7.竜と狼狽

文字数 3,263文字

 男の背に隠れるように、村への入り口をくぐる。
 土と草ばかりの中で、ようやく現れた集落である。傾きかけた陽光の中を行き交う人々も、パンドルフィーニ領に比べればまばらだ。畑の中で小麦が穂を垂れようとしているのが、石畳ばかりを眺めて育ったルネリアの目には、ひどく新鮮に映った。確かこういうのを牧歌的というのだな――と、姉から教わった言葉を思い出す。
 自警団と思しき見張り番は、彼らをただの旅人として、ごく無関心に歓迎した。
「剣だけ、確認させていただいても?」
「ああ――構わないよ」
 鋭利な剣をまじまじと見る視線が、己のことを責めているような気がして、ルネリアは思わずフードを握った。男性としても背の高いオルテールの影に小さな自分が隠れると、刺さる針が和らぐような気がする。
 ――彼女の不安とは裏腹に、自警団の青年は無愛想に剣を返した。
 自身の得物を軽く握って、オルテールはごくにこやかな声を上げる。
「魔物を斬ったばかりで、血なまぐさくてすまないね。村内では振るわないよ」
 ――などと軽妙に吐き出される嘘に、震えるのはルネリアの方だった。
 息と声を失ったきりの彼女に、怪訝そうな青年の眼差しが刺さる。庇うようにして前に出た兄を名乗る男の方は、妹は人見知りなんだ――と、やはりいささかも揺らがない声で嘯いた。
 それきり追及は止んだ。実に簡単な侵入に、息を整えたルネリアが男を見る。
「これだけなんですね」
「手入れをしているだけで、剣の造り自体はよくある代物だからな。それに、訳ありの旅人なんか珍しいものじゃない」
 訳ありの。
 剣を持って、家を持たずにさまよう旅人が胸に秘める理由は、ルネリアには想像がつかない。
 何しろ、前を歩くオルテールの事情にさえ思い至れない。
 俯きがちに後方を行く。詰めたままの距離を今更離すのも不安だが、振り返りもしない背についていくのも恐ろしい。逡巡ののち、伸ばした右手は控えめにローブを引いた。
 振り返る男の目は見えない。神経質に被ったフードの底で、無言のうちに向けられた疑問に、ルネリアは声を振り絞った。
「――お姉ちゃんは、どこにいるんですか?」
「本当にあいつが好きだな」
 震える声に軽い笑声が返った。黙り込んで足を止める彼女に一つ唸って、オルテールの声音は僅かに真剣みを取り戻す。
「もうしばらく歩かなくちゃならないよ。今日は、ここらで休んだ方がいいだろうがね」
 瞳の色は窺えないまでも、彼がルネリアの足を一瞥したのはわかる。声音に揺らぐのは拙い心配だ。
 ――まだ大丈夫です。
 強気を紡ごうとする唇に反して、慣れない道を歩いた足は僅かに震えていた。俯いたルネリアの頭へ、穏やかな声が降る。
「宿を取ってくるよ」
 視界の端で、男の足が前を行くのが見えた。慌てて上げた声が、思いの外頓狂に調子を外す。
「お部屋は、その――」
「安心しておくれ。年頃の婦女子と同じ部屋じゃあ、私の方が気まずいよ」
 ――苦笑するような声は、案外にも少年めいた色を孕んでいた。
 それで、彼が姉と同じ十八の青年であると思い出す。彼の言葉が正しければ――と疑う思いは、その恥じるような動きが掻き消した。
 ルネリアの紫の瞳を覗き込んで、オルテールはおもむろに懐へ手を伸ばす。
 身構える彼女の手へ――。
 銀貨を幾ばくか握らせ、彼は白い手袋を自身の唇へ当てた。
「夕食代だ。好きなものを買っておいで。すまないが、私の分も頼む」
「えっと、何がいいですか」
「お前と揃いで結構。好き嫌いはないよ」
 言い残して消えていく背を見詰める。
 はっきりとしているようでどこか覚束ない足取りは、見ようによっては頼りなくも思える。それでも、彼の剣の腕が確かなのは、まざまざと見せつけられたばかりだ。
 天に送られた護衛と血煙を思い出して、思わず身の毛がよだった。こびりついた光景を払うように頭を振る。
 ルネリアが――。
