ラグビー選手の見解
文字数 6,506文字
一遥は次のみかんに手を伸ばして皮を剥いた。
みかんは、無限に食べられる。
「あらあ、もう籠の中、なくなったん。また足さなな」
炬燵机の一遥の前に散らかったみかんの亡骸を見つけると、スミレおばあちゃんはそれらをかき集めて、慌ただしく台所へと戻っていった。
「せわしないな、かあさん。一服したらどうだよ」
基行 お父さんが声をかける。
「小倉んとこが来るまで、まだもうちょっとあるだろ」
「甘いであんた、あっこの家は言うてはる時間よりはよ来てこっちを慌てさせるねんから」
おばあちゃんは鋭く返事をした。
「でしたらおかあさん、わたしもそろそろお手伝いしましょうか」
お茶を淹れていた葵 お母さんが、おばあちゃんに向かって伺いをたてる。
「せやなあ」
父方の祖父母は堀内の家を継いでいる、という格好になっているらしい。
一遥には家を継ぐ、という意味がよく分からないが、この日本家屋こそが堀内の「家」なのだと理解している。
元日に一遥たち家族一同は祖父母の家を年賀に訪れて、昼ご飯におせちを食べる。
その後、昼からおばあちゃんの兄弟やその子孫たちが堀内の実家を訪ねてくるのを、おばあちゃんとお母さんで台所の支度をして、おじいちゃんとお父さんが話し相手をする、というのが年始の恒例になっている。
「あんたも高校生になったんだから、そろそろ台所の手伝いでもしたら」
お母さんは炬燵から脚を抜きながら、一遥に小言をいった。
うーん、だめだ。
炬燵はブラックホール。一度入ると抜け出せない。
「親父はどこにいったんだ? 山じゃないだろうな?」
「裏の畑じゃないの? さすがに正月くらいは山仕事はお休みされるでしょ」
「いやあ、分からんぞあの人は」
お父さんとお母さんが話すのを聞くともなく聞きながら、一遥の手はみかんとウェットティッシュとスマートフォンの順でぐるぐると周回していた。
昨日からずっと、ビッグファミリーを起動したり閉じたりして悩んでいる。
さっさと大人しくプレヒスを選んでしまえば良さそうなものだが、トゥルヒスの持つ陽のオーラが一遥を引きつけている。
正月のテレビ特番でかわいいJKたちがトゥルヒスを使ってきゃぴきゃぴしているのを見たり、久しぶりにあけおめメッセージを交換した中学校の友人たちがプレヒスをディスっているのを読んだりしていると、どうにも心が揺らいでしまう。
心が決まるまで選択を棚上げにしてしまえばいっか、とも思う。
けれどスマホを置いたら手持ち無沙汰だし、台所の手伝いをさせられるのも面倒だ。
「アン!」
庭先で連れてきて繋いでいたアンスリウムが吠えて、まもなくびーっと玄関のブザーが鳴った。
「お、お越しなすった。かあさんの言うとおりだな」
柱時計を確認しながら、お母さんが機先を制して出迎えに炬燵を抜ける。
しまった、出遅れた。
おじいちゃんの五人の妹のうちの一人である小倉さんの一家がやってきてしまった。
遠い親戚たちとの付き合いは高校生には退屈だ。顔と名前が一致しない人々の近況ばかりが話題を行き交って、まったく理解できない。
特に小倉のおばさん――正確には大叔母ということになる――は長っ尻なので、いつも一遥はアンスリウムの散歩と言い訳をして、さっさと外に避難するようにしていた。
「あけましておめでとう、スミレさん、今年は雪もなくてよかったなあ。大師さん、えらい繁盛してはったわ。もうだいぶ混んでな。けどこっちの参道はまだマシやわ」
玄関から台所のおばあちゃんに向かってがなり立てる小倉のおばさんの声が響いている。
「お父さん、わたしアンちゃんと行ってくるよ」
「ああそう。小倉さんのとこにちゃんと挨拶してからな」
「いいよ別に」
一遥はコートとマフラーを身につけて、逃げるように居間の戸を滑らせた。
どん。
何かにぶつかって体制を崩す。
「おっとっと。ごめんごめん」
