19.竜と再会

文字数 4,835文字

 話し終えて、深く息を吐いた。
 座り込んだオルテールの表情は窺えない。長い話になるなら休みがてら聞こう――と、彼が提案したのは、姉がいるという宿場にごく近い木陰だった。かぶったままのフードが邪魔をして、軽く俯いた彼が何を考えているのか、ルネリアには推し量れない。
 それで、震える声を続ける。
「わたしの左腕に、制御できなかったお姉ちゃんの魔力が流れ込んだんだって聞きました。炎の術式だったから、腕が内側から焼けたんだって」
 左腕は使い物にならなくなった。見るのもおぞましい火傷痕は治らないと宣告されている。今でこそ軽く握ることのできる拳も、最初のうちは、動かそうとするだけで悲鳴を上げるほどだった。
 今でも、強く触れられると、あのときの痛みが戻ってくる。
 手袋越しの傷に指を這わせながら、ルネリアは俯いた。むき出しの感覚が布と擦れて、痺れたような感覚が伝ってくる。
「心臓に行かなかっただけで奇跡だって、お医者様は言ってました。でも、わたし――」
 姉の。
 姉の背中が。
 ――忘れられないのだ。
 そもそも、術式の前に不用意に飛び出したのはルネリアだ。姉が止めてくれなければ全身を焼かれていたかもしれないし、早く手を離してくれなければ死んでいたかもしれない。
 彼女の凜と伸びた背を丸めたのが、紛れもない自分なのだったら。
 息を吐いて目を上げる。
 身じろぎの一つもしない青年の姿が目に入った。地に投げかけたままの視線を窺うように、ルネリアはおずおずと問う。
「オルテールさん?」
「ああ、失礼。聞いてるよ。少し考え事をしていて――」
 返答はわずかに掠れていた。一つ呼吸をして、フードの下からルネリアを覗く瞳は、いつものように穏やかな色を湛えている。
「アルティアが死んだことになってるなら、あの――劇場の事件は、聞いてるだろう?」
 ゆっくりと頷く。
 ルネリアが知る姉の、全てが途切れた瞬間だ。空虚な澱を募らせるだけの日々の始まりだった。
 そうか――と掠れた声で頷いて、オルテールは己の左腕に触れた。
「アルティアは、あのときに左腕に傷を負っていてね」
 血の気が失せた。
 青年の指先が、手首から二の腕までを遡っている。姉が負ったという傷を示していることは嫌でもわかった。
 思わず体を傾けて、叫ぶように声を上げる。
「だ、大丈夫なんですか、お姉ちゃんは」
「もちろん。あいつは治癒魔術も使えるしね。ただ傷跡が残っていて」
「そんな――」
 暖かくて優しい手を思い出す。姉の美しい肌に、醜悪な傷がついたことが、信じられなかった。
「あの、オルテールさん、わたし」
 切り裂かれた瞬間の姉に思いを馳せながら、ともすれば震える唇で息を吐く。
 恐らく、自分と同等に――。
 否。
 それ以上に姉を知っているかもしれない彼に、訊きたいことがあったのだ。
「お姉ちゃんに、なんて言ったらいいですか」
 しばしの間があった。
 顎に右手を当てたままの、黙り込んだ彼の様子を窺おうと、ルネリアが身じろぎした瞬間に、息を吸う音がした。突然の音に凍り付いた少女に気づいた気配もなく、オルテールが小首を傾げる。
「私が決めることでは、ないのじゃないかな」
 それは。
 ――そうなのだろうが。
 答えを求めて声を上げることは、はばかられた。
 彼から明確な答えがなかったことで、ゆるゆると肩の力が抜ける。脱力というよりも安堵に近いそれに俯けば、オルテールが笑ったのが聞こえた。
「まあ、あいつはお前の元気な声さえ聞ければ、何を言ったって喜ぶよ。私と同じでね」
 頭を優しく叩かれる。持ち上げた瞳の先で、歩き出した彼の背に、いつの間にか高まっていた心音が落ち着くのを感じる。
 何かを考えるには――。
 用意された時間が短すぎた。歩き出した青年の歩幅は広い。ルネリアが姉との邂逅を想像するよりも早く、いつの間にか宿屋の前に立っている。
