三学期が始まる
文字数 4,958文字
「あけおめー。はぁ、登録したん」
三学期最初の朝、教室に入ると、やっぱり話題はビッグファミリー一色だった。
「うん。
百伊と千咲がこちらを見つめているのを意識しながら、一遥は鞄を下ろした。
既に百伊はパクヒス、千咲はラヴヒスとそれぞれのコースを表明しているのに対し、一遥がどのコースを選んだのかは仲良しトークルームでも言及されておらず、二人とも強く関心を持っていたのだと分かる。
本当はトゥルヒスを選んだことは、二人の親友にも隠すことにした。
「予想通りの展開だね」
「はぁらしいじゃん。頑張りなよ」
二人とも、
「ありがと」
相槌を打ちながらも、心に靄がたちこめた。
二人が思う、一遥らしさとは何だろうか。
わたしが思う、わたしらしさとは何だろうか。
百伊にも千咲にも悪気はないのは分かっているが、思わず考え込んでしまった。
プレヒスの特色は、最もリスクが小さいように見えるということだ。マイナンバーキーとの連携に尻込みしていた一遥の態度を見れば、プレヒスを選びそうである事は容易に想像が付く。
そうした態度に表れているように、一遥は見知らぬものへの恐れが強い。
石橋を叩いて叩いて、結局渡らないような考え方が染みついている。
そしてそれでいて、周りの友だちから取り残されることも、同じくらいに恐れている。
だから一遥にとって、ビッグファミリーに参加しないという選択肢はなかった。
おざなりに場の雰囲気に調子を合わせて、主体的な選択をしたことがない。
それは自分の主義や嗜好に沿って選択をすることで獲得されるはずの、尖った面白みのある人格が形成される機会をもってこなかったということだ。
と、そういった分析はさておいて、厳然たる事実として、一遥はこのお正月に、アンスリウムの仕業でトゥルヒスを選んでしまっている。
迷った結果、とりあえず使ってみて、やっぱり怖ければ、カードを選ばなければ良いだけだ、と思い直した。
彰人くんが言ったように、遺伝子情報が開示されているとしても、一遥の選択や行動に紐付かなければ、何か決定的な不利益を被るわけでもないと、そう思うことにしてみたのだ。
幸いにして、元日から今日まで毎日一枚ずつ配られてきたカードは、これも彰人くんが言っていたとおりマッチング率80%前後のものばかりで、顔写真からの印象もピンとこないものだった。
ちなみにトゥルヒスの顔写真はラヴヒスと違ってマイナンバーキーに登録されたものではないので、各自が勝手に加工されたキメ顔を設定してあり、信憑性は薄い。
なお、一遥の顔写真は去年の秋に遠足に行った時の解像度低めの集合写真に設定してある。
まあ、いいか。
一遥は息を吐いた。
トゥルヒスに登録してしまったときは一瞬気が遠くなったが、日にちが経つにつれて、こんなものかという慣れが生じてしまったのも確かである。
「って、なんで見守りムードなの。ゆんはパクヒス、どうなの」
千咲が笑いながら話を振った。
「ぼちぼちだね。ってかちぃ、こないだ海北なんて田舎だから出会いがないみたいなこと言ってたけど、やってみるとけっこう若い男の人もいるもんだよ」
パクヒスは四つのコースで唯一、地域フィルターをかけることができる。
「えー、どうせゴリラばっかりじゃないの」
「偏見がやべえ」
百伊は舌を出した。
みなそれぞれに、選ぶ立場、選ばれる立場を楽しんでいる。
「ラヴヒスはどう? イケメンさんはいた?」
一遥も他のコースの様子に興味をもって尋ねてみた。
「わたしはもうマッチングしたよ」
マジか。
こともなげに千咲が答えるので驚いた。
「ちぃ、それ最初に言えよ。わたしの進捗とか訊いてる場合じゃない・・・って、それ聞いて欲しくて待ってたっしょ! 詳しく詳しく」
百伊が大声を出して、教室の視線が一遥たちに集まる。
二人とも気にしていないのに、なぜか一遥だけが身を縮める。
「お前ら新年早々騒がしいぞ! あけましておめでとう!」
