ラヴヒス一〇一号室

文字数 10,937文字

 紀浦大水害の発表原稿は大詰めだった。
 既に県内の地図に青く水系の線を書き込み、被害規模を示す吹き出しを要所に置く作図は済んだ。
 あとは各地点で被害に遭った人たちのインタビューを原稿に入れて、内容の掘り下げをすれば良いと思うのだが、実のところ災害後の復旧活動の苦労話なんかはよくよく集まるのだが、発災時点の状況については、夜の出来事だったこともあって、突然のことに戸惑うばかりの証言が多く、正直似たり寄ったりのものの繰り返しになってしまっていた。
 それよりもなによりも、十和のことである。
 バレンタインデーに会って話をして、その日の夜も含めてもう何度もメッセージを送った。
 しかし、いつもならば遅くとも次の日には返ってきていた返信が、この週末に至るまで全く返ってこなくなってしまっていた。
 忙しいのかな、と思ってしばらく遠慮してみようかと思ったけれど、どうにも気になった。
 それは、あの日の十和が、どこか寂しそうな目をしていたからだったかもしれない。
 考えても仕方ない。図書館にでも行くか。
 そぞろにまとまりのない思索を止めて、まずは原稿を進めよう。
 と、立ち上がってから、そういえばまだ外出禁止が解けていないんだった、と思い直す。
「一遥ぁ、お母さん出かけるよ」
 ちょうど玄関の方から葵お母さんの呼びかける声がしたので、立ったついでに見送りに出た。
「どこ行くんだっけ」
「保健所よ。譲渡会があるから」
 お母さんは靴を履きながら、駆け寄ってきたアンスリウムを撫でている。
「えぇ、お父さん怒るよ。うちにはもうアンちゃんがいるだろって」
「お父さん、たぶん今日は帰ってこないんじゃないかな」
「え、そうなの。おじいちゃんのとこ?」
「うん。しっかり休めば治るのに、おじいちゃんたら出かけるのを止めないんだって。この週末は縛ってでも布団に留まってもらう、って言ってたよ」
 まだ、先週からの体調不良が長引いているらしい。歳だけに少し心配にはなる。
「でもそれじゃ、黙って出かけるってこと?」
「見るだけだから。もしかしたら、知り合いの先生に引き取ってもらうよう頼むかも知れないけど」
「それだけにしときなよ」
「分かってるって」
 アン、といってらっしゃいの挨拶をするアンスリウムをもう一度撫でてから、お母さんはいそいそと出かけてしまった。
 相変わらずマイペースな母である。本当に大丈夫なのだろうか。
 アンスリウムとともに取り残されてしまうと、急に家の中が広くなった気がした。
「アンちゃん、おまえ、弟か妹が来たらどうする?」
 しゃがみ込んで語りかけながら、だが、それなら一遥も、両親のいない間に少しくらい出かけても良いか、という気持ちになってきた。
 以前なら、お父さんに言いつけられたことを破ろうなどと思ったことはないが、最近はなんだか反抗的な気持ちになってしまっている。
 お母さんの車のエンジンの音が小さくなってから、玄関の戸をあけて、あたりを探るように見渡す。
 足元でアンスリウムがおなじように左右に首を振っている。
 うーん。
 朝霜は溶けて、草の萌える匂いが鼻を通って目の奥で感じられる。
 そんな森閑とした春の兆しがなんだか寂しい気がして、一遥は踵を返した。
「アンー?」
 アンスリウムは尻尾を振って一遥に追随する。
 ただ人間のいる場所に自分もいるのが好きなだけなのだろうけれど、いまはそれが頼もしかった。
 居間に戻ると、ページを開いた図書の隣にスマホを置いて、更新されないメッセージを眺める。
 やっぱり図書館に行くか。
 そういえば海に行った日、図書館に寄ろうと十和に誘われたな。
 なんとかして集中しようと思うほどに、結局彼のことを考えてしまっている。
 ぶーっぶーっと何通もの着信が増えていくのを、どうせメルマガだろう、邪魔だな、と無視して、十和とやりとりした画面を何度もスクロールして振り返り、咀嚼して、そうやって時間が過ぎていった。
 突然、画面がブラックアウトして、思わず指を浮かせた。
 ややあって、着信する。
 百伊からだ。なんだろう。
 慌てて通話ボタンを押すと、スピーカーから叫び声が響いた。

