11.竜と苦悩
文字数 3,445文字
まどろみの淵から意識を引き上げる。
軋む体を持ち上げる。体中の倦怠感をごまかすように背を伸ばすと、骨に溜まった不快感がいくらかましになった気がした。
――嫌な夢を見た。
額を押さえる。湿った感覚が掌に纏わりつくのが嫌で、知らず溜息を吐く。
姉があんなことを言い出した原因は、今ごろ隣の部屋で支度をしていることだろう。まさか実在するとも思っていなかった兄――だという男に対する思いが、部屋に満ちていく気がする。
こんなにも硬いベッドで姉が眠れたのだろうか。あんなに味気のない食事を、姉が良しとしたのだろうか。掃除の行き届かない小さな部屋で、姉が過ごしたというのだろうか。
彼の語るアルティアという女 は、本当にルネリアの姉なのか。
きっとそうなのだろう。
彼が――何も言わないのだから。
誰よりも知っていたはずの彼女を、見知らぬ男に教えられることが、ひどく不愉快だった。それに納得してしまう己への不甲斐なさで、泣き声のような息が漏れる。
――いっそ帰ってしまおうか。
今からならまだ間に合う。来た道を駆けて、自領に飛び込むのだ。自分を探しているであろう父にどんな折檻をされるか分からないが、兄を名乗る男のことを話せば、きっと手を打ってくれるに違いない。
きっと。
このままオルテールについていくよりは、そちらの方がいいはずだ。
のろのろとベッドから立ち上がる。嫌でも脳裏をよぎる顔に、頭がいっそう重くなった気がした。
手袋を手に取って――。
左手にはめてから、もう片方をどうすることもできないと気付く。
動かない指先に力をこめた。握ったつもりの拳から、白い布が力なく滑り落ちる。しばらくその場で悪戦苦闘して、指の一本も通せずに立ち尽くす。
つくづく。
――一人では何もできないのだ。
痛む頭をこらえるように、強く目を閉じた。とっくに萎えてしまった帰途への思いを引きずるまま、髪を括ろうとして、それすらもできないことに深く溜息を吐く。
結局、自分でどうにかできたのは服だけである。髪留めと片方の手袋を持って、彼女は重い扉をゆるゆると開いた。
その先にある人影が振り向く。
「おはよう、ルネリア」
「――おはようございます」
俯いて声を返す。
口許をいびつに持ち上げたオルテールは、フードを目深に被ったまま、わずかに咎めるような表情をしてみせた。赤い瞳を見上げるのが恐ろしくて、ルネリアは曖昧な視線を薄い唇に投げかける。
「ほら、フードは被らなくちゃいけないよ」
近づく手がフードにかかる前に――。
右手に握るものを差し出した。男の口が驚愕を湛えるのに耐えきれず、視線を床に落とす。
頭の奥を押し潰されているような気分がする。振り絞る声が震えるのは、どうしても抑えきれなかった。
「手袋と、髪を――」
その先は声にならなかった。
合点がいったとばかりに大きく頷いたオルテールが、ルネリアの背後へ手を伸ばす。開いた扉の先を振り向く彼女の背を押して、部屋の中から目を逸らすまま、彼は無言で首を傾げた。
――肯首にためらう。
自身の緑の髪に触れた。彼がこの髪を懸念していることを理解できないわけではないが、一晩とはいえ自室だった場所に迎え入れられる相手ではない。とはいえ自ら頼んだ仕事だ。入室を拒むのもはばかられた。
結局――。
ルネリアは、項垂れるようにして頷いた。
扉を閉める手に鬱屈感が増す。二人きりの室内が、妙に重い空気を孕んでいた。
「ごめんなさい」
「謝ることじゃないだろう」
手際よく括られていく髪が恨めしい。慣れた手つきは、もしかしたら姉を――と思ってから、そういえば彼も髪が長いのだと思い出した。
部屋の内に意識を閉じ込めていたくなくて、ふと窓を見る。
差し込む陽光は明るい。今日も天気は上々のようだ。続くであろう旅路に、問題はなさそうだった。
古びた窓枠からのぞく青空を、飛び立つ飛蛇が一瞬だけ遮る。翼から落ちた羽の行方を追って、視線は再び床に落ちた。
彼女の心を遮るように、呑気な声がする。