がっしりとした男の人が、フラつく一遥の身体を受け止めてくれた。
「お、今年は彰人 くんも一緒か。あけましておめでとう」
お父さんが相好を崩した。
「おめでとうございます」
ぶつかった相手ははとこの彰人くんだった。確か大学生だったはずである。
高校に入ったくらいから堀内本家への年賀にはあまり顔を出していなかったので、確かに会うのは数年ぶりだろうか。
「ラグビー、残念だったな。結果しか見てないけど」
「ああいえ、こう言っては何ですが、今年は経験の年だと思ってましたから」
「次がラスト?」
「はい。次の春から四回生です」
「ちゃんと四年で卒業できるのかい?」
ははは、頑張ります、とお父さんのイジリにも如才なく受け答えしている彰人くんは、巧緻舎 大学でラグビー部に入っていると一遥も小耳に挟んでいた。
確かに一遥にぶつかっても、がっしりした身体は微動だにしていない。
「基行 、あんたとこ車替えたんか? えらい高そうなん、わたしビックリしたわ」
小倉のおばさんが居間に入ってくる。お父さんが答えるよりはやく、もう次の話題に移る。
「俊之 兄さんは、どっかいかはったんか?」
「ええ、ぼくらもどこ行ったのかさっぱり。表にはいなかったですか?」
おじいちゃんはまだ戻ってきていない。
もしかしたら一遥と同じように、このやかましい妹から避難しているのかも知れない。
反対に一遥は、すっかり避難するタイミングを逃してしまっている。
「彰人、あんたどこぞ行きたい言うてたな。もう行くか?」
「ああ、十二神社まで参って、次のシーズンのことでもお祈りしようかなと思って。ばあちゃんも一緒に行ってくれる?」
「ばあさんは疲れましたんで一服させてもらうがな。あんた場所わからんのかな?」
小倉のおばさんは炬燵に腰を下ろしてもう居座りモードである。
うーん、分かると思うけど、忘れてるかもなあ。と不安げな彰人くんの様子を見て、
「ああ、そんなら一遥、案内してあげなさい」
お父さんがちょうどいい、とばかりに手を叩いた。
ええー。
と、不満声を出したいところだが、さすがに歳上のはとこに気を遣って自重した。
「一遥、中学生? もう高校入った?」
彰人くんは一遥の二の腕を掴んだまま、ニヤリと目を合わせてくる。
大人の余裕って感じか?
「高一」
ちょっと気に入らなかったので、そっけなく答える。
「そっか。じゃあちょっと付き合ってよ。あんころも一緒だろ?」
「うん。いいよ」
渋々そうやって頷いた。
家を出ると、昼下がりとはいえ、山奥の冷え込みが身を刺した。
ぶるぶる震える一遥と対照的に、アンスリウムは嬉しそうにリードを引っ張っている。
岸川に架かる橋を渡って、北側の土手に降りていく。
「もう田んぼに入ってるのか」
河川敷に向かう降り道に軽トラが前傾して停まっているのを見て、彰人くんが呟いた。
「そうだね。ってあれ、おじいちゃん?」
俊之おじいちゃんが鉄棒を抱えてひょこひょこ歩いているのが見下ろせた。
アン、アン! とアンスリウムが下に向かって声をかけると、おじいちゃんはちらっとだけこちらを向いたようだった。
気づいているのか、いないのか。
「けものよけを仕込んでるのかな。正月から元気だよな、あの人」
「そうだね」
お父さんや叔父さんが予想していたとおりの調子のおじいちゃんを見て、ちょっと微笑んでしまった。
「ラグビーって、痛そうだよね」
一遥は石垣に登りたがるアンスリウムに合わせて、リードを持った腕を引き上げてやった。
「そりゃあな。膝とか手術する人も多いし。でも紳士のスポーツだから、ルール通りにプレイしていれば、そんなにめちゃくちゃなけがをする訳でもないよ」
「最近は年賀、来てなかったよね。今年は、なんで来たの? 負けたから?」
さっきお父さんが話していたことを思い出しながら尋ねる。