担任のラーメンが教室に入ってきて、肝腎の所で話が途切れてしまった。
千咲が席に戻って、それを百伊が後ろから突っついてこそこそと話を続けている。一遥は一番後ろの席からその様子を見ていた。
おおかた、後で写真を見せろとでも言っているのだろう。
ラヴヒスが太鼓判を押す程のイケメンの写真には一遥も関心があった。
始業式が終わると、ちらちらと雪が舞い始めた。
「さーて、ちぃ、話してもらおうか」
百伊が手ぐすねを引いているが、
「あ、でも昼から雪が積もるかもだから、早く帰って来いって」
一遥は朝方お父さんから言いつけられたことを思い出した。積もってしまうと集落までの坂道をスクーターで登れなくなるので、あまりダラダラとおしゃべりをしている訳にもいかなかった。
「それもそうか。じゃあ、あとはメッセージで・・・」
「いや、じゃあ、工場までわたしも行くよ」
千咲は一遥と百伊がチャリとバイクを乗り換える藤琴興産まで着いてくると提案した。
千咲の家は学校のすぐ近くなので遠回りではあるが、百伊の伯父さんの工場までは歩けない距離ではない。
それにご近所さんという程ではないが、千咲自身が伯父さんとはわりと仲良しのようだ。
「なーんだ、ちぃも、戦果を語りたいんじゃん。わたしらでよけりゃ、うかがいますわよ」
「うるさいなあ。ちょっと相談乗ってくれ」
藤琴興産までの道すがらを、二台の自転車を曳いて三人で歩いた。
「相手は大阪の高校生なわけよ」
千咲はラヴヒスでマッチングした男の子の写真を見せてくれた。
マイナンバーキーの公式な写真にもかかわらず眉目秀麗な容貌は思わず見とれるほどだった。
「常井 健太郎くんっていうの」
「ほーう。なるほど。確かに坂道健太郎と仁藤健太郎を足して二で割ったみたいな顔だな」
百伊が二人の若手俳優の名前を挙げて喩えたのがピッタリすぎて、思わず吹き出してしまった。
「ちぃちゃん、こんなイケメンさんとマッチングできるなんて、さすがだね」
これだけのイケメンならラヴヒスユーザーだけでなく、リアルの周りの女子たちも放っておかないと思うが、目の肥えた中で千咲が選ばれたのであれば、それは見た目だけでなく理知的な性分がメッセージなどで伝わったと言うことだろうか。
「こんな人が芸能人にもならずに、野生で生息してるんだな」
百伊の感嘆に、千咲は鼻をふふんと鳴らすと、
「ところが問題が一つある訳よ。彼は三年だからもう卒業で、春からは東京の大学に行くんだって」
「はぁ? それじゃせっかく付き合っても遠距離恋愛確定ってこと?」
「そこが悩ましいんだよね」
腕組みをしながらも、千咲の顔は困っているわけではない。
東京に行く機会が出来てよい、くらいに思っているのかもしれない。
「んで、会う約束はもうしたわけ?」
「うん。とりあえず三連休に、オセアニア・スタジオに行こうという話になってる」
おー、定番だ。
高校生カップルに人気の、大阪湾の埋め立て地にあるテーマパークである。
「って、三連休、もう今週末じゃん。すごい急だな」
「別に先延ばしにしても仕方ないでしょ。わたしもちょうど空いてたし」
確かにそうだ。それに春から東京に去ってしまうのなら、お互いに関係を深める時間が少なくて焦る気持ちもあるだろう。
「おぅ、お嬢ちゃんたち。お帰り」
いつの間にか、藤琴興産の敷地まで辿り着いていた。
百伊の伯父さんが、ちょうど昼休みなのか、工場の外に出てきていた。
いつもありがとうございます。と、一遥はチャリとスクーターを置かせて貰っていることへの御礼の挨拶をした。お父さんからこの伯父さんに会ったら必ず挨拶するよう言いつけられている。
「百伊、お前も呑むか?」
伯父さんはなぜかこんな時間から小脇に酒瓶を抱えていた。
「ばっ、おっさん、JKに飲酒を勧めるのはコンプライアンスがマズいぞ。アイエスオー取ったんだろ?」
百伊は早口でよく分からないことを言って断っている。
こいつ、正月休みは呑んでたな?
