1.竜と追想

文字数 2,285文字

 残された本を捲る。
 姉の部屋にはうっすらと埃が積もっていた。ルネリアが歩くたび、姉のいない日々の証明が舞い散る。
 貴族の子女として――魔導四家の末席、パンドルフィーニの跡取りとして、彼女がやるべきことは少なくない。魔術の練習と座学だけで済むならまだしも、あらゆる教養を求められている。
 ルネリアには、この世界に必要とされる才がある。
 魔術と呼ぶ現象――その源たる竜の力を、体に宿して生まれてきた。生まれ落ちた瞬間、部屋中に竜の咆哮を轟かせたときから、彼女は竜の使いとして、この家を継ぐことを定められたのだ。
 息の詰まる日々の中で、姉が自室に残したものだけが、いくらかの慰めだった。
 使用人の目を盗むのには慣れたものだ。部屋の主に案内をされなくても、どこに何があるか分かるくらいには、ルネリアはここに入り浸っていた。
 ――三か月前、最後に忍び込んだときと、様子は変わっていない。
 姉がその日にいたという劇場で、演目の主役による殺傷事件が起きたと聞かされた日だ。クライマックスでヒロインへ突き刺すための作り物のナイフが本物で、そのまま観客を巻き込んだ騒動になった。
 これが地方の出来事ならば、王都にほど近い領地にまでは伝わらなかったのだろうが。
 悪いことに――芸術都市の大劇場だったらしい。
 被害者の中には魔導四家の人間もいたようで、駆け付けた騎士団の人間に、パンドルフィーニの緑の髪を見たのだと証言したという。恐慌の中で、脱げかけたフードを押さえながら、のちに断頭台に晒された主役と対峙していたというのが、おおよその内容だ。
 長いこと行方を眩ませていた出来損ないの娘に、父は好都合だとばかりに死を押し付けた。
 いつまでも行方知れずにしておくよりは、ずっと楽だったのだろうと思う。この世界で最も王に近い存在として持て囃される魔導四家の中でも、パンドルフィーニの肩身は狭い。千年以上も続く他の三家に、六代ばかり前から入れてもらった(、、、、、、、)だけだ。娘の遁走などという不名誉で騎士団の手を煩わせ、これ以上居場所を狭めるよりは、いっそ死んでしまったことにでもした方が楽だったのだろう。
 それを責める気はない。
 ただ。
 以来――どうにも、ルネリアはこの部屋に入れなくなってしまった。
 それでも、家にひどく大事にされている自覚をいいことに、姉の存在を葬りたがった父に我儘を通した。竜の使いとして、いずれ信仰の対象にすらなるかもしれない身を盾に、姉の存在を守り抜いた。
 ――だって。
 ルネリアには姉が思い出せない。姉の表情が分からない。いつでも優しかったという曖昧な印象が、輪郭をぼかして狂わせてしまう。
 だから、空気が残る部屋の中にしか、姉を見ることができない。
 彼女がそうしたように本を捲ったところで、彼女と同じものが見られるわけでもないのに。
 その虚しさと戦い続けて、それでも姉がどこかにいるものだと感じていたくて、彼女は三か月ぶりに部屋の扉を開けた。姉が残した本に手をかけ、その目に映ったものを確かめようとした。
 結局――。
 姉が解そうとしたものは、彼女には理解できずに、本は閉じられる。
 肘までを覆う白い手袋を見る。姉に繋がるものは、これしか残っていないような気がした。
 失望に似た失意の中で、ルネリアは踵を返す。音を殺して薄埃の上を歩き、来たときと同じように扉を閉じる。周囲を伺うことはせず、さも姉の部屋には興味もないとばかり、背筋を伸ばして歩き出した。
 じきに――。
 すれ違う給仕は、それでも、彼女の様子がおかしいことには気付いたらしい。気遣わしげな微笑を貼り付けて、ルネリアの紫の瞳を覗き込む。
「お嬢様、本日はお時間もございます。お外にお出でになってはいかがでしょう?」
 ――ちょうどいい。
 感傷を抉って生まれた、この鬱屈した気分を払いたいところだった。
 一も二もなく賛成したいところだが、貴族の娘であり、秘匿されているとはいえ竜の使いである。一応は迷うそぶりを見せる。
「お父様は?」
「王宮にご用事が。今は席を外しておられます」
 小さく微笑まれて、納得する。
 この給仕のように、生まれたときから一片の自由も知らぬルネリアの境遇に同情する者も多い。粛々と与えられたことをこなすというのは、こういうときに役に立つのだ――などと噛み締めて、彼女もまた悪戯っぽく笑った。
「じゃあ、そうしようかな。内緒にしてね」
「ただいま。護衛を用意いたします」
 密談はそれで終わる。
 自室までの道のりを急ぐ。動きづらいドレスも、転ばない程度には親しんできた。何しろ今年で十七になるのである。
 部屋の扉を開くなり、数多の服からローブを取り出した。
 ――魔導四家にはそれぞれ血筋を示す特徴があるが、パンドルフィーニのそれは緑の髪だ。こういうものは、創世の竜の御前で忠誠を誓ったとき、その証として賜るのだという。
 姉はそれを永劫続く呪いのようだと言ったが――。
 どうあれ。
 こうして内密に街に出るのには、ローブが必要なのだ。
 間もなく現れた先の給仕が、慣れた手つきで着替えを手伝う中で、ルネリアは磨かれた鏡に映る己を見る。
 二つに括った緑の髪。瞬く紫の瞳は父譲りで、きつい印象できらめく。反面、眉からは幼い雰囲気が伝わってしまうだろう。まるで姉とは正反対の顔立ちだ――と、鏡の前に立つたびに思う。
 あの日――。
 この家を出て行く姉も、鏡の前で同じことを思ったろうかと、ぼんやりと考えていた。
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