第3話 京都での吉田兼好の評価 エッセイ

文字数 3,854文字

吉田兼好の徒然草を読み終えて、清々しく、心が洗われる思いがした。人が生きていく道筋は、千差万別である。絶対に正しい生き方、というものはないと思う。この世に生を受けた人には、終焉がある。徒然草は人生の色々な面での教訓を示唆している。
私が六歳の頃、隣の家に女の子が生まれ、抱いて近所の人にお披露目していた。赤ん坊を覗き、「この子は僕より若い。今からは僕より長生きし、僕はこの子より先に死ぬのだ」と思わされた。「産まれた後に、終わりがくる」ということを自分で考えたのではなく、本能的に悟らされた瞬間だった。死という恐ろしい命題は、その後、大人に成長していく過程においても、心のどこかに付き纏う。
兼好法師は、人間の死というものを真正面から見据え、考え、書いた段が多い。徒然草は日本三大随筆の一つと評価されており、私もエッセイを上手に書きたいという動機からこの本を読んだ。七百年も前の話だから、古い言葉と言い回しで記されており、現代人には読みにくい。現代訳された本を読んだが、作者の意訳も入って来ると、私の心に沁みてこない気がした。原文で古語辞典やネットを参照し、自分なりに解釈し読み進めた。自分の意欲を燃やす為、講談社のブログに投稿した。興味を持ってくれる人がいるのだろうか。毎日、私のブログを読んだ人のアクセス数が表示され、数が多いと励みになる。ブログ名は「徒然に納得」とした。一日に一から二段を訳し、二百四十三段を読み返した。半年近くかかって完読した結果、得心することが多く、面白い随筆だと感じた。
吉田兼好とは、どういう人物なのだろうか。ネット検索してみると、京都の神職の卜部家に一二八三年頃に生まれた。若い時は御所で、後伏見天皇や後二条天皇に仕えた。三十歳で出家し、「物より心に重きを置いた生活」を続け、一三五二年頃に亡くなったとされている。後白河天皇・後堀川天皇その他の高貴な方の具体的な名前を挙げ、多くの逸話と教訓が書かれている。当時の日本の上層階級の実態を、鋭い観察と卓越した表現で短くまとめている。さすが、日本三大随筆と称される内容である。出家した経験から、仏教に関する自分の見解も吐露している。
特に私が感銘を受けたのは、「人生は短く、音もなく死がやってきて人生は終わる」「物欲に捉われたり、名誉欲に捉われるのは、愚者のすることである。心の豊かさを持つことが大切である」と説く、有言実行の姿勢である。「最低限度必要な食べ物や、所持品で生きていき、仏道に精進することこそ価値がある」という。当時、仏教は高貴な方にも浸透し、僧侶は世間的に高い地位を認められていた。 
同時代の花園天皇も退位後、上皇となり、仏教に魅入られ、旧御所の敷地を臨済宗妙心寺として創設せられた。その際、吉田兼好も何等かの仕事をしていたこともあったようだ。
随筆なので架空の物語ではなく、事実や見聞を元に、自分の考えを加え表現している。 
「京都の何処で、どういう人が、どう行動したのか」現地に赴き、実態を確かめてみたくなった。令和四年四月、同好の志である妻と、御室桜の散った京都へ、一泊二日の旅を、コロナ禍の中、決行した。兼好ゆかりの五個所を、訪ねることにした。 
まず、吉田兼好が生まれ育ったとされる「吉田神社」を捜した。京都大学の近くで吉田山の麓に、吉田神社がある。大きな赤鳥居の近く、家から出て来た中年男性がいらしたので、神社について尋ねた。偶然にも、大元社の代表幹事の鈴鹿さんという人だった。
鈴鹿さんの話では「吉田兼倶(かねとも)が最初に創設したのが大元社であり、その後、吉田神社を創設し、御所にも出入りするようになった。天皇から神社任命権を与えられるまでに勢力を広げた。明治維新で天皇は東京へ遷都され、それに付き従い、吉田神社の神官も宮内庁勤めとなり転居した。
現在の吉田神社神主は他の神社から任命され赴任している」という。神社の門前にある大元社の記念館に案内され、祭事の鉾や現状の活動資料を拝見させて貰った。[最初から幸先の良い出会いがあった]と有頂天になり、鈴鹿さんと別れて、すぐ吉田神社へ向かった。
神社で巫女さんから、お札を買いながら、吉田兼好と吉田神社の関係を尋ねた。別室から出て来た神職は、マニアの問い合わせが多いのか、煩わしいそうに「兼好は、ここの出身ではありません」と断言した。「遠い親戚にあたり、当時は無名であり、当神社に彼の記録はない」という。ネットでは、吉田兼倶の息子が吉田兼好で宮中に仕え、従五位まで昇進と書かれていた。偽情報であり、「吉田兼倶は、吉田兼好よりも百五十年後に、誕生しており、時代が違う」という。詳細は不明で、兼好は、当時は無名であり、没後、百年経って世間から評価されだした。
