4.蛇と双星
文字数 1,594文字
姉は、名をアルティアという。
夜空にもひときわ明るい星の名だった。美しい姉には似合いの名だと思っていたのだけれど、彼女はそれをいたく嫌っていた。
――だって皮肉じゃない。
そう言って、彼女は溜息を吐いたのだったか。
首を傾げるわたしに、姉は星の物語を語って聞かせてくれた。与えられたこと以外には何も知らないわたしに、本の中の世界を教えてくれたのは、思えばいつも姉だった。
この世界を作った竜は――。
体を地とした。翼を天とした。その瞳を、地を照らす光とした。彼が眠る間、生物が光を見失わないように、鮮やかな鱗を星とした。
夜を照らす星々の中で、最も輝く大きな光は、竜の逆鱗だ。古くは月 と呼んだらしい、わたしの名の由来だと、姉は語った。
――貴女にぴったりの、いい名前だと思うわ。
付け加える声音は穏やかだった。少しだけ座り心地が悪くて俯く耳に、ころころと笑い声が響く。
それから。
姉は、自身の星の話をした。
――双子星 はね、もともとは二つの星だったのよ。
竜の両翼にそれぞれあった、一対の鱗の名だそうだ。普段は見えないほど小さな光だが、旅人が道に迷うときだけ、竜はその鱗を一つにして、夜空に映える星としたという。この星が見える方角に向かえば、竜の導きで難を脱せる。
導きの星だと――。
由来を聞けば、よけいに姉には似合いのように思えたけれど、わたしは何故か言い出せないままだった。神妙な顔をするわたしの瞳を覗いて、彼女が笑う声がする。
――私が輝けなかったのは、片割れの星がなかったからかもね。
――そんなことないよ。
姉の乾いた声に、大きく首を横に振った。
――お姉ちゃんは凄い人だよ。
返答はない。
代わりに、紙が擦れる音が響いた。いつも手にしている本を不意に捲るのは、姉の癖だ。
誰が何と言おうとも、わたしは姉を敬愛していた。魔術師としての才に劣ろうと、宿した棘で周囲から疎まれようと、彼女だけがわたしに世界を教えて、わたしを外に連れ出そうとしているのだ。
悲劇を書き記し、本の中に未来を見出し、この大きな屋敷から出て行こうと足掻く姿は――。
何も知らずに檻の中にいるだけのわたしより、ずっと大きいように見えていた。
だから。
わたしは、姉が自身を否定するのが、少しだけ嫌いだった。
――お姉ちゃんは凄い人なんだよ。
なおも続けるわたしに、根負けしたように姉が笑った。
――嬉しいけど、私はそんなにいいお姉ちゃんじゃないわ。
――そんなことないよ。どうして?
――だって、貴女をこんなところに閉じ込めてるのよ。
――閉じ込めたのはお父様とお母様だもん、お姉ちゃんじゃないよ。
――優しいわね、貴女は。
声は優しい。わたしの言葉がどんな響きを孕んでいても、姉の返答は同じ穏やかさで迎えてくれる。彼女の方がずっと優しいはずなのに、それを絶対に認めてはくれない気がして、わたしは声のやり場を失った。
――恨んでいいのよ、ルネリア。
白い手袋に覆われた指先が、本を捲っている。続く言葉を待って息を止めたわたしに、姉の目は向かない。
本に落ちた赤い視線が閉じる。一度も聞いたことのないような、ひどく寂しげな声を上げて、彼女は唇を持ち上げた。
――私がもう一人いたら、貴女の双子星 になれたかもしれないのにね。
言ってから――。
気付いたように顔を上げた。揺らいだ赤い瞳がわたしを捉えて、先ほどの感傷を見るまに失う。
次に瞬いたときには、彼女の表情はいつものそれに戻っていた。
――そもそも、パンドルフィーニの娘が救済の星の名前をしてるだなんて、その時点で馬鹿な話だわ。