「今年からレギュラーに入ったから、年末年始はオフを貰えたんだよ。去年まではなんやかんや雑用があって、京都で年始を迎えてたからなあ」
「そうなんだ。彰人くん、レギュラーなんだね」
「ポジションはスタンドオフ。言っても分からないか」
「うん。分からない。ごめん」
「一度、観に来れば? 来月、大阪で試合あるし。本王寺 ならわりかし出やすいでしょ」
「ふーん。そんなには行かないけど」
県庁所在地の紀浦 からなら、本王寺まではJRでも関鉄でも一本だが、海北から紀浦に出るための電車の本数が少ないので、彰人くんが言うほどに心理的距離が近いわけではない。
喋っているうちに鳥居の前に着いた。
このあたりは子どもの頃、よく遊んだものだ。
四阿の柱にアンスリウムのリードをくくりつけて、石のきざはしを登る。
「さあて、来シーズンの必勝を祈願して」
賽銭を投げ、鈴を鳴らして、彰人くんと隣り合わせに一遥もぱんぱんっと手を合わせる。
ちぃちゃんはラヴヒスのマッチングをお願いしたと言っていたし、わたしも倣ってみるか。
よい縁に恵まれますように。
いや、これでは普通の祈願となにも変わらない。
お願いは具体的であるほど叶いやすいというから・・・
トゥルヒスで、わたしの運命の人が、どんな人なのかを知りたい。
そうだ。
恋をした自分、という姿がどうにも思い描けない一遥は、誰かを好きになるほどの何かを自分がもっているとは思えなかった。
そう、人を好きになるには、まず確固たる自分をイメージしなければならない。
つまりトゥルヒスは、遺伝子情報によって運命の人をレコメンドすると同時に、遺伝子の持ち主である自分がどういう人間なのかを教えてくるという、そんな期待を持たせてくれるアプリなのだ。
それに多分、プレヒスで毎日たくさんの男の人のカードをめくっても、優柔不断な一遥はたぶん、
選ぶという行為自体が、なにもない自分には、おこがましいものだと思えてしまうからだ。
トゥルヒスは、あたかも感情の揺らぎというものが存在しないかのように、男女の相性を客観的に規定する。
トゥルヒスが証明してくれたから、だからこの人のことが好きなのだと、なにも考えなくても自分の選択が権威づけてもらえるという意味で、心地よいのだ。
「一遥」
彰人くんに声をかけられて、閉じていた目を開けた。
「ちょっと座ろうか」
彼が親指をさした向こうの四阿で、柱に括り付けられたアンスリウムが尻尾を振っている。
風をしのぐ柱と屋根に囲まれた土間の中央にダルマストーブが焚かれ、その周りに折りたたみの椅子が何脚か置かれている。
自動販売機でコーンスープを買ってもらった。
フタを開ける前に缶を握りしめて、かじかんだ手に熱を十分に伝える。
「だいぶ長かったな。高校生のお願いなんか、勉強が出来ますようにとか、彼氏ができますようにとか、そんなんだろ」
「そんな単純じゃないよ」
思わずむきになって否定するが、おおかた図星である。
「彰人くんは、レギュラー選手なら、彼女とかいるの? マネージャーとかと付き合うんでしょ」
「マネージャーではないけど、彼女はいるよ。秋口くらいに知り合ったんだけど、知ってる? ビッグファミリーってアプリ」
一遥はびっくりして缶を落としそうになった。
「知ってる。みんな始めてるよ」
「いいなあ、おれも高校生の時から使ってみたかったよ。まあ年齢詐称してやってもよかったけど、あの頃は業者ばっかりだったからな」
「ヒストリーが四つあるでしょ? どれを選んだの?」
「ヒストリーオブトゥルース」
彰人くんは巻き舌で言った。
ちょっとかっこつけすぎだが、正直いまの一遥にとっては効果抜群だった。
「え、じゃあ、その人と結婚するの?」
「なんでだよ。いきなり、気が早いな」
「だって、「運命の人」なんでしょ。トゥルヒスでマッチングした相手って」
「テレビの見過ぎだよ。別に普通のマッチングアプリと同じだろ。遺伝子情報を送った、っていう自分の行動を重視し過ぎなんだよ」