! おまえ何してる!」
「ゆん? どうしたの」
 たじろぎながら応答した。
「ルーム、見てないんか?」
 え、ルーム。慌ててスマホを耳から離し、通話状態のままでアプリを起動する。

【やばい たすけてくれ】
【え、どうした?】
【らち】
【今日、大阪? どこ?】
【本王寺だっけ!? どうすればいい?】
【ちぃ、大丈夫!?】
【ちぃ??】

 なんだこれ?
 千咲と百伊が要領を得ないやりとりをしているのを、パチパチと目を瞬かせながらスクロールする。
「ちぃが今日どこに行ったか知ってるか?」
「し、知らない。常井くんに会いに行ったのかな」
「らちってなんだ、拉致られるってことか?」
「ぜんぜんわかんない・・・警察に言った方が良い?」
 泡を食って提案するが、百伊は、
「これだけじゃなにも言えないっしょ。はぁ、いまどこ? とりあえず合流しよ」
 ぼうっとしている間に、千咲が送ってきた救援メッセージを覚知するのが遅れてしまった。
 電話が切れると、十和とのメッセージに画面が戻る。
 一遥は無我夢中で、そこに新しいメッセージを入れた。

いちは:十和、どこにいるの? 返事して。
いちは:ちぃちゃんが、大変みたい。十和も来て。

 それだけ打ち込むと、一遥は大急ぎで身支度し、海北駅へとスロットルを開いた。
 紀浦国体の年に駅舎を一新し、立派に整備された海北駅のロータリーの片隅にスクーターを停めて、改札へと走る。
 すでに百伊はそこにいた。そして、
「堀内、遅いぞ」
 ダウンジャケットの膨らんだ佐波っちが傍らでイライラと身体を揺すっていた。
「佐波っち、なんで」
「わたしが呼んだんだよ。男手があった方が良いかもと思って」
 百伊が答えた。
「もう次の電車が出る。急ごう」
 三十分に一本のローカル線だ。マイナンバーキーを改札機にかざして、構内へ進入する。
「わたしも、十和を呼んだよ。どこにいるか分からないけど」
「待ってる暇ないよ」
「こないだのファミレスの男か。来るなら、紀浦かどっかで合流できるかもな。もしかしたら、本王寺ででも」
 一遥を待つ間、百伊は千咲の母親と連絡を取り、どうやら本王寺に出かけたらしいことを聞き出した。
 また、不穏なメッセージが届いたことを伝えて、念のため警察に言った方が良いんじゃないかと相談したという。おばさんからは「こっちも連絡してみる。もうすこしハッキリしたら、また教えて」と言われたとのことだ。確かに今の段階で本王寺署に通報しても、なにも具体的な手は打ちようがないだろう。
 それで、とりあえず三人で本王寺まで向かうことにした。
 千咲がどこにいるにしても、すぐに向かえるようにしておこうと考えたのだ。
「常井くんと一緒なら、大丈夫だと思うけど」
 一遥は不安を払うように言った。
 紀浦行きの二両編成が到着し、ドアが開く僅かの間ももどかしく乗り込む。
「常井くんってのが、ラヴヒスで林がマッチングした男かよ」
 佐波っちが眉間に皺を寄せる。
「どうせいけ好かないイケメンだろ」
「人の彼氏をよく知りもせずにディスるなよ」
 百伊が冷たい目で振り返った。しばしにらみ合いが生じる。
「でも、佐波っち、ちぃちゃんがラヴヒスやってることは、知ってたんだ」
 一遥に問われて、佐波っちはややたじろいだように、
「それくらいはさ、教えてくれたよ。でもそれだけだよ」
 拳を握って、膝を叩いた。
「そんな話、するくらいには仲良くしてるってことだよね」
 一遥は図書室で佐波っちが見せた態度を思い出しながら、慰めるように言った。