生没、出身、職柄等は不詳であるという。私が思い描いた兼好の経歴と大きく異なる。事実は神官の説明に合理性がある。
私は意気消沈しながらバスに乗り、次の目的地の「下鴨神社」に行った。参道に特別展示があった。三大随筆家の別の一人、鴨長明が仮住まいしていた実物大の小屋である。八畳ほどの簡素な平屋である。[こんな狭い所で生活していたのか、不便だったのでは]と思った。しかし、兼好法師より生存中は有名人だった証である。
知りたい兼好法師に関する史跡はなく、下鴨の若い神職の話だと、「見物人として来て、文を書いたのではないでしょうか」と切り捨てる。兼好の実況検分で、またも期待外れとなった。下鴨神社は、天皇家が国を守るための格式高い神社だった。
本日は、既に一万五千歩も歩き回り、疲れ果てた。タクシーで花園町にある臨済宗妙心寺の花園会館に行き、泊まった。翌朝、妙心寺境内を散策したが、思った以上に広大であった。法堂の釣鐘は日本最古であり「釣鐘は黄鐘調(おうしきちょう)の音を出し、雅楽の調律の基準音にされていた」と兼好は記している。妙心寺の僧侶もそのことは証言した。兼好に関係する場所へ来れて、嬉しかった。
次に目指すのは、妙心寺から歩いて十分ほどの「仁和寺」である。兼好は「寺の法師が御所の稚児を誘い、宝探しの遊びをした。また修行僧が惜別の宴会で、銅製の鼎(かなえ)という容器を頭に被り抜けなくなった」という場面を描いていた。境内を歩いている中年僧侶にこの件を訊くと「徒然草は仁和寺の暴露本でしょう」と答える。しかし兼好と寺が無係だと言わなかった。そして僧侶は「山門を出て、十分程歩くと御室(おむろ)の長泉寺があり、墓地に兼好の塚が設置されている」と地図まで書いて呉れた。
地図通りに行くと、狭そうな長泉寺の門前石碑に「兼好法師の由来」と表示されている。墓地の一角に据えられた丸石に、兼好法師と彫られ、風月に晒され文字は一部消滅していた。後日、当寺の住職に電話で尋ねると、「この地で亡くなったのではなく、兼好を慕う者が建てたらしい。三重県伊賀市に遺跡があり、そちらが墓ではないだろうか」と情報を頂いた。伊賀市に電話すると、「兼好の塚があり、この地に居住した謂れの石碑がある」という。「近くの寺に、兼好法師が机に座り、物を書く姿の絵もあり、県の文化財になっている」と話してくれた。
次の目的地は「報恩寺」である。タクシーの運転手に行先を告げると、報恩寺は知らなかったが、釈迦千人堂と言うと、理解し送ってくれた。兼好法師も「ここで講話を聴くとき、隣の美女が擦り寄ってきた」と高貴な方がした兼好への悪戯の光景を描写している。 
説教があった御堂は国宝である。観光客は誰もいない。仏壇の前に座り、合掌し頭を下げ礼拝し「ようやく念願の兼好法師様に会うことが出来ました」と言い、感慨に浸った。兼好は仏教を信じ、釈迦の御心を知りたいと修行していた。御室の山中に兼好の住居があったことは間違いない事実のようだ。伊賀や、大阪阿倍野にも兼好が住み、石碑があるようだ。機会があれば、行ってみたい。
最後の目的地である「上賀茂神社」を訪ねた。鳥居を潜った左手に芝生があり、五月開催の、競馬祭りの準備がされていた。赤と黒の馬を百メートル走らせ勝敗を決める祭事で、兼好もその場の雰囲気を描写していた。
境内を流れる御手洗川(みたらいがわ)に橋本社と岩本社という小さな社がある。兼好が見学者として来訪し由来を尋ねると、上賀茂神社の神官が「貴方の方が、よくご存知でしょう」と言ったという。「在原業平の和歌と岩本社の繋がり」を描いた一段である。
徒然草の兼好法師を尋ねて京都市来たのだが、本で想像したことと、京都の現場状況は、実際に来て、聞いてみないと、本当のことはわからない。多くの関係寺院や神社の人達に、質問し、話を聞いた。徒然草の理解を深め、私の中で無形の宝物となった。兼好法師は、刹那の人生を真剣に考え、人々に警鐘を鳴らしたのだろう。
凡人の私は、時が来れば、「俎上の鯉」と、身を任せる外ないと考える。朝、目が覚め、青空を見て、「生きていてよかった」と、一日を楽しむのが一番だと思う。
徒然草の最後の段で、兼好は「仏とは」と父に問う。「仏は人が成った」と父答える。「人はどうやって仏になったか」と問う。父「仏の教えで成る」と答える。「教える仏を誰が教える」と訊く。「空より降ったか、地から湧いたか」と笑う。八歳の兼好が父に問答する様子である。父も教養があり高貴な人で、兼好も利発な少年であった。真理を見極めていこうとする兼好法師に、心洗われる思いがし、私の大好きなエッセーである。
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