17.竜と際会

文字数 5,043文字

 姉からの手紙を閉じて、ルネリアは深く息を吐いた。
 ぼやけていた輪郭が明瞭になる。潰れた肺に空気を吸い込むと、姉の部屋に満ちた清涼なにおいが蘇る気がした。
 姉は生きている。
 その事実が心を照らした。波立つ思いに生まれた歪なくぼみすらも露わにされるようで、心のうちに押し寄せる感情の波が思考を乱す。
 姉に――。
 姉に会いに行かなくては。
 言わなくてはいけないことがある気がする。
 それが何かは――まだわからないけれど。
 狭いテントの中で、すっかりと固くなった体を伸ばす。オルテールは慣れれば快適だと笑ったが、そうだとするならば、ルネリアがこの不快感に慣れる日は永久に来ないだろう。兄を名乗る彼が楽観的に生きているのはわかってきたところだが、相容れることはなさそうだった。
 眠る前にしっかり揉んだおかげで、歩き通しの足が抱える痛みも幾分かましになった。姉の手紙を抱えたまま、テントをくぐった先で、赤い瞳が穏やかに笑うのが見える。
「おはよう」
「おはようございます」
 癖のように頭を下げる。苦笑めいた声が喉から漏れるのが耳に届いた。
「他人行儀だな」
「しょうがないですもん」
「つれないことを言わないでくれたまえ」
 兄妹じゃないか。
 肩をすくめる仕草に笑いが漏れた。さも悲しげにおどけてみせる彼に、半分ほどの本心を織り交ぜた言葉がどう届いているのかはわからない。彼の方は、さして気にする様子もなく歩き出した。
 この調子でいけば、明日にでも姉が待機する宿場へたどり着ける予定だった。
 オルテールによれば、宿場と村は違うもの――らしい。旅人や行商人を相手に、単なる宿のみを提供している宿場では、村のように住人が秩序だって生活を営んでいるわけではないのだそうだ。
 繁盛すれば行商人が居着くこともある。村々とのやりとりは、交易というより仕入れに近い。宿に働く人々は出稼ぎの労働者が多く、顔ぶれが日によって違うこともある。
「だから、まあ、待ち合わせにはちょうどいい場所ではあるんだろう」
 村に何日も滞在するのも、それはそれで違和感があるのだという。
 住人から向けられる、憐憫と侮蔑の混じった瞳を思い出して、ルネリアは深く頷いた。満足げに口許を緩めたオルテールの顔を見上げる。
「お姉ちゃんとは、明日会えるんですよね」
「昨日からそればかりだな」
「だ、だって――」
 一年間、茫然と思うだけだった姉の存在が、目前に迫っているのだ。起きている間の思考が、彼女のことに偏るのは必然だった。
 それでも指摘されると顔に熱が集まる。恋に焦がれる娘じゃないのだから――などと笑われても、喉からはうめき声が漏れるだけだった。
 ひとしきり喉の奥で笑ったオルテールが、一つ息を吐いてルネリアを見る。にらみ上げる紫の瞳に、細められた赤い目が映った。
「会えるように、頑張って歩こう」
 頭を軽く叩かれる。
 頷きはしたが、それで黙るのも癪だった。言葉を探すうちに声を上げる機会を失う。
 それで結局、黙り込むことになった。
 前を行く青年からすれば緩やかなのだろう歩調も、ルネリアにとっては早く感じられる。小走りについていけば、ふとその足が止まるのが見えた。
 近寄った先で、オルテールが振り向く。
 無言で指さされた地面を見る。小さくへこんだ地面の模様だ。獣の足跡のようだ――とまでは判断できるが、具体的にどの動物なのかはわからなかった。
「蹄の跡だ。近くに馬車があるのかもしれないね」
 言われて――。
 信じられない思いで地面を見る。動物に関する教育も受けていたが、馬のものとして描かれていた蹄の跡と、目の前にある獣の痕跡が、頭の中で一致しない。
 ただ。
 フードの下で唇を引き結んだオルテールの表情を見ると、それが嘘だとは思えなかった。
「う、動かない方がいいんじゃないですか」
 震えた声での提案は、笑声とともに一蹴された。
「昼から野営をする旅人の方が不審だよ」
「そう――でしょうか」
「村なり宿場なりなら、昼からうろついていてもおかしくはないがね。歩くしかなさそうだな」
