第4話 大坂阿倍野での兼行法師 エッセイ

文字数 1,574文字

幾多の有名人を輩出している京都では、兼行法師の徒然草は大勢の人が知っているにも拘わらず、法師の伝承をしている場所や遺跡は少なかった。双ヶ丘(ならびがおか)にある長泉寺の住職は「大坂阿倍野と、三重県伊賀上野に、法師の塚が残っている」ということを教えてくれた。
「京都に行って不完全燃焼ならば、阿倍野と伊賀上野に行って事実を確かめ、徒然草で兼好は、何をいいたいのか。確かめてみたくなった。
事前に阿倍野の聖天山正圓寺に電話し、兼行法師が居たかどうか確認した。伊賀上野の種生(たなお)地域センターにも確認した。どちらもその地に住んでいた伝承があるという。新幹線・大阪環状線・奈良経由・伊賀上野駅行きの切符を購入。伊賀上野のシティホテルとレンタカーを予約した。初めて行く所は、「どんな旅なのか、人との出会いがあるのだろう」不安と期待で楽しい緊張を覚える。
大阪駅を経てJR天下茶屋駅で降り、警察派出所で場所を確かめ、聖天正圓寺に向かって歩く。聖天山門前に、自転車を止め、石像を拝むおじちゃんが居た。終った所で話しかけると、「私の母親が末期の肺がんだった。四国の八十八カ所を廻りたいという。私は聖天様に毎日、願掛け参拝を続けた。母は、次第に回復し、遂に四国の巡礼を終えることができた。聖天さんは、願い事を叶えてくれる神様です。貴方も此処に参られたからには、願い事が成就するに違いないでしょう」と、言って、自転車で去って行った。
境内のお札売りの巫女さんに「住職さんはおられますか」と尋ねた。「あそこで雑草を抜いています」と言う。半ズボンにTシャツ姿の熟年の住職が、夏日のなか、草を抜かれていた。「電話した者ですが、福岡から来ました」と私は話した。「分かりました。ちょっとお待ち下さい」と家の方へ入っていった。歴史の古そうな寺に繋がる住居である。暫らく待つと、紙をもって外に来られた。「まあ暑いから。上がって説明しましょう」と座敷に上がらせてもらった。
ガラス窓から見える外庭は緑木が綺麗である。門前の石碑に、「兼行法師の藁打ち石」があった。「本当に、法師は此処に来られたのですか」と私が尋ねると、「南北朝の頃、天皇が二派に分かれ戦乱の世の中だった。後醍醐天皇の命令で、貴族の高畠顕家(あきいえ)は、各地で奮戦し、新田義貞や楠木正成と共に闘った。顕家は若くして司令官に任命され戦さに次々と勝ってきた。大坂阿倍野の戦闘において、顕家は敵の策略にかかり、二十一才の若さで討ち死にしてしまった。彼は、生前に後醍醐天皇へ、『国民を不幸にさせる悪政は止めましょう』と進言していた。
若き有能な戦士・顕家の死を弔う為、兼行法師は阿倍野に来て、供養した。そして、暫らくこの地に住んだ。弟子の命婦丸の家の仕事を手伝い藁を打ち、生活をしのいだ」と辻見覚彦(かくげん)住職は、説明した。「この書類は、本のコピーですが、作者と懇意なので電話してみましょう」と言い、電話に出た女性作家に「尋ねてみてください」とスマホを私に渡した。「最近の子供達が史実を知らないので、法師が阿倍野に住んだことを詳しく調べ、本にしました」という。
住職は、更に続ける「兼行法師は、無類の人間嫌いだった。当時は戦乱の時代で、人を騙し、殺すのが当り前、そんな世の中に嫌気がさして出家し、人と交わらないようにした。例えて比較するならば、一休さんは無類の人好きだった。相手の話を聴いて、『あんたは嘘を言っているだろう。私に分かる。しかし私は嘘を言っているあんたが、大好きなのじゃ』という。一方、兼好法師は、人嫌いだった。人間は、裏切り、策略で人を陥れる。『徒然草を人嫌いの兼好法師を意識して読めば』違った見方が出来ます」と、信者へ法話される時のように話して頂いた。この寺には兼行法師が、間違いなく来られたことを実感した。
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