10.蛇と空想
文字数 1,721文字
――私にお兄様がいるって言ったら、信じてくれる?
そう笑った姉の顔を、夢に見た。
何も言えなかったのを覚えている。いつものように、姉はわたしが言葉を返すまで黙っていて、小さな部屋には重苦しい沈黙が満ちていた。
重苦しいと思っていたのは――わたしだけだったかもしれないけれど。
――ごめんなさい、急だったわね。
返答がないとみるや、姉は眉尻を下げて、穏やかに謝罪した。首を横に振って俯けば、続く声は朗々と過去を語り出したのだ。
――私ね、小さい頃に、私とそっくりの男の子に会ったことがあるのよ。
曰く、彼は緑の髪をしていて、姉に会うなり赤い瞳を瞬かせたのだという。鏡で見る自分とそっくり同じ顔をした彼に手を取られて、書庫の中で声を殺し、一緒に本を読んだ。
そうして――。
彼が彼女と同じ歳であることと、この家の子供であることを知った。
姉はひどく驚いたという。わたしだって、きっと姉の立場だったら驚いた。パンドルフィーニの屋敷は広くて、わたしたちが違和感なく歩ける場所も限られていたけれど、まさか兄弟がいるだなんて思いもしないだろう。それも、自分の片割れが。
――信じられないでしょう。でも、私は本当だと思ったわ。運命なんて信じてないけど、あるとしたら、きっとあれのことね。
そう言って、姉は手元の本を捲った。内容など目にしていないだろうに、彼女はいつでも本に触れている。
――弟かもしれないけど、私はお兄様だと思ったわ。だって私の手を引いてくれたもの。私に書庫を案内してくれたの。
熱のこもる口調が、物語のような出会いを紡いでいく。
自分とそっくりな少年が、自分とよく似た感性で、似たような行動を取っていたこと。
物語を読むのが大好きだという彼に、よく自分の作った物語を聞かせていたこと。
文字を教えられていなかった彼に、自分の知る限りの文字を教えていたこと。
それから、知っている言葉をもとにして、彼が新しい言葉を覚えていたこと――。
――だからきっと、今は貴女と同じくらいには、物を読めるようになってると思うわ。
そう言って、姉はわたしを見て愛おしげに笑った。
隠された血族とのささやかな逢瀬の結末を、姉は口にしなかった。だからわたしは、この話の結末を知らない。
問いを投げかけられるほど、聞いていなかったのだ。
そんな声で喋る姉を――見たことがなかったから。
いつも大人びている顔に、年相応の少女のような夢想を広げて、姉はかつて出会った少年を語る。いつもは悲しい結末ばかりを紡ぐ、美しい唇が、希望にあふれた声を吐き出す。
まるで。
まるで――わたしの知る彼女などではないと言うかのように。
それを否定してほしくて、思わず首を横に振った。
――それ、次のお話にするの?
虚を突かれたように、姉は口をつぐむ。見開かれた赤が何度か瞬いて、わたしの瞳を捉えた。
落胆と諦めに陰るそれが、いつもと同じ色を孕んでいて――。
わたしは安堵した。
――そうね。次の話は三人兄妹にするのもいいかもしれないわね。
――三人とも仲良しだといいな。
――どうかしら。私が書くのは悲劇だもの。
嘆息めいた溜息がこぼれる。手元の本を捲る指先が、文字の羅列を一つなぞった。そこに何が書いてあったのか、わたしは今も知らないままだ。
何かを言いかけて口を閉じた姉の唇は、いつもの通り穏やかにわたしを見た。白い手袋に覆われた掌が、何かを隠すように、美しい顎のラインを隠してしまう。
――もし本当にお兄様がいたら、貴女はどうする?
