海北高校二年一組
文字数 3,761文字
萌葱色のパッソが崖を覆うように垂れる新緑に溶け込んで、桃園へと走る。
いつかと同じ石碑の前に駐まった車の、前後左右のドアが同時に開いた。
「さすがに四人も載ってると重いな」
「ほーう、麗しのJKに重いとかいうの、愛梨ちゃん」
「しかも今、乗るじゃなくて載るって変換したでしょ」
がやがやと百伊と千咲がクレームを付ける。
「ちゅうか愛梨ちゃん、
車中の大音声オーディオに、百伊がツッコミを入れる。
「いやあ、
愛梨ちゃんが弁明している。
一遥は顎を上げて、小径に沿って吹き込んでくる空気に頬を馴染ませた。
彰人くんとともに十和が消えゆくのを見送ったあの日、放心したまま卵だけを供えて山を下り、家に帰った。
それから一遥は、ほとんど出来上がっていたSS紀浦の原稿を丸めると、一心不乱に再構成を始めた。
未曾有の降水量、大勢の死者、氾濫する河川の写真。
もちろん悲惨な出来事であるほどに、客観的なデータと資料をもって物語られなければならない。
だが、一遥は、もはやそんなトップダウンのフレームを埋めるために編んだ原稿に、価値を覚えなかった。
その当時――と、突き放して観察するのではなく。
あの頃――と、懐かしむように振り返りたい。
あの頃、一遥とそう変わらない年齢の子どもたちも、当たり前のように麓の町へと稼ぎに出ていた。
湯治客の荷物を世話する重労働の中、深山に分け入り、
一年以上働き通して、ようやく長い休みを得て、故郷に帰った。
幼い頃に駈け回った野山を、愛犬を連れて、今度は慈しむように散歩する。
そうしてたまたま出会った、弟のような少年に、遊ぶことを、働くことを、そして山の知恵を授ける。
そのとき彼は、教えるということをもって、生まれてから今までの間、自分に降り積もってきたものがひとつの形を為し始めていることを意識しただろう。
そして、ようやく生まれた原石のようなものを、長い時間をかけて磨きたいとこいねがったことだろう。
そのために彼は、もっと学び、もっと鍛え、そして、心を震わせるような恋をしたかったのだ。
しかし、その願いは、叶うことがなかった。冷たい泥水が、それを押し流してしまった。
災害とは、データとして後世に残るものが全てではない。
むしろ
残すことが出来なかったもの
にこそ、慈しむべきものが宿るのだ。一遥は、この発表が出来上がったら、巳岩に再び詣でて手向けようと思った。
あらかじめ損なわれることの分かっていた二人の関係。
しかし、損なわれないことだってある。
残すことが出来ない、なんてことはない。
彼にそれを証明したかった。
まとめあげたその発表は、聴講に来た教諭陣から激賞を得た。
生徒たちもまた、無色透明な自分たちの発表とは毛色の全く異なる一遥の物語に――それはもはや物語と呼ぶべき代物だっただろう――息を呑んでいるように見えた。
「あの物語のモデルさんに、会いに行けるって訳だ」
愛梨ちゃんはピピッとパッソを施錠した。
トゥルヒスのこと、十和のこと、親友のふたりに話をして、今日は付いてきてもらった。
そして、愛梨ちゃんにも。
気さくな顧問は、五月の大型連休の一日、車を出してくれた。
「あんたら、また全員同じクラスになったんだよね」
空は青く雲は白い、爽やかなハイキングを楽しみながら、女子たち四人で快活におしゃべりした。
「まだ二年生なのに、先生方は進路のことで煩いですね」
千咲は相変わらず物怖じしない態度で愛梨ちゃんに応じる。
「まあ予想通りの展開だけど」
本王寺で暴行未遂があって、一時は学校も休んで気を揉んだけれど、元気に回復してくれて良かった。
傷ついた千咲の心を癒やすのに一役買ったのは無論、やるときはやる男、佐波っちだった。
彼は毎日電話したらしい。
そしていつの間にか、千咲の心の真ん中に居座ることに成功していたのだった。
「部活もいそがしいのに、なあ、ちぃ」
「
テニス部の面々も、カップルの誕生を祝福しているようだ。
「まあ進路は、三年生になってから焦るより、今のうちから考えておいた方が良いよ」
愛梨ちゃんは教師らしいことを言った。
「わたしは、実はもう決めてあるんだ、保育士になろうと思って」
百伊の発言に、皆が驚いて顔を見合わせた。
「どうしたの、めずらしく真剣なこと考えて」
千咲は先を越されたような顔をしている。