「ヘンな言葉ばっかり覚えよってからに」
伯父さんは笑っている。
「そういやお嬢ちゃん、アレの具合はどうだい?」
「あ、良い感じです。ありがとうございます」
千咲は鞄からタブレット状の端末を取り出す。
「なんじゃそりゃ」
一般的なタブレットよりは少し小ぶりなそれを、百伊が覗き込む。
「電子書籍用に、ちょっと大きめのを設計してもらったの。スマホとリンクさせて」
「ほーう、ちぃ、おっさんと仲良しだな」
「まあね。社長さん、校門のセキュリティ、アップデートしたんですよね? 新しい仕様を教えてください」
千咲が尋ねた。そういえば冬休み中に藤琴興産がアップデートするとか言ってたな。
こうやって親戚でもない大人に頼み事をしたり、物怖じせずに質問したりできる千咲の度胸に、一遥はいつも感服する。
「お、またセキュリティホールを狙ってるな、嬢ちゃん。今度のは堅牢やぞ」
「前のは、遷移の確定に十秒もかかってましたもんね」
そうだ。そのおかげで一遥はスカートの服装指導を受けることから逃れられたわけだが。
「そこは今後の課題よ。全部の門を連動させてるからな」
「アジャイル開発ですね」
「まあよ。その代わりちょっとだけ柔軟なシステムになった。住民票のデータベースを参照して、二親等以内のマイナンバーキーなら解除できるようにしたからな」
「あー、三者懇談対策ですね。わたしのお母さんも、不便だって言ってましたから」
千咲は打てば響くように相槌を打った。
毎学期の終業式前には三者懇談で教師・生徒・保護者の三者で就学態度の共有や進路の相談等を行うわけだが、例の校門セキュリティシステムが出来てから、保護者が来校する時に毎回セキュリティを解除しなければならず、保護者と教員ともに面倒と負担になっていたのだった。
その対応として、保護者に対してはセキュリティを一部緩和することにした、ということらしい。
「二親等って何?」
百伊が尋ねる。
「親子関係の縦線が一親等で、何本その線を辿ればその人に辿り着くか、ってのが親等数の考え方だ。おっさんと百伊が何親等か分かるか?」
「お父さんで一、おっさんはお父さんのお兄さんだから二、二親等じゃないの? げ、おっさん、うちの学校入れるんかい!」
「ところがどっこい、おっさんは締め出されているんだな。親等数は親子関係でしか辿れないから、百伊→お父さん→お祖父さん→おっさん、と一度お祖父さんのところまで登って、おっさんまで下がってこないといけない。だからおっさんは三親等なんだ」
「ほーう。ということは、両親と、祖父母しか入れないってことか」
「そうそう。さすがに片親の家庭とか、祖父母に育てられている家庭とかもあるから、一親等にはできなかったみたいだな。最近の学校は、そういう配慮も大変だ」
「でもセキュリティホールが却って拡大したようにも思えますが。虐待家庭とかだと、両親が学校に入ってこれたらマズい、みたいなケースもありますよね」
千咲が指摘した。
「まあその辺は、そういう親のマイナンバーキーは対象外にするとか、個別に除外設定をするしかないわな。学校も行政機関だから、行政同士の連携は頑張って欲しいもんだが」
思ったよりまだまだセキュリティホールだらけだ。一遥は心配になった。
と言って何か行動しようというわけではなく、大人たちが上手いことやってくれるだろう、と頼り切るくらいには一遥は子どもである。
少女たちのそんな不安げな表情を読み取ったのか、伯父さんは、
「心配せんでも、学校じゃ先生たちがちゃーんと守ってくれるさ。むしろお嬢ちゃんたちの大好きな惚れた腫れたの方が、よっぽど人生のセキュリティホールみたいなもんぞ」
一遥たちが朝からずっと話していた恋バナを聞いていたかのようなことを言った。
「アルコールの方がよっぽどセキュリティホールだろ」
「こりゃ一本取られたな。しかし、人生を豊かにするセキュリティホールなら、むしろもうけたほうがいいんじゃないか? 何事も経験だ、経験」