なんだかドライだ。トゥルヒスユーザーって、こんなものなのか。
「彼女とのマッチング率は、確か82%くらいだったかな。90%を超えるカードなんてほとんど配られないし、100%は基本的に出なくて、最大でも98%までだって聞いたことがあるな」
ええー。
全然、運命の人じゃないじゃん。
一遥はトゥルヒスについて書いた体験ブログでも遺伝子情報のことばかり読んでいて、実際の使用感を読み飛ばしていたことにいまさら気づいた。
「一遥は、どのヒストリーを使ってるの」
「わたしは・・・」
まだ決めてないけど、大人しくプレヒスにするつもり。
だって、トゥルヒスは怖いし、ラヴヒスやパクヒスみたいな使い方は別に必要ないし。
そんなふうに答えた。
「遺伝子情報のこと、みんな怖いって言うけど、具体的に何が怖いんだ?」
彰人くんはあっけらかんと尋ねた。
「なにがって、自分のことを知られるって、怖いじゃん」
一遥は、そんな問いが成立するのか、と意外に思った。
「なんかズレてるな。てっきり、遺伝子情報の開示が、社会的な不利益を被る恐れに繋がるのが怖い、みたいな話かと思ったけど」
なんだか誘導尋問をされているみたいだ。
しかも、自分はうまく誘導されてすらいないらしい。
「確かにそれもあるよね。悪用されたら怖いと思う」
「どんなふうに悪用されると思うの?」
「え、なんか、遺伝子が実験に使われるとか、攻撃されるとか」
自分でもバカじゃないかと思うような答えしか浮かばない。
「あー、特定の遺伝子の持ち主だけに効くウイルスが撒かれるみたいな陰謀論、あるよな」
彰人くんは呆れたように言った。
「でも一遥の遺伝子情報を知ろうが知るまいが、無差別ウイルステロを起こすような奴は勝手に起こすぞ。そんなこと心配しても仕方ないだろ」
「そうだけど・・・」
怖いという気持ちを上手く説明できないのがもどかしい。
「情報は、それ一つだけでは価値を持たない。大量収集されて、紐づけられた時に意味を持つんだ。例えば見た目が肥ったおじさんは、節制が出来ないからお金を返さない、実際にそういう傾向が出ている、だからクレジットカードの限度額が低くなってしまう、みたいな不利益が勝手に課されるとか。そういうのは怖いと思う」
「遺伝子情報も、そういう心配があるんじゃないかな」
一遥は飛びつくように迎合した。しかし彰人くんは首をかしげて、
「そうかもな。でも、そういう心配って、顔とか、収入とかの方が起きやすいと思わない? なのに考え込む人たちは、まだしも心配が少なそうだとラヴヒスやパクヒスの方を選び、トゥルヒスをなんとなく敬遠する。本当はなにが怖いのか、果たして本質を捉えられているんだろうか」
「顔だろうと、遺伝子情報だろうと、もし流出したら、クレジットカードの情報も一緒に流出するってことでしょ」
「うーん、まあそう単純化してもいいけど。でも一遥、クレジットカードなんかもってないんだろ。リスクは、コントロールできないときに初めてリスクになる。コントロールできるなら、それはリスクにはならないんだよ」
「そんなふうに理詰めで言われても、気持ち悪さは無くならないよ」
一遥は責められているような気持ちになって、叫ぶように反論した。
彰人くんのように明晰な言葉では説明できないけれど、もしかしたら説明できないということそれ自体が恐怖の原因になっているのかも知れない。
「アンー?」
アンスリウムが戸惑ったようにうなり声を上げている。
「まあそれもそうか。決めるのは一遥だ。プレヒスも良いと思うよ」
彰人くんは少し慌てたように手を振ると、そろそろ行こうか、と立ち上がった。
「ごめんごめん、別にいじめるつもりで言ったんじゃなくて、なにか煮詰まってるなら、人に相談してみると良いと思うよ。友だちや親にこういう話をするのは、なかなか気恥ずかしいかもしれないけどさ」