 のぞき見たオルテールの瞳は、何も言わずに微笑んだ。
 追い立てられるように階段を上る。彼がいつもの穏やかな声で、連れがいるんだ――と主人に告げているのが聞こえる。
 銅貨が机を叩く音より先に、ルネリアの足は階段を上りきっていた。
 並んだ扉を見回しているうちに、後方に立つ気配がある。彼女が声を上げる前に、部屋の位置を手短に告げたオルテールの手が、優しく背を押した。
 それで。
 ――引くわけに行かなくなる。
 右側。手前から四つ目の扉。控えめにノックをすれば、待ちかねたように走り寄る足音があった。
 鍵が開いた扉を――。
 後方から、白い手袋が押し開ける。呼吸を整える間さえ与えられない。思わず背の高い青年を振り返れば、彼はルネリアを押しやるようにして、足早に扉をくぐった。
 扉が閉まって。
 ルネリアは。
 部屋に立つ少女を、まともに見据えた。
 ローブをまとっていない。長く伸びた緑の髪を、片側で括っている。左右対称(シンメトリ)を嫌う性質も変わっていない。垂れ目がちの赤い瞳が大きく見開かれる。呼び起こされる記憶と同じ、気丈な眉が、喜色を湛えるのを見た。
 ルネリアの知る――。
 美しい姉が、そこに立っている。
「ルネリア!」
 歓声と共に体に走った衝撃で、抱きつかれたのだと知った。脱げたフードから、ルネリアの緑の髪がこぼれた。記憶の中から掠れていた声が、耳元でルネリアをいたわる。
 姉のぬくもりが、どこかで虚ろだった心に満ちる。おずおずと抱きしめ返した腕に応じるように、アルティアの手にも力がこもった。
「無事で良かった――本当に心配してたのよ。大丈夫? 怪我はない? お兄様に限って、貴女に怪我を負わせたりしないでしょうけど」
 手紙に書かれていたことと、同じようなことを訊く。それが愛おしくて、発するべき声が情けなく震えた。
「お姉ちゃん、わたし」
「もう、泣かないの」
 苦笑と共に体を離したアルティアが、手袋越しに頬を拭う。ひどく優しい手つきが、兄を名乗る彼のものとよく似ている。
 滲む視界にも、赤い瞳だけははっきりと見えた。不快安堵と歓喜に満ちたそれが、ルネリアの情けない顔を映して、穏やかに笑った。
「心配かけてごめんなさい。会えて良かったわ」
 頭を撫でる間に、アルティアの視線はルネリアを飛び越したようだった。続く声は、妹に向けられたものではない。
 振り返った先で――。
 オルテールは、フードを外すこともせずに、立ち尽くしたままだった。
「お兄様も、ありがとう。ここまで大変だったでしょう」
「ああ――」
「部屋は取ってあるわ。左隣。戻って休んで頂戴」
 聞くなり頷いた青年は、一瞥すらくれずに踵を返した。
 閉じた扉の先を見つめる。
 彼は――。
 大げさに喜ぶものだと、勝手に思っていたのだが。
 ルネリアの内心を見透かしたかのように、アルティアが笑った。白い手袋に覆われた指先が、妹の頬を絡め取る。
「せっかく兄妹揃ったところだけど、許してあげて。お兄様、人がものすごく苦手なの」
 それは。
 思わず扉と姉を交互に見る。扉の向こうに去って行った背は応じてはくれない。かといって、目の前にある姉の目は、冗談を言っているふうにも見えなかった。
 慌てて抗議の声を上げる。
「で、でも、わたしと一緒にいたときは、あんなに喋ってたのに」
「あら、うまくやってたのね」
 至極意外そうに――。
 アルティアは首を傾げてみせた。
「お兄様があまりにも喋れないから、私の真似をするように言ったのよ」
 そこまでできるとは思ってなかったけれど。
 付け加えて、アルティアは押し殺した笑いを漏らした。
 今度はルネリアが首を傾げる番である。
 オルテールの言動は、思い返してみる限り、確かに姉の面影を孕んでいた。面立ちはもちろん、言い回しの端々にアルティアを感じたのは確かだ。
 けれど。