百伊に鋭くツッコまれて、伯父さんは事務棟の方へ退散していった。
三学期最初の朝、教室に入ると、やっぱり話題はビッグファミリー一色だった。
「うん。
プレヒスにしたよ
。ちょこちょこやってみる」百伊と千咲がこちらを見つめているのを意識しながら、一遥は鞄を下ろした。
既に百伊はパクヒス、千咲はラヴヒスとそれぞれのコースを表明しているのに対し、一遥がどのコースを選んだのかは仲良しトークルームでも言及されておらず、二人とも強く関心を持っていたのだと分かる。
本当はトゥルヒスを選んだことは、二人の親友にも隠すことにした。
「予想通りの展開だね」
「はぁらしいじゃん。頑張りなよ」
二人とも、
プレヒスを選んだ一遥を
、似つかわしいものと解釈している。「ありがと」
相槌を打ちながらも、心に靄がたちこめた。
二人が思う、一遥らしさとは何だろうか。
わたしが思う、わたしらしさとは何だろうか。
百伊にも千咲にも悪気はないのは分かっているが、思わず考え込んでしまった。
プレヒスの特色は、最もリスクが小さいように見えるということだ。マイナンバーキーとの連携に尻込みしていた一遥の態度を見れば、プレヒスを選びそうである事は容易に想像が付く。
そうした態度に表れているように、一遥は見知らぬものへの恐れが強い。
石橋を叩いて叩いて、結局渡らないような考え方が染みついている。
そしてそれでいて、周りの友だちから取り残されることも、同じくらいに恐れている。
だから一遥にとって、ビッグファミリーに参加しないという選択肢はなかった。
おざなりに場の雰囲気に調子を合わせて、主体的な選択をしたことがない。
それは自分の主義や嗜好に沿って選択をすることで獲得されるはずの、尖った面白みのある人格が形成される機会をもってこなかったということだ。
と、そういった分析はさておいて、厳然たる事実として、一遥はこのお正月に、アンスリウムの仕業でトゥルヒスを選んでしまっている。
迷った結果、とりあえず使ってみて、やっぱり怖ければ、カードを選ばなければ良いだけだ、と思い直した。
彰人くんが言ったように、遺伝子情報が開示されているとしても、一遥の選択や行動に紐付かなければ、何か決定的な不利益を被るわけでもないと、そう思うことにしてみたのだ。
幸いにして、元日から今日まで毎日一枚ずつ配られてきたカードは、これも彰人くんが言っていたとおりマッチング率80%前後のものばかりで、顔写真からの印象もピンとこないものだった。
ちなみにトゥルヒスの顔写真はラヴヒスと違ってマイナンバーキーに登録されたものではないので、各自が勝手に加工されたキメ顔を設定してあり、信憑性は薄い。
なお、一遥の顔写真は去年の秋に遠足に行った時の解像度低めの集合写真に設定してある。
まあ、いいか。
一遥は息を吐いた。
トゥルヒスに登録してしまったときは一瞬気が遠くなったが、日にちが経つにつれて、こんなものかという慣れが生じてしまったのも確かである。
「って、なんで見守りムードなの。ゆんはパクヒス、どうなの」
千咲が笑いながら話を振った。
「ぼちぼちだね。ってかちぃ、こないだ海北なんて田舎だから出会いがないみたいなこと言ってたけど、やってみるとけっこう若い男の人もいるもんだよ」
パクヒスは四つのコースで唯一、地域フィルターをかけることができる。
「えー、どうせゴリラばっかりじゃないの」
「偏見がやべえ」
百伊は舌を出した。
みなそれぞれに、選ぶ立場、選ばれる立場を楽しんでいる。
「ラヴヒスはどう? イケメンさんはいた?」
一遥も他のコースの様子に興味をもって尋ねてみた。
「わたしはもうマッチングしたよ」
マジか。
こともなげに千咲が答えるので驚いた。
「ちぃ、それ最初に言えよ。わたしの進捗とか訊いてる場合じゃない・・・って、それ聞いて欲しくて待ってたっしょ! 詳しく詳しく」
百伊が大声を出して、教室の視線が一遥たちに集まる。
二人とも気にしていないのに、なぜか一遥だけが身を縮める。