「あいつにとっておれは、テニス部の仲間ってだけなんだろうけど」
 百伊はピンときたように、
「ほーう、そういうことか。それでちぃが常井くんと上手くいくのが、面白くないわけか」
 なんだか今日の百伊は、やけに突っかかるな。
 もちろん千咲が心配で余裕がないのだろうが、それだけではない機嫌の悪さを感じる。
「あいつは、東京に行きたいんだろ。それで、連れ出してくれそうな男になんとなく近づいてるだけだ。本当はもっと思慮深いやつなのに、なんでそんなに焦るんだよ。おれだって、それだけでいいんだったら、一緒に東京に・・・」
「だったら、うじうじしてないで、ちぃなり、常井くんなりに直接言いなよ」
「言ったさ! けどあいつは、そんな予想通りの展開は嫌だって」
 ええっ、と一遥は驚いた。いつの間にかすでに、そんなやりとりが繰り広げられていたのか。
 バレンタインデーに一遥が百伊や千咲に隠れて十和と密会したように、千咲も一遥の預かり知らぬ間に、同級生から告白を受けている。
「わかるよ。あいつは頭、いいからな。先が見えるんだろう。おれって人間の底も、簡単に見透かされているのかもな」
「ほーう。まあそんな状態でも、一緒についてきてくれたことは感謝するよ」
 百伊はさすがに言い過ぎたと思ったのか、気まずそうに目を逸らせた。
 紀浦駅の古びた白い陸橋を渡って、本王寺行きのホームへ。
 既に入線し、アイドリングを始めている電車に乗り込むと、思いのほか席が埋まっていた。
「あそこ、あいてるだろ。二人座れよ」
 佐波っちはぶっきらぼうに指し示した。
 自分は立ったままで大丈夫だということだろう。百伊とちょっとだけ距離を置きたいのかも知れない。
「十和くんは、桃園からなら、バイクとかで来んの? 合流できるかな」
「ええと」
 一遥は窓側の席に百伊を通しながらスマホを確認し、十和からやはりなにも返信が無いことを確認する。
そういえばいつも十和は、どうやって海北界隈まで降りてきていたのだろうと訝しんだ。
 百伊の言うように、普通に考えれば自分たちと同様、バイクを足にしているのだろうが、鰹波でデートした日、十和は一遥のスクーターを曳いてくれて、自分のバイクを持っていないようにも見えた。
 だが、公共交通機関でしか動けないならば、一遥たちに追いついて紀浦、そして本王寺まで辿り着くのは難しいだろう。来てくれるとしても、だいぶ遅れることになりそうだ。
「もう、十和くんだけじゃん。まともな男。常井くんもちぃを危険な目に遭わせてるんだろ。よく分からんが」
「まだ、なにも分からないよ。ってか、久間さんはいい人じゃないの?」
 百伊は息を吐いた。
 どうやら、なにかあったらしい。
 車内放送が流れ、電車が北へと滑り出すときになって、ようやく百伊は重い口を開いた。
「今日もまた、英治さんの家に行ってたんだよ。それで、逃げ出してきた」
「えー、また子守りでもさせられたの」
 バレンタインの日に、教室でそうやって零していたのを思い出しながら言った。
「子守りならまだマシだったかもね。今日は市長選挙の決起集会かなんだか、とにかく大勢人が集まってて」
「すごい。またビール飲んだの」
 一遥は気を持たすように相槌を打った。
「そんなヒマなんてなかったよ。別にチヤホヤしてほしいと思ってたわけじゃないけどさ」
「あー、お客さんじゃなくて、家の人のポジションだったの」
「家の人ね。そんな大層なもんじゃなかった。奴隷だね、ハッキリ言って。ファーストレディとか言ってはしゃいでた自分を殴りに行きたいよ」