ごつい身体のお兄さんが困った顔をしているのはなんだかかわいらしい。
だけれど、本当は一遥の方が困惑していた。
怒っているとか、悲しんでいるとかではなく、自分の考えの全く外側から流し込まれたトゥルヒスについての意見を、咀嚼し消化しきれていなかったのだと思う。
みかんは、無限に食べられる。
「あらあ、もう籠の中、なくなったん。また足さなな」
炬燵机の一遥の前に散らかったみかんの亡骸を見つけると、スミレおばあちゃんはそれらをかき集めて、慌ただしく台所へと戻っていった。
「せわしないな、かあさん。一服したらどうだよ」
「小倉んとこが来るまで、まだもうちょっとあるだろ」
「甘いであんた、あっこの家は言うてはる時間よりはよ来てこっちを慌てさせるねんから」
おばあちゃんは鋭く返事をした。
「でしたらおかあさん、わたしもそろそろお手伝いしましょうか」
お茶を淹れていた
「せやなあ」
父方の祖父母は堀内の家を継いでいる、という格好になっているらしい。
一遥には家を継ぐ、という意味がよく分からないが、この日本家屋こそが堀内の「家」なのだと理解している。
元日に一遥たち家族一同は祖父母の家を年賀に訪れて、昼ご飯におせちを食べる。
その後、昼からおばあちゃんの兄弟やその子孫たちが堀内の実家を訪ねてくるのを、おばあちゃんとお母さんで台所の支度をして、おじいちゃんとお父さんが話し相手をする、というのが年始の恒例になっている。
「あんたも高校生になったんだから、そろそろ台所の手伝いでもしたら」
お母さんは炬燵から脚を抜きながら、一遥に小言をいった。
うーん、だめだ。
炬燵はブラックホール。一度入ると抜け出せない。
「親父はどこにいったんだ? 山じゃないだろうな?」
「裏の畑じゃないの? さすがに正月くらいは山仕事はお休みされるでしょ」
「いやあ、分からんぞあの人は」
お父さんとお母さんが話すのを聞くともなく聞きながら、一遥の手はみかんとウェットティッシュとスマートフォンの順でぐるぐると周回していた。
昨日からずっと、ビッグファミリーを起動したり閉じたりして悩んでいる。
さっさと大人しくプレヒスを選んでしまえば良さそうなものだが、トゥルヒスの持つ陽のオーラが一遥を引きつけている。
正月のテレビ特番でかわいいJKたちがトゥルヒスを使ってきゃぴきゃぴしているのを見たり、久しぶりにあけおめメッセージを交換した中学校の友人たちがプレヒスをディスっているのを読んだりしていると、どうにも心が揺らいでしまう。
心が決まるまで選択を棚上げにしてしまえばいっか、とも思う。
けれどスマホを置いたら手持ち無沙汰だし、台所の手伝いをさせられるのも面倒だ。
「アン!」
庭先で連れてきて繋いでいたアンスリウムが吠えて、まもなくびーっと玄関のブザーが鳴った。
「お、お越しなすった。かあさんの言うとおりだな」
柱時計を確認しながら、お母さんが機先を制して出迎えに炬燵を抜ける。
しまった、出遅れた。
おじいちゃんの五人の妹のうちの一人である小倉さんの一家がやってきてしまった。
遠い親戚たちとの付き合いは高校生には退屈だ。顔と名前が一致しない人々の近況ばかりが話題を行き交って、まったく理解できない。
特に小倉のおばさん――正確には大叔母ということになる――は長っ尻なので、いつも一遥はアンスリウムの散歩と言い訳をして、さっさと外に避難するようにしていた。
「あけましておめでとう、スミレさん、今年は雪もなくてよかったなあ。大師さん、えらい繁盛してはったわ。もうだいぶ混んでな。けどこっちの参道はまだマシやわ」
玄関から台所のおばあちゃんに向かってがなり立てる小倉のおばさんの声が響いている。
「お父さん、わたしアンちゃんと行ってくるよ」
「ああそう。小倉さんのとこにちゃんと挨拶してからな」
「いいよ別に」