 今のところ彼から離れずにいるのは、ルネリアに対する害意がないのが嫌というほどわかっているからだ。あれほどまで人を斬ることに躊躇のない相手である。無造作に扱う意志が少しでもあるなら、あの剣はたやすく彼女に向けられているだろう。
 それに、姉の元へ案内してくれるというのも、恐らくは本心であると思っている。
 彼女を逃したくないのなら、こうも易々と離れていくはずがない。まるで、姉という言葉がルネリアを強く呪縛することを知っているようなそぶりだ。彼女が部屋に押し込められて以来、ルネリアが彼女の元を訪れるようになったことは、屋敷の中でもほとんど誰も知らないはずだった。
 パンドルフィーニの血を引いているのも、姉と親しいのも、術陣と詠唱を扱えることから考えて事実だ。兄であるというのは――受け入れがたいが。
 ともかく――姉との再会と天秤にかけたとき、彼の脅威は傾くほどの重さにならないと判断した。
 それでも、いたずらに刺激したい相手ではない。握らされた幾ばくかの銀貨(コイン)を手に、頼まれた買い物を済ませるべく歩き出す。
 ――いくらか減退した食欲を取り戻すのに、そう時間は要らなかった。
 ふと香ばしいにおいがした。釣られるように人波を歩いて初めて、それがパンの焼けるにおいだと知る。
 彼は好き嫌いはないと言ったが、それにしても口に入れたくないものはあろう。それに気兼ねするくらいなら、選ぶのはパンにした方がいい。
 そう思って店を覗くが。
「――白いのは?」
 思わず零れた声に口を塞ぐ。幸いにして、背を向けた職人には届かなかったようだった。
 並んでいるのはパンと思しきものだが、彼女はそのどれもに見覚えがない。彼女がよく知っているのは、白くてふんわりとした断面のものである。
 見るからに硬さを孕んだパンたちを見詰めていても、打開策は思い浮かばない。そもそも、どう声を掛けたら売ってもらえるのかも、彼女には分からないのである。
 まごまごと周囲を見渡しているうちに――。
「何にしたんだ?」
 後方からの声で肩を跳ね上げる。振り返った先で、男が唇を持ち上げたのが見えた。
「えっと、それが、その」
 どう言ったものか。
 視線を中空にさまよわせた。一人で買い物もできないことが、ひどく恥ずかしいことであることは、漠然と感じている。
 それでも、できないものはできない。買い物の仕方など教養の中にはなかったのだ。
 結局、恥じ入るように小さく声を上げるほかになかった。
「――どうすればいいのか、分からなくて」
 顔に熱が集まる。雇ったばかりの使用人にできることすら知らない娘だと思われたくなかったというのに、やりようが思い浮かぶことはなかった。
 俯くルネリアと職人の背を緩やかに行き来した赤い瞳は、ようやく合点したような声を上げた。
「そうだな。失念していたよ。すまなかったね」
「その、ごめんなさい」
「気にすることじゃない。嫌いなものはあるか?」
 返ってきたのは、思うより優しい言葉だ。
 それが余計に波立てるようで、ルネリアは奥歯を噛み締めて首を横に振った。彼女の様子に気付く風もなく、オルテールが踵を返すのが見える。
「それなら、私が用意しよう。アルティアが好きなものでよければ」
 ――姉の好きなものを知っているのか。
 心の表面を逆なでされるような思いがする。この知らないパンと、きっと知らないであろう他の材料からできあがる料理は、ルネリアが見たこともないものになるはずだ。
 靄のかかった瞳を隠して、ルネリアは男の後ろをついて歩いた。
 銀貨が銅貨に変わり、オルテールの手に紙袋が増える。次は自分で買えるようにとやりとりを聞きながら、ルネリアの心は別の場所にある。
 姉のことを――。
 あの広い家の中で、一番によく知っていた。きっと、世界で一番姉を知っているのは自分だと思っていたのだが。
 ――世界は、彼女が思うより広いようだった。
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