「次からは部屋に入っても構わないか? ノックはするから」
頷くほかに選択肢がないことを、まるで知らないかのような言い様だった。
唇を引き結んだまま、力なく首を縦に振る。どうしたってルネリアは一人ではおれない。動かない左手に不自由しない生活は、誰かがいなくては成立しないのだ。
何もできない。
重くのしかかる言葉を喉の奥にしまう間に、オルテールの手は彼女の髪を離れた。
力なく目を遣った鏡に、神経質なまでに左右対称な結び目が見える。後ろで満足げに息をつく男を思うと、それに触れることははばかられた。
白い手袋が左手を通る。同じ色の布が彼の手を覆っているのが耐えがたくて、その手が離れるより先に身を翻す。
フードで目を隠した。彼女の様子を気に留める風もなく追い越していく長身に心がこごる。
再び開かれたドアの向こうに――足が止まる。
振り返る気配がするのが恐ろしい。静寂の断絶が目の前に満ちているのに、どうして彼はこうも平気な顔でいられるのかを疑った。
どこへ行くんですか――。
問うのは憚られた。聞いてしまえば、もう逃れられないような気がしているのだ。
――結局、口を開くことはできなかった。
階段を降りる間、幾度もその背を押す空想をする。
彼は驚くほどルネリアを警戒していない。無防備に背中を晒す今、彼女がその背を片手で押してやれば、その体はすぐにでも転がり落ちるだろう。そうなれば、護衛を斬り裂いた剣も、それを振るう力も、役には立たない。
それだけで、兄を名乗る男は動かなくなる。その生殺与奪は、今この瞬間、ルネリアの手にある。
動く右手で背を押すのだ。驚いた顔をするだろう。形のいい唇が声を発する前に、細身の長身が地面に叩きつけられて――。
緑の髪がフードから零れる。あの護衛と同じように翼を得て、オルテールの命は竜の元へ昇る。悲鳴が溢れる。ルネリアは家に帰れる。
血だまりに伏した肉塊を想像する。
伏した力ない四肢。腰から外れて落ちた剣。ずれた鞘。血を吸って赤黒くなる白い手袋。意味を失くしたフード。零れた緑の髪。姉によく似た面立ち。その隙間から。
赤い。
赤い――瞳が。
「お前は劇を見るか?」
全身が凍り付く。
いつの間にか階段を降りきっていたようだった。慣れた動きで支払いを終え、宿の扉の前に立った彼が、口許をいびつに持ち上げているのが見える。
――帰る機会を失ってしまった。
やわやわと緩んでいく肩とは裏腹に、心の一部はまだ凍ったような底冷えを残していた。破裂しかけた心臓に空気を回してから、彼女はようやく彼の言葉を咀嚼する。
朝の光が眩しい。緩やかに起床を始める街から、彼が出ていく気配はない。
何をするつもりなのか、聞く勇気はなかった。
代わりに答えを絞り出す。
「少しだけ。オルテールさんは?」
「私は好きだよ。特に喜劇が。脚本を読んだことしかないがね」
言いながら、進む足が店に向いた。そういえばパンドルフィーニ領はすぐ抜け出したのだったな――と、今更に思い出す。
この先の旅にも準備が必要なのだろうということは分かる。せめて何か一つくらいできるのだと言いたくても、脳裏をよぎるのは古典の出だしと絵の描き方ばかりだった。
ルネリアが何かを思いつく前に――。
「片割れと一緒に見てみたかったんだが、流石に旅人ふぜいは劇場には入れてもらえないからな」
呑気な陽光に照らされて、オルテールは笑声を立てた。滲むかすかな自虐の音が、悪意なく鼓膜に突き刺さる。
唇を引き結んだ。力のこもった指先が、行き場を失くしてフードを握る。
息を吸ってみせれば――。
思ったより大きく、喉が鳴った。
「お姉ちゃんは、悲劇が好きなんです」
姉の脚本はいつでも悲劇的だった。
幸福な未来などまるでないかのように語る。その柔らかな幻想が、刃のように突き立つのを、ルネリアは心地いい思いで聞いていたのだ。
彼女は決して――。
喜劇に傷つけられることを望んではいない。
そのはずだ。
「――だから、喜劇は、あんまり分からないと思います」