 真似をしていた――というほど、アルティアを演じていたようには思えないのだが。
 それとも、彼から見るアルティアとは、ああいう人間なのだろうか。
 首をひねったルネリアに気づく様子はなく、姉はひどく楽しそうに笑った。
「それにしても、あんなになるなんて、よっぽど張り切ってたのね。しばらくはあんまり喋れないと思うけど、許してあげて」
 おずおずと頷く。
 喋らない彼というのとは接したことがないが、やっていける確信があった。間にアルティアの存在があるということが、ルネリアの中の曖昧な安心感を強固に覆って、確信に変えてくれる。
 指先でルネリアの髪をもてあそびながら、安堵の源は上機嫌に問う。
「旅で不便はなかった? 慣れなかったでしょう」
「うん、あんまり――オルテールさんが、何でもやってくれたから」
 思い返せば使用人のようだったと思う。ルネリアに何の不便もなかったのは、ひとえに彼が全てを請け負っていたからだ。
 テントの中は寝づらかったが、それでも休息はとれた。朝まで火を見張っていた彼が、その間に何をしていたのか、ルネリアは知らない。彼女の仕事は、火を起こすのが苦手な彼の代わりに、術式を扱うくらいだった。
 扉を一瞥したルネリアを覗き込んで、アルティアが大きく目を見開いたのが見えた。
「お兄様って、呼んであげてなかったのね」
「まだ、実感がなくて」
 事実だった。
 こうして諸刃のような顔立ちを前にしても、彼がアルティアの片割れであり、ルネリアの兄である事実を確信することができない。
 ここまで守られ続け、約束が果たされても――。
 彼を兄と認めることは難しかった。
「そうね。ルネリアは、今まで会ったことがなかったんだものね」
 それ以上の言及はない。
 曖昧に笑ったアルティアは、すぐに表情を塗り替えた。ルネリアの旅路についてしきりに尋ね、とつとつと話す彼女に相づちを打つ。
 オルテールに連れ出されたときのこと。
 パンの買い方がわからなかったこと。
 結局オルテールに任せたこと。
 魔術を褒められたこと。
 獣の肉があまり口に合わないこと――。
 すっかりと日が暮れて、話がようやく直近の出来事にさしかかったところで、ルネリアは言葉を切った。
 あの――使いのことを話すのが、ひどく恐ろしかった。そのことを言ってしまえば、アルティアの表情が歪んでしまうような気がしてならなかったのだ。
 それで、笑顔のままの姉に向き直る。
「お姉ちゃん、あのね――」
 アルティアの瞳は、まっすぐにルネリアを見ている。小首を傾げた面立ちは、やはりぞっとするほど美しい。正面から見据えると、彼女の優しげな表情が、諸刃の美しさにはひどく不釣り合いに見える。
 悟られないように唾を飲んだ。発するべき言葉が見当たらない。ただ呪いのような話題から逃れたい一心で、ルネリアは記憶の海を探る。
 一つだけ。
 なりふり構わず拾い上げた声を、そのまま吐き出した。
「わたしが寝るまで、子守歌、歌ってほしいな」
 一度だけ聞いたことのある歌声が、脳裏を掠めて消えていく。口にすれば無性に聞きたくなった。
 呆気にとられた表情のアルティアが――。
 吹き出して笑い出すのに、時間はかからなかった。
 そこに至って、ルネリアはようやく、自分の要求があまりに子供じみたものだと気づいた。顔中に集まる熱で視線が泳ぐ。
 ひとしきり笑い終えた姉は、赤く染まった妹の顔にもう一度笑みをこぼして、その頭を撫でた。
「子供に戻っちゃったのかしら?」
「まだ子供だもん」
「十五は過ぎたでしょ。淑女にならなくちゃ」
 苦し紛れに絞り出した言い訳もかわされ、ルネリアはとうとう逃げ場を失った。うめき声を上げるだけとなった彼女を優しく抱きしめて、アルティアは耳元に囁いた。
「でも、いいわ。貴女が寝るまで、歌ってあげる――」
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