「お前ら新年早々騒がしいぞ! あけましておめでとう!」
担任のラーメンが教室に入ってきて、肝腎の所で話が途切れてしまった。
千咲が席に戻って、それを百伊が後ろから突っついてこそこそと話を続けている。一遥は一番後ろの席からその様子を見ていた。
おおかた、後で写真を見せろとでも言っているのだろう。
ラヴヒスが太鼓判を押す程のイケメンの写真には一遥も関心があった。
始業式が終わると、ちらちらと雪が舞い始めた。
「さーて、ちぃ、話してもらおうか」
百伊が手ぐすねを引いているが、
「あ、でも昼から雪が積もるかもだから、早く帰って来いって」
一遥は朝方お父さんから言いつけられたことを思い出した。積もってしまうと集落までの坂道をスクーターで登れなくなるので、あまりダラダラとおしゃべりをしている訳にもいかなかった。
「それもそうか。じゃあ、あとはメッセージで・・・」
「いや、じゃあ、工場までわたしも行くよ」
千咲は一遥と百伊がチャリとバイクを乗り換える藤琴興産まで着いてくると提案した。
千咲の家は学校のすぐ近くなので遠回りではあるが、百伊の伯父さんの工場までは歩けない距離ではない。
それにご近所さんという程ではないが、千咲自身が伯父さんとはわりと仲良しのようだ。
「なーんだ、ちぃも、戦果を語りたいんじゃん。わたしらでよけりゃ、うかがいますわよ」
「うるさいなあ。ちょっと相談乗ってくれ」
藤琴興産までの道すがらを、二台の自転車を曳いて三人で歩いた。
「相手は大阪の高校生なわけよ」
千咲はラヴヒスでマッチングした男の子の写真を見せてくれた。
マイナンバーキーの公式な写真にもかかわらず眉目秀麗な容貌は思わず見とれるほどだった。
「
「ほーう。なるほど。確かに坂道健太郎と仁藤健太郎を足して二で割ったみたいな顔だな」
百伊が二人の若手俳優の名前を挙げて喩えたのがピッタリすぎて、思わず吹き出してしまった。
「ちぃちゃん、こんなイケメンさんとマッチングできるなんて、さすがだね」
これだけのイケメンならラヴヒスユーザーだけでなく、リアルの周りの女子たちも放っておかないと思うが、目の肥えた中で千咲が選ばれたのであれば、それは見た目だけでなく理知的な性分がメッセージなどで伝わったと言うことだろうか。
「こんな人が芸能人にもならずに、野生で生息してるんだな」
百伊の感嘆に、千咲は鼻をふふんと鳴らすと、
「ところが問題が一つある訳よ。彼は三年だからもう卒業で、春からは東京の大学に行くんだって」
「はぁ? それじゃせっかく付き合っても遠距離恋愛確定ってこと?」
「そこが悩ましいんだよね」
腕組みをしながらも、千咲の顔は困っているわけではない。
東京に行く機会が出来てよい、くらいに思っているのかもしれない。
「んで、会う約束はもうしたわけ?」
「うん。とりあえず三連休に、オセアニア・スタジオに行こうという話になってる」
おー、定番だ。
高校生カップルに人気の、大阪湾の埋め立て地にあるテーマパークである。
「って、三連休、もう今週末じゃん。すごい急だな」
「別に先延ばしにしても仕方ないでしょ。わたしもちょうど空いてたし」
確かにそうだ。それに春から東京に去ってしまうのなら、お互いに関係を深める時間が少なくて焦る気持ちもあるだろう。
「おぅ、お嬢ちゃんたち。お帰り」
いつの間にか、藤琴興産の敷地まで辿り着いていた。
百伊の伯父さんが、ちょうど昼休みなのか、工場の外に出てきていた。
いつもありがとうございます。と、一遥はチャリとスクーターを置かせて貰っていることへの御礼の挨拶をした。お父さんからこの伯父さんに会ったら必ず挨拶するよう言いつけられている。
「百伊、お前も呑むか?」
伯父さんはなぜかこんな時間から小脇に酒瓶を抱えていた。
「ばっ、おっさん、JKに飲酒を勧めるのはコンプライアンスがマズいぞ。アイエスオー取ったんだろ?」
百伊は早口でよく分からないことを言って断っている。
こいつ、正月休みは呑んでたな?
