22.蛇と蒼茫
文字数 1,946文字
姉はよく、わたしの部屋から空を眺めた。
――空には幸せが詰まってるのよ。
あまりに真剣な表情で呟くものだから、わたしはそれを信じていた。青々と広がる空が、屋敷で大事にされるわたしの世界を、確かに彩っていたのだ。
海を想起するとき、その色はいつでも空と同じだった。炎の色を見るたびに夕陽のようだと思った。自由な箱庭の中のものを、わたしはいつでも、窓の外に広がる色に例えた。
姉が――。
いつも空を見詰めては、羨ましげに息を吐いたから。
――人が竜の末裔だって言うなら、空が飛べたらいいのに。
翼の名残だといわれる背のくぼみをなぞって、姉はよくそうぼやいた。蔑まれる飛蛇ですら翼を持っているのに、直系の子孫が飛べないのはおかしいのだと、愚痴を吐くように息をつくのだ。
わたしが想うよりも、姉にとって空は重要なもののようだった。
語る物語にはいつでも空模様が組み込まれていた。燦然と輝く太陽だったり、重く弛んだ曇天だったり、雲の切れ間に見える斜陽の赤々とした光だったりする。その言葉を聞くたびに、わたしは自分の部屋の窓から見える風景に色を足す。
だからいつでも――わたしの見る空の色とは、今にも瞼に張り付く、領地のまばらな人影の上にしかない。
それは姉にとっても同じだったのだろうに、彼女はわたしよりもずっと幸福に、その色を見ていたらしかった。
――この、背中にくぼみがあるでしょう。
言いながら、彼女は器用に自分の背をなぞった。
――ここが翼だったんですって。
――昔は人も飛べたの?
――そうよ。
だから古代人が羨ましいと、姉は床に目を落とした。つられて見遣った足許に、ありありと有翼の亡骸を思い浮かべて、足の所在をなくす。
わたしがもじもじと足を持ち上げている間にも、姉はじっと、古代人を見ていた。彼女の望むものが全てそこにあるような、ひどく曖昧なまなざしだった。
――どうして翼をなくしたのかしら。
人には過ぎた贈り物だったのか。ならばなぜ、獣ふぜいが空を飛ぶのだろう。
――頭が重いのかしらね。
言って姉は笑った。鼻先にしわが寄って、整った相貌が歪む。そうやって笑う姉にかけるべき言葉を、わたしは知らない。
知恵をつけすぎた――そう言いたいことは、いくらわたしにでも分かった。考える脳がなければ空が飛べたのか。ならばわたしは。
――ルネリアはきっと空が飛べるのね。
冷えた水を浴びたようだった。
曖昧な自己嫌悪を肯定された気がして、わたしは跳ねるように姉を見る。赤い瞳がじっとこちらを見詰めている。夕焼けよりも濃い、普段は愛してやまないその色が、今はわたしを穿つように見えた。
次の言葉が聞こえるまで、わたしの心臓がはっきりと鼓動していたのかどうか、よく覚えていない。
――だって貴女は竜だもの。
ようやく。
わたしはそこで、安堵したような気がした。どこかで失望しもしたけれど、それよりもずっと深いところで、姉がわたしを刺し殺すようなことはないと確信した。
それからしばらく、二人で黙っていた。
わたしは空を飛ぶ幸福を知らない。風を浴びるのだって、わたしを乗せた馬車が走るときだけだ。煉瓦造りの街中はともかく、踏み均されただけの土と草は車をがたつかせる。隣に座る父の横で、小さく縮こまったわたしを追い詰めるあの感覚を、心地よいとは思えなかった。
けれど――想起する。
この窓を開け放つ自分の姿が見える。背中に携えた翼が、落下する恐怖を包み込んで、わたしの体を押し上げる。蹴った窓枠から空へと飛び立つ。風の隙間をこじ開けるようにして、わたしは青々とした天へ向かう。馬車の揺れも、父の息遣いも、背中を包む閉塞感もないまま、頬に当たる風が冴え冴えとわたしを導く――。
それは、一度として味わったことのない自由と言うに足るのじゃないか。
わたしの心は弾んだ。同時にひどく覚束なくもなった。不格好な足踏みを続けながら、その恐ろしい感覚から逃れんと息を吐いた。
――空が飛べたら、幸せになれると思う?
――ええ。
躊躇なく頷く横顔は、いつになく無邪気だった。その顔を陶酔と呼ぶのだと知ったのは、ずっと後の話だ。
とろけた瞳で空を見上げ、もうそこにいない蛇たちを幻視する姉の顔を、何と表していいのか迷った。そのうちに、彼女は子守歌のような声で、わたしの思考を奪いにかかるのだ。
――だって、どこにだって、自由に行けるのよ。幸せだと思わない?