「まあ色々あったけどね。子どものお世話するのは好きだと思ったんだよ」
百伊は照れたように説明した。
「けどこの気持ちは、誰かに都合良く利用されたくないと思った、ってそれだけ。だったら自分の気持ちは、自分で利用すればいいんだよ」
「ほおぉう」
三人で声を合わせて囃し立てた。
ラヴヒスも、パクヒスも、それぞれに考えるきっかけを与え、そして彼女たちはしなやかにそれに応えている。
――データには表れないもの。
それは、
マッチングアプリにも言えること
だ。選び取ったこと、考え抜いたこと、身につけたこと。
それは予め遺伝子に刻み込まれたものなどではない。
そうだ、十和もきっと、一遥と同じで、
知りたかった
のだ。マッチングアプリで出会った女の子を通して、鏡写しのように。
自分がどういう人間だったのか。
自分がどういう人間になり得たのか
を。表れないものや、見えないものは、奪われ、こぼれ落ちるためにあるのではない。
手を伸ばして、自分のものにしていくためにあるのだ。
頭上に巳岩の建屋が姿を現すと、駆け寄るように参道を登った。
彼らの物語が、一遥のなかに流れ込んでくる。
降り続く雪が山肌を緩め、地滑りによって十和の身体は半世紀以上ぶりに風を受けた。
様子を見に来た俊之おじいちゃんは、あの日のままの十和の姿を目の当たりにして。
どうしただろうか。――あのおじいちゃんが涙を浮かべる姿など、想像もつかない。
ごく自然な気持ちで、再会を祝したのだと思う。
もしかしたら二人にとっては、蟻田の渓流を行き交う船祭りのように――SS紀浦の調査過程で、一遥はそういった知識をも得ていたのだが――彼岸と此岸は分かたれたものではなく、溶け合っているのかも知れない。
年老いたおじいちゃんは、家族の話を、息子や、孫娘の話をしただろう。
訳の分からないアプリに心を惹かれている、危なっかしい孫娘の話を。
――かわいらしいじゃないか。ぼくもそのアプリとやらを、試してみよう。
十和はそんなふうに、おじいちゃんを困らせたのかも知れない。
二×二のパックに四つ詰め込んだ卵を三宝に乗せ、巳岩の本尊に供える。
「んで、十和くんはどこにいるわけ、はぁ」
「こっち」
一遥はあのとき十和の薄らいでいったところへと皆を導いた。
と、そこには白木でできた新しい墓標が建っている。
おじいちゃんに違いない。
ひと月かそこらの間に、おじいちゃんは再びここに来て、十和が思い残すことなく逝ったことを確かめたのだろうか。
「んー? なんだこの模様?」
百伊が墓碑銘を覗き込みながら唸っている。
「ギリシャ・・・いや、
千咲は大人びたことを言っている。
一遥は首をひねった。そして気づいた。
十和
麦福 Δ・ω・Δ
ちがう、これは
犬の顔文字
だ。来世まで供をしてくれた相棒の麦福の名前の下に、犬の顔文字を書いているのだ。
――一遥によって、ぼくも変えられているということだよ。
一遥は思わず笑ってしまった。
十和は、消えたふりをしながら、最後にまたおじいちゃんの身体を借りたのか。
十和にはお孫さんが居て、彼は外国に行ったのだとか、支離滅裂なことを言って一遥を守ろうとしたおじいちゃんもそうだ。
ふたりして、一遥に
嘘ばかりついている
。でもそれは、とても愉快な気持ちだった。
「厳めしい墨文字だからって、惑わされてはいけないよ」
一遥は親友たちを窘めるように言った。
「目を凝らし、本質を汲み取ろうと試みるのだ」
十和なら、そんな言い方をするかな。
「え、どうしたの」
「なんじゃはあこ、その喋り方は」
二人の親友がもっともな反応を示すのに、一遥は微笑みを返した。
生きているよ、十和は。
わたしの中に、生きている。
春が来る前の僅かなひととき、わたしは十和と出会えた。前に進めた気がした。
ビッグファミリーは恐れによって迎えられた。
そして実際に、JKたちにいくばくかの災厄をもたらした。
しかし、それは殻を破るときに少しだけ訪れる痛みに過ぎない。
ちょっと軽々しいかな。だけど、今はそう理解させておいてほしい。
桃の香りのする涙が二粒、一遥の鼻の両脇を伝って流れ落ちた。
でも、もう大丈夫だ。万事これでいいのだ。ゆりかごを去るときが来た。
ビッグファミリーがもたらしたもの。
一遥はいま、人を愛し、そして自分自身を愛することができるようになっていた。
【終】