「ヘンな言葉ばっかり覚えよってからに」
伯父さんは笑っている。
「そういやお嬢ちゃん、アレの具合はどうだい?」
「あ、良い感じです。ありがとうございます」
千咲は鞄からタブレット状の端末を取り出す。
「なんじゃそりゃ」
一般的なタブレットよりは少し小ぶりなそれを、百伊が覗き込む。
「電子書籍用に、ちょっと大きめのを設計してもらったの。スマホとリンクさせて」
「ほーう、ちぃ、おっさんと仲良しだな」
「まあね。社長さん、校門のセキュリティ、アップデートしたんですよね? 新しい仕様を教えてください」
千咲が尋ねた。そういえば冬休み中に藤琴興産がアップデートするとか言ってたな。
こうやって親戚でもない大人に頼み事をしたり、物怖じせずに質問したりできる千咲の度胸に、一遥はいつも感服する。
「お、またセキュリティホールを狙ってるな、嬢ちゃん。今度のは堅牢やぞ」
「前のは、遷移の確定に十秒もかかってましたもんね」
そうだ。そのおかげで一遥はスカートの服装指導を受けることから逃れられたわけだが。
「そこは今後の課題よ。全部の門を連動させてるからな」
「アジャイル開発ですね」
「まあよ。その代わりちょっとだけ柔軟なシステムになった。住民票のデータベースを参照して、二親等以内のマイナンバーキーなら解除できるようにしたからな」
「あー、三者懇談対策ですね。わたしのお母さんも、不便だって言ってましたから」
千咲は打てば響くように相槌を打った。
毎学期の終業式前には三者懇談で教師・生徒・保護者の三者で就学態度の共有や進路の相談等を行うわけだが、例の校門セキュリティシステムが出来てから、保護者が来校する時に毎回セキュリティを解除しなければならず、保護者と教員ともに面倒と負担になっていたのだった。
その対応として、保護者に対してはセキュリティを一部緩和することにした、ということらしい。
「二親等って何?」
百伊が尋ねる。
「親子関係の縦線が一親等で、何本その線を辿ればその人に辿り着くか、ってのが親等数の考え方だ。おっさんと百伊が何親等か分かるか?」
「お父さんで一、おっさんはお父さんのお兄さんだから二、二親等じゃないの? げ、おっさん、うちの学校入れるんかい!」
「ところがどっこい、おっさんは締め出されているんだな。親等数は親子関係でしか辿れないから、百伊→お父さん→お祖父さん→おっさん、と一度お祖父さんのところまで登って、おっさんまで下がってこないといけない。だからおっさんは三親等なんだ」
「ほーう。ということは、両親と、祖父母しか入れないってことか」
「そうそう。さすがに片親の家庭とか、祖父母に育てられている家庭とかもあるから、一親等にはできなかったみたいだな。最近の学校は、そういう配慮も大変だ」
「でもセキュリティホールが却って拡大したようにも思えますが。虐待家庭とかだと、両親が学校に入ってこれたらマズい、みたいなケースもありますよね」
千咲が指摘した。
「まあその辺は、そういう親のマイナンバーキーは対象外にするとか、個別に除外設定をするしかないわな。学校も行政機関だから、行政同士の連携は頑張って欲しいもんだが」
思ったよりまだまだセキュリティホールだらけだ。一遥は心配になった。
と言って何か行動しようというわけではなく、大人たちが上手いことやってくれるだろう、と頼り切るくらいには一遥は子どもである。
少女たちのそんな不安げな表情を読み取ったのか、伯父さんは、
「心配せんでも、学校じゃ先生たちがちゃーんと守ってくれるさ。むしろお嬢ちゃんたちの大好きな惚れた腫れたの方が、よっぽど人生のセキュリティホールみたいなもんぞ」
一遥たちが朝からずっと話していた恋バナを聞いていたかのようなことを言った。
「アルコールの方がよっぽどセキュリティホールだろ」
「こりゃ一本取られたな。しかし、人生を豊かにするセキュリティホールなら、むしろもうけたほうがいいんじゃないか? 何事も経験だ、経験」
百伊に鋭くツッコまれて、伯父さんは事務棟の方へ退散していった。