 先日のこともあったから、全く遊びに行ったつもりではなかっただろうけれど、いつの間にかすっかり働かされていたらしい。
 最初のうちは当てが外れて残念だったね、と苦笑していた一遥も、話を聞くにつれてだんだん笑い事ではないように感じてきた。
 いわく、酒の給仕をさせられ、料理の世話をさせられ、洗い物に、掃除に、果ては買い出しにまで付き合わされて、朝からついさっきまで休む間もなく拘束されて働かされていたということだ。
「すごいね。なんというか」
「あんだけ働いたら、バイト代で一万円はもらわんと納得できん。けど昼過ぎくらいに裏に木箱が届いてさ、みかんが満載されてる訳よ。聞いたら、みなさん帰りに一個持って帰ってくれて良いってさ。バイト代、みかん一個よ。なんじゃそりゃ」
「まあ、今がたまたま忙しいだけじゃないのかな」
「いやー、英治さんのお父さんが市長になったら、選挙のたびにこうなるってことっしょ? まだ英治さんと結婚もしてないのに、こんな麗しの乙女をタダでこき使ってなんとも思わないような家、わたしはごめんだよ」
 麗しの乙女はどうか分からないが、確かに今からこれでは先が思いやられるというのはその通りだ。
 本紀快速がいくつもの無人駅を飛ばして矢のように走るリズムに合わせて、百伊の口吻もヒートアップしてきたようだった。
「だから英治さんに言った訳よ。一応気は遣ってさ、家のことが忙しいなら、無理して毎週会ってもらわなくても、選挙が終わるまで待ってるけどって。そしたら英治さん、今のうちからスタッフさんたちに顔を売っておいた方が良いだろうって、笑顔で」
「わ、伝わってないね」
「そうなのよ。だからそうじゃなくて、わたしは別に顔を売りたくなんかないって言ったんだけど・・・」
 彼は「よくわからないなあ」と前置きして、
――かあさんと話してよ。女の人同士の方がいいでしょ。
 ってなもんよ。と百伊は言い捨てた。
「まあ対応に困ったらおっかさんに任せて生きてきたんだなって思うと、なんかげんなりしちゃってさ。今のところあのお母さんも悪い人じゃないとは思うけど、結婚したら呪いはかけてきそう」
「呪いって、それはまた」
「呪いでしょ。あの家。行動を制限したり、考え方を制限したり、そういう押しつけがましさは」
 まあ、言いたいことは分かるよ。
 それで百伊は元気がなかったわけか。
 がたたっ、とトンネルに入って、電車の走行音が増幅される。
 話す声も聞こえなくなるので、ふと一遥は、通路の先、連結部のドアを二枚挟んだ隣の車両に目をやった。
 え?
 あれ?
 卒然、一遥は座席から身を乗り出した。
 出入り口のドアの脇で壁のポールに背を預けていた佐波っちが、怪訝な目でこちらを見てくる。
――なんだよ堀内、どうかしたのか。
――ううん、なんでもないよ。ごめん。こんなときに。
 一遥も視線で返事をした。
 隣の車両に、十和が乗っている気がしたのだ。
 しかも、目が合ったようにも思った。
 向こう側の彼は、驚いた目をしていたように感じた。
 一遥の呼びかけに応じ、バイクで紀浦駅まで飛ばして、一遥たちと同じ電車に間に合ったのだろうか。
 だが、再び向こうへと目を向けると、その姿はすでに消えていた。
 見間違いだったのだろうか。
 十和が恋しいばかりに、幻まで見てしまうとは情けない。
「あ! 来た!」
 そこに百伊が、大声を上げる。
 周りの人たちが一斉にこちらに目を向けるのにも構わず、百伊はスマホを慌ただしくタップする。

