9.竜と傷跡

文字数 1,824文字

 目の前のナイフとフォークを見る。
 膝の上に置いたままの手に、目の前に座ったオルテールが困惑しているのが分かる。部屋に鍵をかけるなり、鬱陶しげにフードを取った彼は、姉によく似た顔でルネリアを窺った。
 別段、どこからか取り出された食器を懸念しているわけではない。毒殺などよりよほど手っ取り早い方法を、彼は壁に立てかけている。
 だから、これはルネリアの問題だ。
「――食べないのか?」
 堪えきれないとばかりに声が上がった。
 思わず触れた左腕は、やはり持ち上げる気にはなれない。代わりに見上げた先の赤い瞳は、かすかな気遣いと大きな困惑を湛えて、彼女をじっと見詰めている。
 言うべきか。
 ――言うべきだろうな。
 このままではオルテールも食事に手をつけまい。用意された温かいパンと、豆の入った簡素なスープを見詰めて、ルネリアは深く息を吐いた。 
「左手がうまく動かなくて。昔の事故で」
 知らず、指先が手袋に触れた。
 その奥に隠れた醜い火傷の跡が、彼女の指から力を奪って久しい。ごく弱い力で、握ることと開くことしかできなくなった左手では、美しくフォークを支えることはできなかった。
 普段なら、事情を知る使用人が食事を切り分けて出してくれる。ここにいもしない相手に頼るほど子供ではないが――。
 他に食べ方を知らない。
 自分の口で他人に説明したのは、これが初めてだった。俯いたままとつとつと声を漏らすルネリアの前で、男の白い手袋が揺れるのが見える。
「それは――すまなかったね」
「いえ、いいんです」
 ひどく申し訳なさそうな声を上げたオルテールに向けて首を振る。
 ――この傷を不名誉だと思ってはいない。
 ただ、何もできない己が不甲斐ないだけだ。家の中では不自由のなかった彼女には、一人でできることはほとんどない。
 暗く沈む表情を覗き込んで、赤い瞳が慌てたように瞬いた。伸びる手が、ルネリアの前にあるナイフとフォークに触れる。
「貸してごらん」
 食器をさらっていく声の調子は、ルネリアの面倒を見るときの姉のそれに、ひどくよく似ていた。
 それで、持ち上げかけた視線を再び机に落とす。
 擦れる音はしない。確かに育ちは良いのだろうが、家で見たことのない彼が、どこでそれを知ったのかは知らない。
 もしかすれば姉が――。
 込み上げる想像を飲み下す。無理やりに押しとどめた言葉が、胸につかえて溜息に変わった。
 憂鬱げに目を伏せたルネリアへ、オルテールは冗談めかした声を上げる。
「毒見はいるかい」
「いいえ」
 即座に首を横に振る。同時に少し安堵もした。
 同じような表情ばかりを見てきて、彼が姉を模した何かのように見えていたが――。
 姉はそんな冗談を言わない。
 ようやく顔を上げたルネリアの前に、綺麗に切られたパンがある。動く右手でフォークを握るのを、赤い瞳がじっと見詰めていた。
「あの、少し、食べづらいです」
 吐き出した声は困惑で震えた。思いの外軽い笑声と共に視線が逸らされて、ようやく右手が動く。
 パンの表面を突破するのに、思ったより力が必要だった。無作法だと分かっていても、突き刺すように動かす手に力が籠る。ようやく先端で持ち上げたそれを、恐る恐る口に運んだ。
 ――硬い。
 触感も悪い。どうやら小麦以外のものが混じっているようで、味にも抵抗が強かった。家で食べていたときとは全く違うそれに、思わず口の動きも遅くなる。
 ルネリアの眉間にわずかに寄った皺を捉えて、オルテールが笑うのが見えた。
「白いパンがないと困るだろう」
 頷くほかになかった。食べているうちにいずれ慣れるのかもしれないが、これをおいしそうに口に運べる己は、想像ができない。
 ひどく穏やかにスープを飲む彼にならって、スプーンを口に運ぶ。ごく薄く、どこかで食べたことのあるような味がしたが、それが何なのかが分からぬうちに、喉の奥へ消えてしまった。楽しげにスプーンを動かす眼前の男が理解できない心地さえする。
 今度は、彼女の様子に気付かなかったようで――。
 オルテールは朗々と声を上げた。
「最初は私たちも参ったよ。どうもあれは高級品扱いみたいでね、こういうのが一般的らしい。硬いだろうが、我慢しておくれ」
「――はい」
 硬さよりも味の方が問題なのだが。
 結局、ルネリアは寝るまで、この先の食料について頭を悩ませることになったのだった。
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