21.竜と道程

文字数 2,635文字

 ノックの音で意識が浮上して、自分が眠っていたのだと気付いた。
 姉が握ってくれていたはずの手が冴え冴えとした空気を掴む。二、三度の瞬きののちに、ルネリアはようやく現実を認識した。
 ゆるゆると体を起こす。焦点の定まらない視界があくびで滲んだ。
 それから――。
 声の主が心配しないうちに、ベッドを降りることにした。
「お姉ちゃん?」
 甘えたような声を、小さく笑うのが聞こえる。ルネリアの指先がドアノブを掴むのと、その振動を察知した姉が扉を押したのと――どちらが先だったか分からないうちに、二人分の影がかかる。
「おはよう。よく眠れたみたいね」
 手早く扉を閉じた彼女の、フードの下から覗く赤い瞳が、ルネリアを覗き込むようにして見遣った。
 ――外では名前を呼んじゃ駄目よ。私も呼ばないから。
 アルティアがそう言ったのは、昨晩、眠りにつく少し前のことだ。
 二人の名は――。
 特別ではないが、ありふれてもいない。
 まして、魔導四家として多少なり影響力のあるパンドルフィーニの娘の名だ。存在が秘されたオルテールはともかく、名の知れたアルティアとルネリアが互いに呼び合っていては危険度が高い――。
 つらつらと並べ立てる姉の声に、ルネリアは一も二もなく頷いた。
 考えてみれば、至極真っ当な意見だった。情報がどこまで行き届いているのかは分からないが、パンドルフィーニの家が内々に処理しようとしていたとしても、馬車が慌ただしく行き交っているのは事実だ。
 家に関して何かがあったのだと、領民が知るには充分だろう。
 ルネリアとて、アルティアに危険が及ぶようなことはしたくなかった。この一年間、ずっとその存在を探し続けてきたのだから、無闇に離れては今度こそおかしくなってしまう。
 穏やかな微笑を描いたままの姉は、そっとルネリアの手を握った。
「さ、髪を結びましょう」
「うん」
 アルティアに髪を触ってもらえる――。
 ひどく喜ばしいことに感じられた。何十年と待ち望んだ瞬間のような気すらした。はやる気持ちを抑えることもせず手を引けば、姉らしい小さな笑い声が聞こえる。
 椅子に腰かけて、白い手袋が視界の端をよぎるのを待つ。望み通りに髪を撫でた指先が、ふと動きを止めた。
「お兄様は入ってきちゃ駄目よ」
 ――扉の向こうで、気配が身じろぎしたような気がした。
 思わずそちらに視線を遣る。途端に姉の優しい手が頭を挟んで、ゆっくりと前を剥かせる。
 ゆっくりと視界が動く。粗末な宿の埃っぽい部屋が、瞬きの合間に目に入った。
「ほら、結うんでしょ」
 そう言われると、頷くしかない。
 しばしの沈黙がある。その間にも、アルティアの指先が手際よく髪を梳いて、頭皮を柔らかくこする。
 くすぐったいような、暖かいような感触を楽しんでいるうちに――。
 ふと、ルネリアの耳朶をくすぐる声がある。
「これまでは、どうしてたの?」
「オルテールさんがやってくれたの」
「あら」
 そこで言葉を切って、さもおかしそうに笑った。
「駄目よ、お兄様。淑女(レディ)の部屋に入っちゃ」
 ――扉の奥に声が投げられるたびに、ルネリアの肩は強ばる。
 彼女の知るオルテールという人物は、演技(、、)のさなかにあった。そのことは昨日聞いている。
 ならば本当の彼とはどういう人間なのか――彼女には知りようがない。
 アルティアが軽い声で彼を呼び立て、あまつさえ咎めるように声を上げるのが、信じられない気分だった。
 しばらくの沈黙があって、低い声が戻ってくる。
「――悪かった」
「いいえ!」
 思うよりも頓狂な声になった。
 大きく体を動かしたせいで、緑の髪がアルティアの手を滑り落ちる。彼女の瞳が瞬くのを横目に、ルネリアは慌てて首を横に振った。
「わた、わたしが縛れないから――だったんですよね。ねえ、お姉ちゃん」
 そう――。
 弁解しなくては、何か悪いことになるような予感が背筋を伝っていた。オルテールを激高させることだけは避けなくてはならないと思った。
 実際に、彼が髪を結んでくれたのだ。ルネリアは、彼がいなければ満足に食事をとることもできなかっただろう。そのことに恩を感じないわけではなかったが、もっと強い衝動が内に燻っていた。
 ――オルテールが自分たちを傷付けるかもしれない。
 ――まるで父のように。
 心臓が張り裂けんばかりに脈打った。荒くなる呼吸を整えるように、姉の方を見る。瞬いた彼女の赤い瞳が、零れ落ちんばかりに見開かれていた。
 そして。
 オルテールが口を開かないうちに、ルネリアの言葉を好意的に解釈したらしいアルティアが、声を立てて笑う。
「冗談よ。そんなに慌てないの」
「で、でも」
 言っている間に、姉の手がルネリアの髪をすべる。手早くまとめられた緑にフードを被せられると、続けるはずだった言葉が脳裏に霧散した。
 声を出しあぐねているうちに――アルティアは、するりと扉の前に歩み寄る。
「じゃあ、行きましょう」
 扉が開ききるまでの間――。
 ルネリアは息を止めて、父の怒鳴り声を反芻した。
 似たような声が降ってくることを覚悟して、長身と対面する。オルテールの視線がじっと注がれる間、彼女は身じろぎも忘れた。
 数秒の後に、彼が身をひるがえす。
「行くって」
 姉の声は、まるで彼の言葉を代弁するようだった。右手を引かれるまま、前を行く背を見る。
 どういう人間なのだか、まるで分からない。二人で歩いていたときのような気安さはないが、父ほど短気な性分ではないようだ。
 宿を出てからも、こちらを気にするように振り返りながら、オルテールは一歩前を歩いた。
 沈黙に耐えきれなくなって――ルネリアはアルティアの耳に唇を寄せる。
「ねえ、お姉ちゃん。どこに行くの?」
「東の方」
 囁くように応じる声がひどく強張っていた。声を失くす妹を一瞥して、フードの下の、形のいい唇が引き結ばれる。
「――この国を出るのよ。そうすれば、きっと三人で幸せに暮らせるわ」
 幸せに。
 虚を突かれたように感じた。思わず止まりそうになる足を、姉の手が引きずる。
「あんな家じゃ、いつか貴女は悪いことに使われる(、、、、)わ。そんなの嫌じゃない。私たち、お父様の玩具じゃないんだから――」
 その言葉に視線を逸らして、ルネリアはただ、空虚にも思える幸福のあり方を想起した。
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