ラトーンズ(ねずみとり)
【一〇一ごうしつ】

 千咲からまた、メッセージが送られてきたのだ。
 佐波っちがこちらに寄って来て、百伊の手元を覗き込む。
「マンションか何かの名前か? 連れ込まれそうになって」
「マップ打ってみてさ。本王寺らへんで」
「おう」
 さっきまでの微妙な距離感もどこかにいって、百伊と佐波っちは息の合ったコンビネーションをみせる。
 このあたりはさすが、幼馴染みの呼吸だな。
「これじゃないか?」
 佐波っちの地図アプリが示しているのは、「ラトーンズ」という個室居酒屋のような飲食店だった。
 カラオケ店みたいな感じか?
 内装の写真からはそんな印象を受けた。
「とりあえず走るか!」
 百伊の号令で、電車が本王寺駅のホームに滑り込むや、三人で駆け出した。
 すれちがう乗客たちはそんな一遥たちを一瞥して、興味なさげにまた行く手へと視線を戻す。
 都市である。ターミナル駅である。
 眼前にそびえ立つ関鉄百貨店の親玉、本王寺イチハスは、開業当時商業ビルとして日本一の高さを誇り、海北の女子たちからも熱視線を集めたものだ。――名前が似ている一遥(いちは)は一時期、あだ名がイチハスになった。
「こっちだ!」
 スマホ画面を睨みながら佐波っちが進路を指示してくれる。
 いまはイチハスの洗練された光沢を視界の脇に追いやり、くすんだ雑居ビルの建ち並ぶ西側に向かう。
 方向感覚の乏しい女子二人は、ただ必死にそれを追いかけた。
 先頭を駆ける佐波っちが足を止めたのは、黒塗りの路上駐車があちこちに散らばった路地の一角だった。
 ここなの?
 息を吐きながら彼を見る。
「ラトーンズ、か」
 呟いた百伊の視線の先に、濃い紫の看板が掛けられている。黄文字のアルファベットは、確かにそう読める。
 臙脂色の薄気味悪い建物だ。しかし、入り口に「レンタルルーム、カラオケあります」と銘打って、料金表を示した立て看板もしっかりでているから、一応営業はしているのだろう。
 佐波っちが気負ったように歩を進め、露払いをしてくれる。
「わわ、ちょっと」
 一遥は慌てて口を挟んだ。
「なんだよ」
 佐波っちが睨む。
「ちぃちゃんのお母さんに言って、警察に通報してもらって、警察が来るまでまとうよ」
「じゃ、いいよ。堀内はそこで待ってろよ」
「・・・」
「とりあえず、ちぃの母さんに連絡はするよ」
 百伊がカシャッとビルの外観を撮影し、なめらかにスマホをタップする。そして、
「わたしはついていくよ」
 と、顔を上げる。
 一遥は薄暗い路地を見渡して、独りで待っている方が怖いと思った。
「じゃ、じゃあわたしも・・・」
 ガラス張りの入り口の戸を開けると、ロビーは思ったよりも広かった。
 カラオケ店のように受付カウンターが正面に設けられているが、誰の姿も見えない。
「一〇一号室だったよな。この階ってことか」
「うん。行こう」
 特殊部隊(バディ)のような頼もしさでグイグイと進んでいく二人に、一遥は恐る恐る、トコトコついていく。
 防音がしっかりしているのか、チェーンのカラオケ店よりはエコーが少ない。
 でも、どこからか響いてくるドッドッという重低音が緊張を高める。
 薄暗い通路を、奥へと進む。
 一〇一号室は、他の部屋へアプローチする廊下を逸れた袋小路にある大部屋のようだった。
 正面ではなく廊下に平行に扉が設置された、ヘンな作りの部屋だ。
 佐波っちが少しためらってから、ドアノブを握って回す。
「鍵がかかってる」
 建て付けが緩い扉は、押し引きするたびにドスンと音を立てた。
 少し空いた隙間に、百伊が耳を当てる。
「!」
 驚いた目をする。
「ゆん、どうしたの」
「なんか、悲鳴みたいなのが、中から。ちぃか?」
「ホントかユイ、お前」
 佐波っちが舌をもつれさせながら、ガタガタとドアノブを揺する。
 不安で激した百伊の瞳が佐波っちを見上げる。
「林、いるのか? 誰か! 開けてくれ!」
 中から錠を解く音が聞こえ、ギィと蝶番が音を立てた。
「誰?」
 顔を出したのは柄の悪そうな金髪の少年だった。
「ケンちゃん、知り合い?」
 金髪は部屋の奥へと首を向けて、声をかける。