一遥はコートとマフラーを身につけて、逃げるように居間の戸を滑らせた。
どん。
何かにぶつかって体制を崩す。
「おっとっと。ごめんごめん」
がっしりとした男の人が、フラつく一遥の身体を受け止めてくれた。
「お、今年は
お父さんが相好を崩した。
「おめでとうございます」
ぶつかった相手ははとこの彰人くんだった。確か大学生だったはずである。
高校に入ったくらいから堀内本家への年賀にはあまり顔を出していなかったので、確かに会うのは数年ぶりだろうか。
「ラグビー、残念だったな。結果しか見てないけど」
「ああいえ、こう言っては何ですが、今年は経験の年だと思ってましたから」
「次がラスト?」
「はい。次の春から四回生です」
「ちゃんと四年で卒業できるのかい?」
ははは、頑張ります、とお父さんのイジリにも如才なく受け答えしている彰人くんは、
確かに一遥にぶつかっても、がっしりした身体は微動だにしていない。
「
小倉のおばさんが居間に入ってくる。お父さんが答えるよりはやく、もう次の話題に移る。
「
「ええ、ぼくらもどこ行ったのかさっぱり。表にはいなかったですか?」
おじいちゃんはまだ戻ってきていない。
もしかしたら一遥と同じように、このやかましい妹から避難しているのかも知れない。
反対に一遥は、すっかり避難するタイミングを逃してしまっている。
「彰人、あんたどこぞ行きたい言うてたな。もう行くか?」
「ああ、十二神社まで参って、次のシーズンのことでもお祈りしようかなと思って。ばあちゃんも一緒に行ってくれる?」
「ばあさんは疲れましたんで一服させてもらうがな。あんた場所わからんのかな?」
小倉のおばさんは炬燵に腰を下ろしてもう居座りモードである。
うーん、分かると思うけど、忘れてるかもなあ。と不安げな彰人くんの様子を見て、
「ああ、そんなら一遥、案内してあげなさい」
お父さんがちょうどいい、とばかりに手を叩いた。
ええー。
と、不満声を出したいところだが、さすがに歳上のはとこに気を遣って自重した。
「一遥、中学生? もう高校入った?」
彰人くんは一遥の二の腕を掴んだまま、ニヤリと目を合わせてくる。
大人の余裕って感じか?
「高一」
ちょっと気に入らなかったので、そっけなく答える。
「そっか。じゃあちょっと付き合ってよ。あんころも一緒だろ?」
「うん。いいよ」
渋々そうやって頷いた。
家を出ると、昼下がりとはいえ、山奥の冷え込みが身を刺した。
ぶるぶる震える一遥と対照的に、アンスリウムは嬉しそうにリードを引っ張っている。
岸川に架かる橋を渡って、北側の土手に降りていく。
「もう田んぼに入ってるのか」
河川敷に向かう降り道に軽トラが前傾して停まっているのを見て、彰人くんが呟いた。
「そうだね。ってあれ、おじいちゃん?」
俊之おじいちゃんが鉄棒を抱えてひょこひょこ歩いているのが見下ろせた。
アン、アン! とアンスリウムが下に向かって声をかけると、おじいちゃんはちらっとだけこちらを向いたようだった。
気づいているのか、いないのか。
「けものよけを仕込んでるのかな。正月から元気だよな、あの人」
「そうだね」
お父さんや叔父さんが予想していたとおりの調子のおじいちゃんを見て、ちょっと微笑んでしまった。
「ラグビーって、痛そうだよね」
一遥は石垣に登りたがるアンスリウムに合わせて、リードを持った腕を引き上げてやった。
「そりゃあな。膝とか手術する人も多いし。でも紳士のスポーツだから、ルール通りにプレイしていれば、そんなにめちゃくちゃなけがをする訳でもないよ」
「最近は年賀、来てなかったよね。今年は、なんで来たの? 負けたから?」
さっきお父さんが話していたことを思い出しながら尋ねる。
「今年からレギュラーに入ったから、年末年始はオフを貰えたんだよ。去年まではなんやかんや雑用があって、京都で年始を迎えてたからなあ」
「そうなんだ。彰人くん、レギュラーなんだね」