 返答は軽い。俯いたルネリアの頭を撫でる手にも、顔は上げられない。
「大丈夫だ。何があっても、私がお前を守るよ」
 頷きはしたものの――。
 まとわりつくような不安感は、心に燻るままだった。
 オルテールの足だけを見て歩く。息を止めたら存在ごと見えなくならないだろうかと、ありもしないことを願って息を止める。
 ――歩調が遅くなったぶん、青年の足を止めるだけだったのだが。
 果たして、無意味な努力が報われることはなかった。
 前を行く青年が、ふと歩くのをやめてルネリアの手に触れる。それが何の合図なのかは言われずともわかった。
 近寄ってくる足音に混じって、馬の声がする。狭い視界に映る、兄を名乗る青年のものとも違うブーツに、思わず視線を逸らした。
「そこの旅人」
 その声にちらと視線を上げた。オルテールの唇が舌打ちでもするかのように歪んだのを捉える。赤い瞳の一瞥に逆らわず、ルネリアは震える手でフードを強く引いた。
 長身の影に隠れて俯く耳を、芝居がかった声が朗々とかすめる。
「こんにちは。ずいぶん立派な馬車だね。何かこのあたりで事件でも?」
「この紋を見たことがないのか」
 ルネリアを連れ戻しに来たのだろう使者が、呆れたような息を吐いたのが聞こえる。目の色が見えないよう引き下げるフードの端から、双頭の竜が描かれた豪奢な金の紋章をかざすのが見えた。
 応じるのは青年である。
「何しろ出身が遠いものでね。領主の家のものかな?」
 白々しく首を傾げたオルテールの言葉に、まあそんなものだ――と濁した返事がある。
 一瞬だけ唇を引きつらせた青年の顔は、威圧的な相手からはフードに隠れて見えなかったようだが、ルネリアにははっきりと見て取れた。
 滑稽な見栄を悟られていると気づいた様子はない。開きかけた口を閉じるオルテールのフードに手を伸ばして、使者は眉間にしわを寄せた。
「探し人がある。顔を見せろ」
「このあたりの出身じゃないと言ったろう」
 伸びてくる手を、オルテールがさりげなく払った。
 緩慢な動作でこそあるが、警戒の色は伝わったらしい。応じる気のない男から外れた視線がルネリアを捉える。
 裁縫針で刺されているような気分だった。固く唇を引き結んで、飲み込む唾の音すら悟られないように息を殺す。少しでも声が漏れたら終わりだと、竜に縋るように呼吸を止める。
「そちらの娘は」
 無情な声に身を固くする。彼女を庇うように前に出たオルテールが、軽く息を吐いたのがわかった。
「これは私の妹だよ。旅を始めたときから一緒にいるんだ」
「ならば顔を見せられるはずだろう。フードを脱げ」
「勘弁してくれたまえ。妹は顔に傷がある。婦女にコンプレックスを晒せというのは、酷じゃないか」
 広げられた手の奥に隠れて、小さく頷いた。
 拒むようにフードを強く引き下げる。破れんばかりの勢いだったつもりが、ルネリアの腕力ではおよそ足りなかったようだった。頭への圧迫感が増しただけだ。
「あまり怯えさせないでくれ。彼女は体調が悪いんだ、早く次の宿場に行って休ませたいんだよ」
 視線を遮るように発された声には、苛立ちの色が明確に滲んでいた。聞いたことのない声色に顔を上げると、フードの下の唇が緩く微笑をかたどるのが見える。
 しびれを切らしたのか、使者が怒気を孕んだ息を漏らすのが聞こえる。乱暴に歩み寄るブーツが、オルテールの手をどけたのが、視界の端に映る。
「失礼」
 振り払う間もなかった。
 眼前に閃光が走った。息が止まる。むき出しの中身をあぶられるような灼熱が、腕を駆け巡る。 
「い――!」
 反射的に体が動く。めちゃくちゃに振り回したつもりの腕は、男の手をはねのけるにも至らない。明滅する視界に涙があふれた。
 急に視界が開ける。パンドルフィーニの証を遮る布が、頭から外れたのを知った。色めき立つ使者の声が、記憶の中の炎に遮られて遠くに聞こえた。
 痛みにもたどり着かない熱を断ち切ったのは、白銀の一閃だった。
私たち(、、、)の妹に、汚い手で触れるな」