 歩き寄ってきたのは、白いセーターを着た背の高い男だった。
「坂道健太郎・・・」
「仁藤健太郎・・・」
 百伊と一遥は同時に声をあげた。
 イケメン俳優に紛うほどの容姿は、しかし今は薄笑いを貼り付け、どこか酷薄な印象を与える。
 彼こそが常井健太郎に違いない。
「あー、あー、知ってる。写真見せてもらったことあるよ。ゆいちゃんにいちはちゃんだろ?」
 常井はニヤリと笑った。
「男は・・・知らないな。どっちかの彼氏かな?」
 まあ入りなよ、と常井は手招きした。それを見て金髪が道を空ける。
「はあちゃん、ゆい? 来てくれたの?」
 千咲はソファに座っていた。
 いや、座らされていた、と言った方が正確か。
 数人の男に囲まれた彼女の髪は振り乱れ、泣きはらした目が縋るようにこちらを見ている。
 あれ。
 もしかしてこの状況、めちゃめちゃやばくないか?
 一遥は思わず後ろを振り返るが、
「あれえ、お客様、受付はすませました?」
 と、後ろからも二人、柄の悪そうな少年たちが歩み寄ってくる。
 完全に包囲された一遥たちは、押し込まれるように一〇一号室に入った。
「あんたら、林に何したんだよ」
 佐波っちが震える声で問い糺した。
「なにも。合意を取ってるとこ。合意をもらわないとな」
 薄笑いをしながら、常井がそれに応じた。
「スマホないのに、どうやって友だち呼んだの千咲?」
 常井は千咲のニットの首元を掴んで笑った。
 千咲はぶるぶると首を振る。
「まあいいや。時間はあるもんね。東京に行く軍資金だ、確実に換金できるように行こう」
「勝手に話を進めないでよ。ちぃ嫌がってるじゃん。もう一緒に帰りたいんだけど」
 明らかに穏やかでないやりとりを見て、百伊が叫ぶように言った。
「いやいや、恋人同士の関係に口を挟まないで欲しいな。ゆいちゃん、きみも可愛いな」
 吟味するような常井の眼差しに怖気を震った。
「千咲はさ、俺を怒らせちゃったわけよ。返信が遅いとか言って。罪を背負った。そうすると次は、俺の頼み事をきいて、つぐなってもらわないとね。そういうことだろ?」
「バカじゃないの? なんでそんなことが罪とか償いとかになるんさ。しかもこんなに頭数揃えてる時点で、もう恋人同士なんて言われても何の説得力も無いけど」
「誰がバカだよ。別にゆいちゃんに納得してもらわなくても良いよ」
 常井は少しムッとしたように言った。
「最初から、そういうつもりだったってことですか?」
 一遥は思わずそう訊いてしまった。
 座の男たちの視線が一挙に一遥に集まり、身震いしてしまう。
 だが臆したら負けな気がした。
「ラヴヒスで出会った女の子に、こんな乱暴して、そんなことのために、ビッグファミリーを使ったってことですか?」
 誰もなにも答えない。
 しかし、少年たちの表情が、それが正解だと語っていた。
「女の子たちは、みんなバカだよね。男の容姿に惑わされて、自分がどういう立場に立たされてるか理解しようともしない。学校の女子たちでめぼしいのはあらかた相手にしてやったんだけど、さすがに悪い評判が立ってきたからさ、人間関係の外側にいる女がちょうど良かったんだ。それでいて、ちょっと足を伸ばせばここまで来てくれるくらいの距離感に棲んでいるのが良い。おまえはそういう条件を満たしていたからなあ、千咲」
 ビッグファミリーはもともと、高校生たちにとっても危険が無いように、悪徳業者を排除するためにマイナンバーキーと接続して認証するという発想で成り立っていたはずだ。
 だがまさか、高校生自身がそうした悪徳業者めいた振る舞いを既にして為していたとは。
 いや、逆だ。
 同じ高校生相手ならば警戒されないということで、彼らこそが悪辣な行いの新たな急先鋒となっているのだ。
 欲望に忠実に行動し、小遣いに飢えている高校生は、はした金で簡単に罪を犯す。
 マイナンバーキーによる将来の制裁(サンクション)という牽制は、彼らに対して何の役にも立っていない。
「やめてもう、合意ってなによ。わたし絶対、合意なんてしない」
「合意したという外形があれば足りるわけ。ピースして、さあ」
 常井は千咲の指を掴んで無理矢理折り曲げようとする。
「痛い!」