「ポジションはスタンドオフ。言っても分からないか」
「うん。分からない。ごめん」
「一度、観に来れば? 来月、大阪で試合あるし。
「ふーん。そんなには行かないけど」
県庁所在地の
喋っているうちに鳥居の前に着いた。
このあたりは子どもの頃、よく遊んだものだ。
四阿の柱にアンスリウムのリードをくくりつけて、石のきざはしを登る。
「さあて、来シーズンの必勝を祈願して」
賽銭を投げ、鈴を鳴らして、彰人くんと隣り合わせに一遥もぱんぱんっと手を合わせる。
ちぃちゃんはラヴヒスのマッチングをお願いしたと言っていたし、わたしも倣ってみるか。
よい縁に恵まれますように。
いや、これでは普通の祈願となにも変わらない。
お願いは具体的であるほど叶いやすいというから・・・
トゥルヒスで、わたしの運命の人が、どんな人なのかを知りたい。
そうだ。
知りたい
のだ。恋をした自分、という姿がどうにも思い描けない一遥は、誰かを好きになるほどの何かを自分がもっているとは思えなかった。
そう、人を好きになるには、まず確固たる自分をイメージしなければならない。
つまりトゥルヒスは、遺伝子情報によって運命の人をレコメンドすると同時に、遺伝子の持ち主である自分がどういう人間なのかを教えてくるという、そんな期待を持たせてくれるアプリなのだ。
それに多分、プレヒスで毎日たくさんの男の人のカードをめくっても、優柔不断な一遥はたぶん、
選べない
。選ぶという行為自体が、なにもない自分には、おこがましいものだと思えてしまうからだ。
トゥルヒスは、あたかも感情の揺らぎというものが存在しないかのように、男女の相性を客観的に規定する。
トゥルヒスが証明してくれたから、だからこの人のことが好きなのだと、なにも考えなくても自分の選択が権威づけてもらえるという意味で、心地よいのだ。
「一遥」
彰人くんに声をかけられて、閉じていた目を開けた。
「ちょっと座ろうか」
彼が親指をさした向こうの四阿で、柱に括り付けられたアンスリウムが尻尾を振っている。
風をしのぐ柱と屋根に囲まれた土間の中央にダルマストーブが焚かれ、その周りに折りたたみの椅子が何脚か置かれている。
自動販売機でコーンスープを買ってもらった。
フタを開ける前に缶を握りしめて、かじかんだ手に熱を十分に伝える。
「だいぶ長かったな。高校生のお願いなんか、勉強が出来ますようにとか、彼氏ができますようにとか、そんなんだろ」
「そんな単純じゃないよ」
思わずむきになって否定するが、おおかた図星である。
「彰人くんは、レギュラー選手なら、彼女とかいるの? マネージャーとかと付き合うんでしょ」
「マネージャーではないけど、彼女はいるよ。秋口くらいに知り合ったんだけど、知ってる? ビッグファミリーってアプリ」
一遥はびっくりして缶を落としそうになった。
「知ってる。みんな始めてるよ」
「いいなあ、おれも高校生の時から使ってみたかったよ。まあ年齢詐称してやってもよかったけど、あの頃は業者ばっかりだったからな」
「ヒストリーが四つあるでしょ? どれを選んだの?」
「ヒストリーオブトゥルース」
彰人くんは巻き舌で言った。
ちょっとかっこつけすぎだが、正直いまの一遥にとっては効果抜群だった。
「え、じゃあ、その人と結婚するの?」
「なんでだよ。いきなり、気が早いな」
「だって、「運命の人」なんでしょ。トゥルヒスでマッチングした相手って」
「テレビの見過ぎだよ。別に普通のマッチングアプリと同じだろ。遺伝子情報を送った、っていう自分の行動を重視し過ぎなんだよ」
なんだかドライだ。トゥルヒスユーザーって、こんなものなのか。
「彼女とのマッチング率は、確か82%くらいだったかな。90%を超えるカードなんてほとんど配られないし、100%は基本的に出なくて、最大でも98%までだって聞いたことがあるな」