低く唸った声へと返る、落胆に似た溜息に、ルネリアはただそれだけを確信していた。
軋む体を持ち上げる。体中の倦怠感をごまかすように背を伸ばすと、骨に溜まった不快感がいくらかましになった気がした。
――嫌な夢を見た。
額を押さえる。湿った感覚が掌に纏わりつくのが嫌で、知らず溜息を吐く。
姉があんなことを言い出した原因は、今ごろ隣の部屋で支度をしていることだろう。まさか実在するとも思っていなかった兄――だという男に対する思いが、部屋に満ちていく気がする。
こんなにも硬いベッドで姉が眠れたのだろうか。あんなに味気のない食事を、姉が良しとしたのだろうか。掃除の行き届かない小さな部屋で、姉が過ごしたというのだろうか。
彼の語る
きっとそうなのだろう。
彼が――何も言わないのだから。
誰よりも知っていたはずの彼女を、見知らぬ男に教えられることが、ひどく不愉快だった。それに納得してしまう己への不甲斐なさで、泣き声のような息が漏れる。
――いっそ帰ってしまおうか。
今からならまだ間に合う。来た道を駆けて、自領に飛び込むのだ。自分を探しているであろう父にどんな折檻をされるか分からないが、兄を名乗る男のことを話せば、きっと手を打ってくれるに違いない。
きっと。
このままオルテールについていくよりは、そちらの方がいいはずだ。
のろのろとベッドから立ち上がる。嫌でも脳裏をよぎる顔に、頭がいっそう重くなった気がした。
手袋を手に取って――。
左手にはめてから、もう片方をどうすることもできないと気付く。
動かない指先に力をこめた。握ったつもりの拳から、白い布が力なく滑り落ちる。しばらくその場で悪戦苦闘して、指の一本も通せずに立ち尽くす。
つくづく。
――一人では何もできないのだ。
痛む頭をこらえるように、強く目を閉じた。とっくに萎えてしまった帰途への思いを引きずるまま、髪を括ろうとして、それすらもできないことに深く溜息を吐く。
結局、自分でどうにかできたのは服だけである。髪留めと片方の手袋を持って、彼女は重い扉をゆるゆると開いた。
その先にある人影が振り向く。
「おはよう、ルネリア」
「――おはようございます」
俯いて声を返す。
口許をいびつに持ち上げたオルテールは、フードを目深に被ったまま、わずかに咎めるような表情をしてみせた。赤い瞳を見上げるのが恐ろしくて、ルネリアは曖昧な視線を薄い唇に投げかける。
「ほら、フードは被らなくちゃいけないよ」
近づく手がフードにかかる前に――。
右手に握るものを差し出した。男の口が驚愕を湛えるのに耐えきれず、視線を床に落とす。
頭の奥を押し潰されているような気分がする。振り絞る声が震えるのは、どうしても抑えきれなかった。
「手袋と、髪を――」
その先は声にならなかった。
合点がいったとばかりに大きく頷いたオルテールが、ルネリアの背後へ手を伸ばす。開いた扉の先を振り向く彼女の背を押して、部屋の中から目を逸らすまま、彼は無言で首を傾げた。
――肯首にためらう。
自身の緑の髪に触れた。彼がこの髪を懸念していることを理解できないわけではないが、一晩とはいえ自室だった場所に迎え入れられる相手ではない。とはいえ自ら頼んだ仕事だ。入室を拒むのもはばかられた。
結局――。
ルネリアは、項垂れるようにして頷いた。
扉を閉める手に鬱屈感が増す。二人きりの室内が、妙に重い空気を孕んでいた。
「ごめんなさい」
「謝ることじゃないだろう」
手際よく括られていく髪が恨めしい。慣れた手つきは、もしかしたら姉を――と思ってから、そういえば彼も髪が長いのだと思い出した。
部屋の内に意識を閉じ込めていたくなくて、ふと窓を見る。
差し込む陽光は明るい。今日も天気は上々のようだ。続くであろう旅路に、問題はなさそうだった。
古びた窓枠からのぞく青空を、飛び立つ飛蛇が一瞬だけ遮る。翼から落ちた羽の行方を追って、視線は再び床に落ちた。
彼女の心を遮るように、呑気な声がする。
「次からは部屋に入っても構わないか? ノックはするから」