 千咲が思わず悲鳴を上げる。
「おまえら、もう止めろよ!」
 佐波っちが我慢しかねて、腕を振りかぶり、常井へと立ち向かう。
 しかし、それは取り巻きの少年たちに阻まれる。
 ぐぅっ。
 ドスンと佐波っちが殴りつけられるのを、信じられない気持ちで見た。
 倒れる彼の身体が、スローモーションで目の前を流れていく。
 いつのまにか一遥も百伊も、背後から少年たちに羽交い締めにされている。
「放せバカ!」
 隣で百伊が暴れている。
「なんか落ちつてもらう方法はないかなあ、どうすればいいだろ」
 常井がのんびりと思惟している。思い巡らせているのは、どれも碌な方法じゃないだろう。
「ま、とりあえず剥くか」
 リーダーの言葉に応じるように、周囲から手が伸びてくる。
 助けて、十和・・・。
 十和はどこにいるのだろうか。
 来る前にメッセージを送ったのに。
 電車の中で姿を見たと思ったのに。
 諦めかけ、脱力して目をつぶったそのとき、
「うわ、マジじゃん」
「なんじゃこれ」
「非行少年ってやつか」
 筋肉質な男たちがドタドタと一〇一号室に入り込んでくる。
 最初は少年たちの仲間かと思ったが、どうも様子がおかしい。
 少年たちは明らかに戸惑っている。
「誰? あんたたち」
 常井が虚勢を張るように誰何した。
「俺らも君らが誰か分からないけど、とりあえず女の子たちを放しなよ」
 そういって闖入してきた一団は少年たちに相対し、武装解除を促した。
 一遥を締め付けていた腕も放される。
 体格差があまりにも大きい男たちに対し、少年たちは抵抗する意思を急速にしぼませていくように見えた。
「お取り込み中なんだけど。出て行ってくれない?」
「さあ、そんな言い訳が通用するかな。もうすぐ警察も来ると思うけど、俺らも君らの釈明に興味あるなあ」
 常井と真っ向から渡り合う、その一団を率いている声には、聞き覚えがあった。
「ええぇ、彰人くん?」
「一遥、なんで?」
 彰人くんは心底驚いたように、
「おれら試合の打ち上げで、OPU(オーサカパブリックユニバーシティ)の奴らと奥で歌ってたんだけど、さっき廊下で会ったヤツに、一〇一号室がヤバいって言われて。あれ、それでどうしたんだっけ」
 そういえばお正月に彰人くん、巧緻舎大学は本王寺でよく対外試合をしてるって言ってたな。
「せやせや、それでみんなで見に行くかーって話になったんやろ。彰人おまえ、酔っ払っとるんか?」
 OPUの主将らしき男が横から口を挟んだ。
 まもなく警官隊が駆けつけ、常井たちは事情聴取にしょっ引かれていく。
 一遥と百伊は、千咲に駆け寄って抱き合った。
「怖かった・・・」
「ほーう、しゃしょうな様子のちぃさんを見られるなら、来た甲斐があった」
殊勝(しゅしょう)でしょ。ううん、ありがとう」
「良かった・・・良かった」
「てかちぃ、あの男も言ってたけど、どうやってメッセージ送ったん?」
「ふふ。スマホから普通に」
「取り上げられてたんじゃないの?」
「あいつらが捕ったのは、藤琴興産(じるし)の電子書籍リーダーだよ。スマホは無事」
「どこに持ってるん?」
「乳に挟んだ」
「ふぁあ」
 一遥は素っ頓狂な声をあげた。なんたるテクニックだ。わたしには不可能だ。
「あ、佐波っち」
 百伊が気づいたように言った。やべえ忘れてた。
 正気を取り戻した佐波っちは、倒れていた床から身を起こそうともがいている。
 千咲がブンと駆け寄って、彼を抱き起こした。
「佐波くん」
 千咲が濡れた声で言う。佐波っちが「うん・・・」と呟き返した。
「どうして、こういうことって、予想通りの展開にはならないんだろう」
 佐波っちは微笑んだ。
「ばーか、だから面白いんだろ」
 そして今度は、ふたりで力強い抱擁を交わす。
 え?
 なにみせられてんのわたし?
 傍らに取り残された一遥は、訳の分からないテンションになった。
 思わず百伊と顔を見合わせる。
 でもまあいいや、世界は愛と平和で溢れている。
 ラブ&パックスだ、あとは勝手にやってくれ。
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登場人物紹介