わたしには――答えられなかった。
口を閉じて俯くわたしを、姉はしばらく見詰めていたように思う。そういう風に、沈黙を遮ってくれない少女の姿が、やはりわたしの知る姉ではないような気がしていた。
――わかんないや。
結局。
首を横に振りながら、逃げるように部屋を後にすることしかできなかったのだ。
扉を閉めながら、隙間に消えていく姉の瞳から目を逸らした。脳裏にこびりついた問いかけが離れない。
わたしに兄がいたら――。
そのときは、どうすればいいのだろう。
そう笑った姉の顔を、夢に見た。
何も言えなかったのを覚えている。いつものように、姉はわたしが言葉を返すまで黙っていて、小さな部屋には重苦しい沈黙が満ちていた。
重苦しいと思っていたのは――わたしだけだったかもしれないけれど。
――ごめんなさい、急だったわね。
返答がないとみるや、姉は眉尻を下げて、穏やかに謝罪した。首を横に振って俯けば、続く声は朗々と過去を語り出したのだ。
――私ね、小さい頃に、私とそっくりの男の子に会ったことがあるのよ。
曰く、彼は緑の髪をしていて、姉に会うなり赤い瞳を瞬かせたのだという。鏡で見る自分とそっくり同じ顔をした彼に手を取られて、書庫の中で声を殺し、一緒に本を読んだ。
そうして――。
彼が彼女と同じ歳であることと、この家の子供であることを知った。
姉はひどく驚いたという。わたしだって、きっと姉の立場だったら驚いた。パンドルフィーニの屋敷は広くて、わたしたちが違和感なく歩ける場所も限られていたけれど、まさか兄弟がいるだなんて思いもしないだろう。それも、自分の片割れが。
――信じられないでしょう。でも、私は本当だと思ったわ。運命なんて信じてないけど、あるとしたら、きっとあれのことね。
そう言って、姉は手元の本を捲った。内容など目にしていないだろうに、彼女はいつでも本に触れている。
――弟かもしれないけど、私はお兄様だと思ったわ。だって私の手を引いてくれたもの。私に書庫を案内してくれたの。
熱のこもる口調が、物語のような出会いを紡いでいく。
自分とそっくりな少年が、自分とよく似た感性で、似たような行動を取っていたこと。
物語を読むのが大好きだという彼に、よく自分の作った物語を聞かせていたこと。
文字を教えられていなかった彼に、自分の知る限りの文字を教えていたこと。
それから、知っている言葉をもとにして、彼が新しい言葉を覚えていたこと――。
――だからきっと、今は貴女と同じくらいには、物を読めるようになってると思うわ。
そう言って、姉はわたしを見て愛おしげに笑った。
隠された血族とのささやかな逢瀬の結末を、姉は口にしなかった。だからわたしは、この話の結末を知らない。
問いを投げかけられるほど、聞いていなかったのだ。
そんな声で喋る姉を――見たことがなかったから。
いつも大人びている顔に、年相応の少女のような夢想を広げて、姉はかつて出会った少年を語る。いつもは悲しい結末ばかりを紡ぐ、美しい唇が、希望にあふれた声を吐き出す。
まるで。
まるで――わたしの知る彼女などではないと言うかのように。
それを否定してほしくて、思わず首を横に振った。
――それ、次のお話にするの?
虚を突かれたように、姉は口をつぐむ。見開かれた赤が何度か瞬いて、わたしの瞳を捉えた。
落胆と諦めに陰るそれが、いつもと同じ色を孕んでいて――。
わたしは安堵した。
――そうね。次の話は三人兄妹にするのもいいかもしれないわね。
――三人とも仲良しだといいな。
――どうかしら。私が書くのは悲劇だもの。
嘆息めいた溜息がこぼれる。手元の本を捲る指先が、文字の羅列を一つなぞった。そこに何が書いてあったのか、わたしは今も知らないままだ。
何かを言いかけて口を閉じた姉の唇は、いつもの通り穏やかにわたしを見た。白い手袋に覆われた掌が、何かを隠すように、美しい顎のラインを隠してしまう。
――もし本当にお兄様がいたら、貴女はどうする?
わたしには――答えられなかった。
口を閉じて俯くわたしを、姉はしばらく見詰めていたように思う。そういう風に、沈黙を遮ってくれない少女の姿が、やはりわたしの知る姉ではないような気がしていた。
――わかんないや。
結局。
首を横に振りながら、逃げるように部屋を後にすることしかできなかったのだ。
扉を閉めながら、隙間に消えていく姉の瞳から目を逸らした。脳裏にこびりついた問いかけが離れない。
わたしに兄がいたら――。
そのときは、どうすればいいのだろう。