ええー。
全然、運命の人じゃないじゃん。
一遥はトゥルヒスについて書いた体験ブログでも遺伝子情報のことばかり読んでいて、実際の使用感を読み飛ばしていたことにいまさら気づいた。
「一遥は、どのヒストリーを使ってるの」
「わたしは・・・」
まだ決めてないけど、大人しくプレヒスにするつもり。
だって、トゥルヒスは怖いし、ラヴヒスやパクヒスみたいな使い方は別に必要ないし。
そんなふうに答えた。
「遺伝子情報のこと、みんな怖いって言うけど、具体的に何が怖いんだ?」
彰人くんはあっけらかんと尋ねた。
「なにがって、自分のことを知られるって、怖いじゃん」
一遥は、そんな問いが成立するのか、と意外に思った。
「なんかズレてるな。てっきり、遺伝子情報の開示が、社会的な不利益を被る恐れに繋がるのが怖い、みたいな話かと思ったけど」
なんだか誘導尋問をされているみたいだ。
しかも、自分はうまく誘導されてすらいないらしい。
「確かにそれもあるよね。悪用されたら怖いと思う」
「どんなふうに悪用されると思うの?」
「え、なんか、遺伝子が実験に使われるとか、攻撃されるとか」
自分でもバカじゃないかと思うような答えしか浮かばない。
「あー、特定の遺伝子の持ち主だけに効くウイルスが撒かれるみたいな陰謀論、あるよな」
彰人くんは呆れたように言った。
「でも一遥の遺伝子情報を知ろうが知るまいが、無差別ウイルステロを起こすような奴は勝手に起こすぞ。そんなこと心配しても仕方ないだろ」
「そうだけど・・・」
怖いという気持ちを上手く説明できないのがもどかしい。
「情報は、それ一つだけでは価値を持たない。大量収集されて、紐づけられた時に意味を持つんだ。例えば見た目が肥ったおじさんは、節制が出来ないからお金を返さない、実際にそういう傾向が出ている、だからクレジットカードの限度額が低くなってしまう、みたいな不利益が勝手に課されるとか。そういうのは怖いと思う」
「遺伝子情報も、そういう心配があるんじゃないかな」
一遥は飛びつくように迎合した。しかし彰人くんは首をかしげて、
「そうかもな。でも、そういう心配って、顔とか、収入とかの方が起きやすいと思わない? なのに考え込む人たちは、まだしも心配が少なそうだとラヴヒスやパクヒスの方を選び、トゥルヒスをなんとなく敬遠する。本当はなにが怖いのか、果たして本質を捉えられているんだろうか」
「顔だろうと、遺伝子情報だろうと、もし流出したら、クレジットカードの情報も一緒に流出するってことでしょ」
「うーん、まあそう単純化してもいいけど。でも一遥、クレジットカードなんかもってないんだろ。リスクは、コントロールできないときに初めてリスクになる。コントロールできるなら、それはリスクにはならないんだよ」
「そんなふうに理詰めで言われても、気持ち悪さは無くならないよ」
一遥は責められているような気持ちになって、叫ぶように反論した。
彰人くんのように明晰な言葉では説明できないけれど、もしかしたら説明できないということそれ自体が恐怖の原因になっているのかも知れない。
「アンー?」
アンスリウムが戸惑ったようにうなり声を上げている。
「まあそれもそうか。決めるのは一遥だ。プレヒスも良いと思うよ」
彰人くんは少し慌てたように手を振ると、そろそろ行こうか、と立ち上がった。
「ごめんごめん、別にいじめるつもりで言ったんじゃなくて、なにか煮詰まってるなら、人に相談してみると良いと思うよ。友だちや親にこういう話をするのは、なかなか気恥ずかしいかもしれないけどさ」
ごつい身体のお兄さんが困った顔をしているのはなんだかかわいらしい。
だけれど、本当は一遥の方が困惑していた。
怒っているとか、悲しんでいるとかではなく、自分の考えの全く外側から流し込まれたトゥルヒスについての意見を、咀嚼し消化しきれていなかったのだと思う。