堀内(ほりうち)(いち)()   引っ込み思案で優柔不断。読者の共感ともどかしさを煽る主人公。

十和(とわ)    十七歳。一遥とマッチングした不思議な青年。時代がかった話し方をする。

(ふじ)(こと)百伊(ゆい)   モンキーを乗り回すヤンキー。若いママになりたい。

(はやし)()(さき)   理知的な少女。テニス部所属。イケメン大好き。

佐波(さわ)(のり)(みち)  一遥と百伊と同じ集落から通学する男子。千咲とはテニス部で一緒なので、三人の話題によくのぼる。

<先生たち>

小寺先生  愛梨ちゃん。美術部顧問。FM好きのアラサー。

松浦先生  まっちゃん。生活指導の肥ったおっさん。お菓子大好き、バイクも好き。

今村先生  ラーメン。一遥たちの担任。そういえばこいつも二十代男子。

<一遥の親族>

堀内(とし)(ゆき)

おじいちゃん(父の父)無口で無愛想。じっとできない人。すぐに山仕事に行ってしまう。



堀内スミレ

おばあちゃん(父の母)おしゃべりで、おじいちゃんとはバランスがとれている。



堀内(もと)(ゆき)

お父さん 小学校の先生 理屈っぽく厳しいが、暖かい。



堀内(あおい)

お母さん 小学校の先生 マイペース。よくペットの譲渡会に行く。



アンスリウム

アンちゃん。堀内家の賢くて元気な愛犬。

小倉彰人(あきと)  はとこ(祖父の妹の孫)京都にある巧緻舎大学の三回生。ラグビー部のスタンドオフ。

久間英治

二十三歳。百伊とマッチングした海北市の地主の息子。商科大学卒。


常井健太郎

十八歳。千咲とマッチングした大阪の大学生。俳優の坂道健太郎と仁藤健太郎を足して二で割ったイケメン。

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