感じながら、一遥は中有へ向かって呟いた。
「・・・行ってしまったのか」
十和とは違う、ラガーマンの声が返ってきた。
いたわられながら、参道を下った。
その後のことは、あまり記憶に残っていない。
得たものと同じだけ、喪ったものがある。
喪ったものと同じだけ、得たものがある。
助手席に座りながら、霞が白く照りつける外の景色を、ただぼんやりと眺めていた。
雪解け水で嵩を増した蟻田川の流れが路面の高さに近づいてくるまでずっと、そうやって。
一遥は次の春に向かって、紀浦山地の雄大な坂道を下っていった。