返す言葉が見つからないまま、わたしは口を閉ざした。
この広すぎる屋敷の中で。
漠然とした不自由の檻の中で――。
生きてきたわたしたちにとって、きっと世界は広すぎるのに。
――空には幸せが詰まってるのよ。
あまりに真剣な表情で呟くものだから、わたしはそれを信じていた。青々と広がる空が、屋敷で大事にされるわたしの世界を、確かに彩っていたのだ。
海を想起するとき、その色はいつでも空と同じだった。炎の色を見るたびに夕陽のようだと思った。自由な箱庭の中のものを、わたしはいつでも、窓の外に広がる色に例えた。
姉が――。
いつも空を見詰めては、羨ましげに息を吐いたから。
――人が竜の末裔だって言うなら、空が飛べたらいいのに。
翼の名残だといわれる背のくぼみをなぞって、姉はよくそうぼやいた。蔑まれる飛蛇ですら翼を持っているのに、直系の子孫が飛べないのはおかしいのだと、愚痴を吐くように息をつくのだ。
わたしが想うよりも、姉にとって空は重要なもののようだった。
語る物語にはいつでも空模様が組み込まれていた。燦然と輝く太陽だったり、重く弛んだ曇天だったり、雲の切れ間に見える斜陽の赤々とした光だったりする。その言葉を聞くたびに、わたしは自分の部屋の窓から見える風景に色を足す。
だからいつでも――わたしの見る空の色とは、今にも瞼に張り付く、領地のまばらな人影の上にしかない。
それは姉にとっても同じだったのだろうに、彼女はわたしよりもずっと幸福に、その色を見ていたらしかった。
――この、背中にくぼみがあるでしょう。
言いながら、彼女は器用に自分の背をなぞった。
――ここが翼だったんですって。
――昔は人も飛べたの?
――そうよ。
だから古代人が羨ましいと、姉は床に目を落とした。つられて見遣った足許に、ありありと有翼の亡骸を思い浮かべて、足の所在をなくす。
わたしがもじもじと足を持ち上げている間にも、姉はじっと、古代人を見ていた。彼女の望むものが全てそこにあるような、ひどく曖昧なまなざしだった。
――どうして翼をなくしたのかしら。
人には過ぎた贈り物だったのか。ならばなぜ、獣ふぜいが空を飛ぶのだろう。
――頭が重いのかしらね。
言って姉は笑った。鼻先にしわが寄って、整った相貌が歪む。そうやって笑う姉にかけるべき言葉を、わたしは知らない。
知恵をつけすぎた――そう言いたいことは、いくらわたしにでも分かった。考える脳がなければ空が飛べたのか。ならばわたしは。
――ルネリアはきっと空が飛べるのね。
冷えた水を浴びたようだった。
曖昧な自己嫌悪を肯定された気がして、わたしは跳ねるように姉を見る。赤い瞳がじっとこちらを見詰めている。夕焼けよりも濃い、普段は愛してやまないその色が、今はわたしを穿つように見えた。
次の言葉が聞こえるまで、わたしの心臓がはっきりと鼓動していたのかどうか、よく覚えていない。
――だって貴女は竜だもの。
ようやく。
わたしはそこで、安堵したような気がした。どこかで失望しもしたけれど、それよりもずっと深いところで、姉がわたしを刺し殺すようなことはないと確信した。
それからしばらく、二人で黙っていた。
わたしは空を飛ぶ幸福を知らない。風を浴びるのだって、わたしを乗せた馬車が走るときだけだ。煉瓦造りの街中はともかく、踏み均されただけの土と草は車をがたつかせる。隣に座る父の横で、小さく縮こまったわたしを追い詰めるあの感覚を、心地よいとは思えなかった。
けれど――想起する。
この窓を開け放つ自分の姿が見える。背中に携えた翼が、落下する恐怖を包み込んで、わたしの体を押し上げる。蹴った窓枠から空へと飛び立つ。風の隙間をこじ開けるようにして、わたしは青々とした天へ向かう。馬車の揺れも、父の息遣いも、背中を包む閉塞感もないまま、頬に当たる風が冴え冴えとわたしを導く――。
それは、一度として味わったことのない自由と言うに足るのじゃないか。
わたしの心は弾んだ。同時にひどく覚束なくもなった。不格好な足踏みを続けながら、その恐ろしい感覚から逃れんと息を吐いた。
――空が飛べたら、幸せになれると思う?
――ええ。
躊躇なく頷く横顔は、いつになく無邪気だった。その顔を陶酔と呼ぶのだと知ったのは、ずっと後の話だ。
とろけた瞳で空を見上げ、もうそこにいない蛇たちを幻視する姉の顔を、何と表していいのか迷った。そのうちに、彼女は子守歌のような声で、わたしの思考を奪いにかかるのだ。
――だって、どこにだって、自由に行けるのよ。幸せだと思わない?
返す言葉が見つからないまま、わたしは口を閉ざした。
この広すぎる屋敷の中で。
漠然とした不自由の檻の中で――。
生きてきたわたしたちにとって、きっと世界は広すぎるのに。