0.蛇と箱庭
文字数 1,297文字
姉は優しい人だった。
細い指先が書きかけの脚本を捲る。白い手袋を頑なに外さない彼女に、その潔癖の理由を問うたことは、そういえば一度もなかった。
紙の擦れる音がする。姉の背から視線をそらさずに、わたしは廊下の気配を探る。たゆたう優しい沈黙を、意地悪い父母の使いが遮ってしまう前に、姉の部屋を出て行かなくてはいけない。
そうしなくては――。
姉がまた怒られてしまう。
きっと、わたしのことを疎む気持ちもあるのだろうに、姉は来訪を喜ぶ。唇に人差し指を当てて、まるで幼子に聞かせるように、いつもと同じ悪戯っぽい声を漏らす。
――静かにしてね。
わたしはいつも、扉を閉めて頷く。姉の空想が満ちた世界で、初めて深く息を吸う。
同じ家にいるわたしたちは、二人きりのときにしか家族になれない。
二人になったって、会話があるわけではない。町民の女の子がするような話は、わたしたちには何もない。だからいつも、姉は黙って本と向き合っていて、わたしはその背を見詰めている。
だからなのか――。
わたしには、姉をはっきりと思い浮かべることができない。
女性にしては背が高い方だった。整った目鼻立ちは人形のようだった。行く先々で人目を惹いた。大人しい見た目とは裏腹に、口が立つ人だった。
目を閉じたって、姿かたちはすぐに思い描けるのに――。
表情だけが曖昧に淀んで、見えなくなってしまう。
それでいつも、わたしは姉を振り向かせたくてたまらなくなる。どんなとりとめのない話でもいいから、彼女に語り掛けなくてはいけないような気がしてしまう。
何か言わなくては、このまま姉が消えてしまうという焦燥が、ずっと心の中で震えている。
けれど。
探せば探すほど、わたしの中には何もなくなって――。
結局、声を上げる前に、口は閉じてしまう。
本は捲られていく。残りのページは少なくなる。その指先を少しでも止めたいのに、とうとうと流れる竜の涙で作られたという時間の流れは、決して止まってはくれない。
恋の話ができればよかったろうか。なりたいものがあればよかったろうか。定期市で売られる宝石の話や、誰かの噂話を囁ければよかったのだろうか。そういう言葉で、市井の娘は竜の涙を止めているのだろうに。
そのどれも――わたしたちには知りようもないのだ。
何も思いつかないまま、沈黙は流れる。いつものように、わたしが部屋に戻ると言い出すまで、姉は穏やかにそこにいるだけだ。
だが、その日だけは違った。
紙の音が止む。椅子を引いて、姉がふと上体を逸らす。
緑の髪の隙間で、赤い瞳が凛と瞬く。
そのとき、彼女はどんな表情をしていたろう。相変わらずわたしには思い出せなくて、判然としないまま霞んだ顔が、勝手に笑顔で塗り替えられていく。
――ねえ、ルネリア。
穏やかな声だったはずだ。確かに唇を持ち上げていたはずだ。眉根を寄せたりなんか――きっと、していなかったはずだ。
その先の記憶ははっきりしている。
わたしを見詰めたまま、姉は首を傾げた。
――私にお兄様がいたって言ったら、信じてくれる?
細い指先が書きかけの脚本を捲る。白い手袋を頑なに外さない彼女に、その潔癖の理由を問うたことは、そういえば一度もなかった。
紙の擦れる音がする。姉の背から視線をそらさずに、わたしは廊下の気配を探る。たゆたう優しい沈黙を、意地悪い父母の使いが遮ってしまう前に、姉の部屋を出て行かなくてはいけない。
そうしなくては――。
姉がまた怒られてしまう。
きっと、わたしのことを疎む気持ちもあるのだろうに、姉は来訪を喜ぶ。唇に人差し指を当てて、まるで幼子に聞かせるように、いつもと同じ悪戯っぽい声を漏らす。
――静かにしてね。
わたしはいつも、扉を閉めて頷く。姉の空想が満ちた世界で、初めて深く息を吸う。
同じ家にいるわたしたちは、二人きりのときにしか家族になれない。
二人になったって、会話があるわけではない。町民の女の子がするような話は、わたしたちには何もない。だからいつも、姉は黙って本と向き合っていて、わたしはその背を見詰めている。
だからなのか――。
わたしには、姉をはっきりと思い浮かべることができない。
女性にしては背が高い方だった。整った目鼻立ちは人形のようだった。行く先々で人目を惹いた。大人しい見た目とは裏腹に、口が立つ人だった。
目を閉じたって、姿かたちはすぐに思い描けるのに――。
表情だけが曖昧に淀んで、見えなくなってしまう。
それでいつも、わたしは姉を振り向かせたくてたまらなくなる。どんなとりとめのない話でもいいから、彼女に語り掛けなくてはいけないような気がしてしまう。
何か言わなくては、このまま姉が消えてしまうという焦燥が、ずっと心の中で震えている。
けれど。
探せば探すほど、わたしの中には何もなくなって――。
結局、声を上げる前に、口は閉じてしまう。
本は捲られていく。残りのページは少なくなる。その指先を少しでも止めたいのに、とうとうと流れる竜の涙で作られたという時間の流れは、決して止まってはくれない。
恋の話ができればよかったろうか。なりたいものがあればよかったろうか。定期市で売られる宝石の話や、誰かの噂話を囁ければよかったのだろうか。そういう言葉で、市井の娘は竜の涙を止めているのだろうに。
そのどれも――わたしたちには知りようもないのだ。
何も思いつかないまま、沈黙は流れる。いつものように、わたしが部屋に戻ると言い出すまで、姉は穏やかにそこにいるだけだ。
だが、その日だけは違った。
紙の音が止む。椅子を引いて、姉がふと上体を逸らす。
緑の髪の隙間で、赤い瞳が凛と瞬く。
そのとき、彼女はどんな表情をしていたろう。相変わらずわたしには思い出せなくて、判然としないまま霞んだ顔が、勝手に笑顔で塗り替えられていく。
――ねえ、ルネリア。
穏やかな声だったはずだ。確かに唇を持ち上げていたはずだ。眉根を寄せたりなんか――きっと、していなかったはずだ。
その先の記憶ははっきりしている。
わたしを見詰めたまま、姉は首を傾げた。
――私にお兄様がいたって言ったら、信じてくれる?