 血煙が頬を濡らす。うなるように揺れた声で、オルテールがフードを無造作に脱いだ。露わになる緑の髪を見て、使者が動揺する間に、躊躇なく振り上げられた剣が振り下ろされる。
 引き返そうとした馬主が鞭をしならせるより先に、血を纏った剣が馬の足を裂いた。制御を失った獣から、うろたえる男を引きずり下ろして――。
 再び嫌な音がする。
 絶命した男の体液を跳ね飛ばし、崩れ落ちた獣が暴れ出す。その首に剣を突き刺して、オルテールは深く息を吐いた。
 平原じゅうに満ちた血のにおいが鼻をつく。舌が喉に張り付いて、まともに呼吸ができない。命が終わるにおいを、体じゅうが拒否している。
「大丈夫か?」
 気遣わしげな声にも、首を縦に振ることはできなかった。灼熱感が残る腕にも構わず、頬にまとわりついた血を拭う。そうしなくては自分が燃やされてしまう気がした。
 その手を遮る感触に、痛みは感じなかった。
 姉と同じ白い手袋に覆われた、姉よりも無骨で大きな掌が、ひどく優しく左腕に触れていた。フードの下からルネリアを窺う瞳が見える。
「せっかく綺麗な肌を、痛めてしまうよ」
 手袋の換えを用意していて良かったな――。
 笑いながら、真っ白な手袋が涙ごと血をぬぐった。
 それで肩の力が抜ける。
 ルネリアの目をまっすぐに見つめていた青年が、ようやく張り詰めた色を消した。彼女の頭の後ろへ手を回し、とれたフードを被せる。
 自身も几帳面に髪を隠して、彼は立ち上がった。
 足取りに躊躇はない。散乱した骸へ近寄っていく彼の手が、無造作に何かを持ち上げたのを見た。
 意味がわからないまま――。
 張り付いた舌を動かす。
「――あの、何を」
「こいつらは強盗に遭ったんだ」
 返る声は、ごくはっきりとしていた。
「そういうことにしておいた方が、のちのち楽だとアルティアが言っていたのでね。ついでに路銀にもなるしな。次は宿場だし、あまり他人に荷物を見られる心配もない」
 言う間にも、オルテールは馬車の中から食料を取り出して、自身の持つ袋に入れていく。
 水筒を手に――。
 しばし悩んだ様子を見せてから、中身を地面に流すのが見えた。
「それは、持って行かないんですか?」
「他人の触ったものは苦手でね」
 だからずっと手袋をしているんだと、笑う声がした。
 考えてみれば、水筒を持っていったところで、既に口をつけてあるのだ。今しがた竜の翼を得たうちの、誰かの唾液が混じっているかもしれないと思うと――。
 知らず身震いをする。
 麻痺した鼻が血のにおいを思い出さないうちに、穏やかな青年の声が耳を打った。
「まあ、雨が降れば、私たちの痕跡もすぐに消えるさ。問題はないよ」
 そういうことでは――。
 ないと思うのだが。
 馬車の荷台から降りたオルテールの掌が、目の前に差し出される。腕の痛みは――と問われて、首を横に振った。
「怖い目に遭わせてすまなかったね。今日のことはアルティアにも話しておくよ」
 ――姉に。
 手を掴もうと、伸ばした腕が止まる。灼熱の痛みがぶり返すような気がして、よく動かないはずの左腕に力がこもった。
 この腕のことは――。
 他人に話すような話ではない。まして兄を名乗る血族の青年に聞かせるようなものではなかった。
 それでも。
 ――あの痛みを思い出して、話さずに姉と会うようなことは、ルネリアにはできない。
「オルテールさん、お願いをしてもいいですか」
 震える声を絞り出して、ようやく差し出された手を握る。窺い見た薄い唇が、一瞬の驚愕ののちに、緩やかに微笑んだ。
「もちろん。お前の頼みを断る理由はないよ」
 いともたやすくルネリアの体を引き上げて――。
 彼が笑う。
 今度は音を殺すことなく、唾を飲み込んだ。知らない誰かに来歴を話すことがどれだけ難しいのかを、ルネリアは初めて知る。
「左手のことを、話しておかないといけないと、思って」
 お姉ちゃんと会う前に――。
 掠れた声に、オルテールが首を傾げたのが見えた。
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