頷くほかに選択肢がないことを、まるで知らないかのような言い様だった。
唇を引き結んだまま、力なく首を縦に振る。どうしたってルネリアは一人ではおれない。動かない左手に不自由しない生活は、誰かがいなくては成立しないのだ。
何もできない。
重くのしかかる言葉を喉の奥にしまう間に、オルテールの手は彼女の髪を離れた。
力なく目を遣った鏡に、神経質なまでに左右対称な結び目が見える。後ろで満足げに息をつく男を思うと、それに触れることははばかられた。
白い手袋が左手を通る。同じ色の布が彼の手を覆っているのが耐えがたくて、その手が離れるより先に身を翻す。
フードで目を隠した。彼女の様子を気に留める風もなく追い越していく長身に心がこごる。
再び開かれたドアの向こうに――足が止まる。
振り返る気配がするのが恐ろしい。静寂の断絶が目の前に満ちているのに、どうして彼はこうも平気な顔でいられるのかを疑った。
どこへ行くんですか――。
問うのは憚られた。聞いてしまえば、もう逃れられないような気がしているのだ。
――結局、口を開くことはできなかった。
階段を降りる間、幾度もその背を押す空想をする。
彼は驚くほどルネリアを警戒していない。無防備に背中を晒す今、彼女がその背を片手で押してやれば、その体はすぐにでも転がり落ちるだろう。そうなれば、護衛を斬り裂いた剣も、それを振るう力も、役には立たない。
それだけで、兄を名乗る男は動かなくなる。その生殺与奪は、今この瞬間、ルネリアの手にある。
動く右手で背を押すのだ。驚いた顔をするだろう。形のいい唇が声を発する前に、細身の長身が地面に叩きつけられて――。
緑の髪がフードから零れる。あの護衛と同じように翼を得て、オルテールの命は竜の元へ昇る。悲鳴が溢れる。ルネリアは家に帰れる。
血だまりに伏した肉塊を想像する。
伏した力ない四肢。腰から外れて落ちた剣。ずれた鞘。血を吸って赤黒くなる白い手袋。意味を失くしたフード。零れた緑の髪。姉によく似た面立ち。その隙間から。
赤い。
赤い――瞳が。
「お前は劇を見るか?」
全身が凍り付く。
いつの間にか階段を降りきっていたようだった。慣れた動きで支払いを終え、宿の扉の前に立った彼が、口許をいびつに持ち上げているのが見える。
――帰る機会を失ってしまった。
やわやわと緩んでいく肩とは裏腹に、心の一部はまだ凍ったような底冷えを残していた。破裂しかけた心臓に空気を回してから、彼女はようやく彼の言葉を咀嚼する。
朝の光が眩しい。緩やかに起床を始める街から、彼が出ていく気配はない。
何をするつもりなのか、聞く勇気はなかった。
代わりに答えを絞り出す。
「少しだけ。オルテールさんは?」
「私は好きだよ。特に喜劇が。脚本を読んだことしかないがね」
言いながら、進む足が店に向いた。そういえばパンドルフィーニ領はすぐ抜け出したのだったな――と、今更に思い出す。
この先の旅にも準備が必要なのだろうということは分かる。せめて何か一つくらいできるのだと言いたくても、脳裏をよぎるのは古典の出だしと絵の描き方ばかりだった。
ルネリアが何かを思いつく前に――。
「片割れと一緒に見てみたかったんだが、流石に旅人ふぜいは劇場には入れてもらえないからな」
呑気な陽光に照らされて、オルテールは笑声を立てた。滲むかすかな自虐の音が、悪意なく鼓膜に突き刺さる。
唇を引き結んだ。力のこもった指先が、行き場を失くしてフードを握る。
息を吸ってみせれば――。
思ったより大きく、喉が鳴った。
「お姉ちゃんは、悲劇が好きなんです」
姉の脚本はいつでも悲劇的だった。
幸福な未来などまるでないかのように語る。その柔らかな幻想が、刃のように突き立つのを、ルネリアは心地いい思いで聞いていたのだ。
彼女は決して――。
喜劇に傷つけられることを望んではいない。
そのはずだ。
「――だから、喜劇は、あんまり分からないと思います」
低く唸った声へと返る、落胆に似た溜息に、ルネリアはただそれだけを確信していた。