そう。
吐き捨てた姉の唇が引き攣るように歪んでいたのだけを、わたしはよく覚えている。
夜空にもひときわ明るい星の名だった。美しい姉には似合いの名だと思っていたのだけれど、彼女はそれをいたく嫌っていた。
――だって皮肉じゃない。
そう言って、彼女は溜息を吐いたのだったか。
首を傾げるわたしに、姉は星の物語を語って聞かせてくれた。与えられたこと以外には何も知らないわたしに、本の中の世界を教えてくれたのは、思えばいつも姉だった。
この世界を作った竜は――。
体を地とした。翼を天とした。その瞳を、地を照らす光とした。彼が眠る間、生物が光を見失わないように、鮮やかな鱗を星とした。
夜を照らす星々の中で、最も輝く大きな光は、竜の逆鱗だ。古くは
――貴女にぴったりの、いい名前だと思うわ。
付け加える声音は穏やかだった。少しだけ座り心地が悪くて俯く耳に、ころころと笑い声が響く。
それから。
姉は、自身の星の話をした。
――
竜の両翼にそれぞれあった、一対の鱗の名だそうだ。普段は見えないほど小さな光だが、旅人が道に迷うときだけ、竜はその鱗を一つにして、夜空に映える星としたという。この星が見える方角に向かえば、竜の導きで難を脱せる。
導きの星だと――。
由来を聞けば、よけいに姉には似合いのように思えたけれど、わたしは何故か言い出せないままだった。神妙な顔をするわたしの瞳を覗いて、彼女が笑う声がする。
――私が輝けなかったのは、片割れの星がなかったからかもね。
――そんなことないよ。
姉の乾いた声に、大きく首を横に振った。
――お姉ちゃんは凄い人だよ。
返答はない。
代わりに、紙が擦れる音が響いた。いつも手にしている本を不意に捲るのは、姉の癖だ。
誰が何と言おうとも、わたしは姉を敬愛していた。魔術師としての才に劣ろうと、宿した棘で周囲から疎まれようと、彼女だけがわたしに世界を教えて、わたしを外に連れ出そうとしているのだ。
悲劇を書き記し、本の中に未来を見出し、この大きな屋敷から出て行こうと足掻く姿は――。
何も知らずに檻の中にいるだけのわたしより、ずっと大きいように見えていた。
だから。
わたしは、姉が自身を否定するのが、少しだけ嫌いだった。
――お姉ちゃんは凄い人なんだよ。
なおも続けるわたしに、根負けしたように姉が笑った。
――嬉しいけど、私はそんなにいいお姉ちゃんじゃないわ。
――そんなことないよ。どうして?
――だって、貴女をこんなところに閉じ込めてるのよ。
――閉じ込めたのはお父様とお母様だもん、お姉ちゃんじゃないよ。
――優しいわね、貴女は。
声は優しい。わたしの言葉がどんな響きを孕んでいても、姉の返答は同じ穏やかさで迎えてくれる。彼女の方がずっと優しいはずなのに、それを絶対に認めてはくれない気がして、わたしは声のやり場を失った。
――恨んでいいのよ、ルネリア。
白い手袋に覆われた指先が、本を捲っている。続く言葉を待って息を止めたわたしに、姉の目は向かない。
本に落ちた赤い視線が閉じる。一度も聞いたことのないような、ひどく寂しげな声を上げて、彼女は唇を持ち上げた。
――私がもう一人いたら、貴女の
言ってから――。
気付いたように顔を上げた。揺らいだ赤い瞳がわたしを捉えて、先ほどの感傷を見るまに失う。
次に瞬いたときには、彼女の表情はいつものそれに戻っていた。
――そもそも、パンドルフィーニの娘が救済の星の名前をしてるだなんて、その時点で馬鹿な話だわ。
そう。
吐き捨てた姉の唇が引き攣るように歪んでいたのだけを、わたしはよく覚えている。