13.竜と往路

文字数 4,020文字

 太陽が頭上を回ったころに、オルテールは足を止めた。
 フードの端を押さえて空を見る。口許を引き結んだ姿に漠然と心が沈む。さりとて目的が見えないままで声をかけるわけにもいかず、ルネリアは彼の後方でおろおろと立ち尽くした。
「今夜は野宿かな――」
 吐き出された低い声に、赤い瞳を覗き込む。
 寝起きの気怠さとともに悪夢も遠のいた心は、兄を名乗る男の穏やかな困惑を、思いのほか素直に受け止めた。かち合う目にも、朝のような陰鬱な思いは湧いてこない。
 冷静になった。
 いくら警戒していても仕方がないと悟った――と言う方が正しいかもしれない。帰る機会を逃し、彼以外のあてを失った以上、信頼するほかにないのだ。
 ――今のところは。
 ともかく、先ほどよりはまともに声を上げられることに変わりはない。
「まだ、お昼ですよ」
「そうだな。だが、まだ半分も歩けていないから、今日のところはたどり着けないだろうね」
 街道から外れたせいもあるのだろうが、パンドルフィーニの領地そのものが、王都に近い割に田舎だ。時たま連れて行かれる三家の領地や王都とは、比べるべくもない。
 そこから更に道を外れていくのだから、当然、村々の距離は遠くなる。竜の祝福を受けた土地とは違い、一介の村民が魔物に対抗するための手段を確保するのは大変なのだと、姉が語っていた記憶があった。
 その情勢を知っているとはいえ――。
 結構な距離を歩いたような気がしていた。それがただの半分にすら満たない道程だと言われると、途端に脱力感が襲ってくる。
 疲弊の表情は、フード越しにも隠せなかったようだった。声もなく苦笑したオルテールの掌が、軽く頭を叩く感触がある。
 その穏やかな仕草は、思っていたより、不快ではなかった。
 口許を覗く勇気はなかったが、続く声は笑っている。
「まあ、夕飯の調達は必要だろうが」
「調達って」
「そこらの魔物でも狩ろうか。そうなったら、ルネリアは下がっていたまえ」
「は、はい――」
 魔物を狩る――とは、聞き慣れない言葉だった。
 食用になる魔物がいるのは知っている。そもそも、今までルネリアが食したどの肉も、原種は野生の魔物だったと聞く。体に害はないのだろうが――。
 質素な夕食の味が舌先をかすめた。あまり口に合うとは思えない。
 短い沈黙の末に、ルネリアが行き着く問いは、昨日と代わり映えしなかった。
「お姉ちゃんも、食べたんですか?」
「ああ。大好物だ」
 いたずらっぽい声音で背を向けたオルテールが、腰の剣を撫でるようになぞる。
「冗談はともかく、意外にうまいんだよ」
 ――本当だろうか。
 それよりも、本気だろうか――と言うべきか。
 漠然とした不安に違わず、斜陽がかかるころにオルテールが選んだのは、長い耳の小動物だった。もっとも、ルネリアは顛末をよく走らない。
 臆病なそれらが八方に逃げ散るのを目で追って、視界の端でオルテールが剣を抜くのを見た。慣れた手つきで躊躇もなく振り上げられたそれが、同じような速さで振り下ろされたところから――。
 目を瞑って耳を塞いでいた。
 すっかり音を遮断するよう努めていたルネリアは、野営の準備を終えた彼が困ったような顔で肩を叩くまで、ずっとその場にうずくまっていたのである。
 それで――。
 獣除けの火を起こすために積まれた枝の横で、彼女は呆然と立ち尽くしている。
 隣のオルテールは座り込んだきりだ。どうやら火を起こすのに苦心しているらしいというのは、状況を見れば理解はできる。
 できるのだが。
「あの」
「すまないね――私はこれが、どうも苦手で――」
「いえ、その、わたしがやります」
 夜の闇の中で、無防備にフードを外した赤い瞳が見開かれるのが見えた。次いで首を傾げる仕草には、鋭い見た目に不釣り合いな幼さを孕んでいる。
 一瞬だけ疑念が頭をよぎるのを飲み干した。よもやルネリアの出自を知らぬわけはあるまい。
「火があればいいんですよね」
 返事も聞かずに枝の前へ立つ。父以外の前で魔術を起動するのは、これが初めてだった。肩にこもった力を無理矢理に押さえつけて、一つ深呼吸をする。
 開いた紫の瞳に決意を宿す。指先を積まれた枝葉に向けて、体中を巡る力の一部をそこへ集中させる。皮膚の薄膜で区切られた、己と周囲の境を曖昧にして、内側からゆっくりと剥けるようにして高めた力が共鳴するのを感じて――。
 破裂する。
 指先から生まれた炎が、いともたやすく枝葉を伝って、宵闇に鮮やかな光を灯した。暗さに慣れた瞳が眩む痛みをこらえるうちに、隣で静かな歓声が上がった。
「お前は本当に魔術が得意なんだな」
 いたく感心したような声に、自然と口角が緩む。父には指摘されるばかりだった、術も陣も使わない術式を褒められたのは、姉に悩みを相談した日以来だ。
 染みついた謙遜は、しかし隠せない喜色を孕んで口からこぼれた。
「術陣と詠唱は、全然できないんですけど」
「いいんだ、あんなもの。使わなくて魔術が起動できるなら、使えなくていい」
 姉と同じことを言う。
 朝までなら心臓を締め付けた言葉さえかすむほど、ルネリアは浮かれていた。反射的に見た先の青年は、本格的に座り込んでいる。
 その目を、初めてまともに見た。
 垂れ目がちの赤い瞳。自身を見詰めるそれに感情は薄い。それでも、彼女を可愛い妹だと言ったのは、真実だと認めていいかもしれないと思う。
 それも――褒め言葉の熱に浮かされただけかもしれないが。
 促されて座り込む。視界の端にちらつくフードが邪魔で、青年と同じようにゆっくりと外した。
 その間に、彼は獣肉を火にかけている。
 手つきは穏やかだ。集めた中から、慣れた調子で丈夫そうな枝を選定している。妙に板についた動きに、ふと頭をよぎる疑問がある。
 応じてくれるだろうか――と考えるより先に、口を開いていた。
「あの、オルテールさんは――」
 言いかけて。
 その手が一冊の本とペンを取り出したことに気づく。
 白い手袋が、分厚い表紙を捲る。姉が持っている、中身が白紙の本と同じ装丁だと気づくのに、時間は要らなかった。彼女のそれとは違い、青い表紙に金の装飾がちりばめられた本の一ページを、驚くほど無造作に破る。
 その音で――。
 聞きたかったことはすっかり霧散してしまった。
 代わりに声を紡ぐ。
「文字が書けるんですか?」
「見よう見まねでね。アルティアにいくらか教わっていたのと、残りは本を読んで、独学だよ」
「そう――だったんですか」
 ペンを軽く持ち上げたオルテールが笑うのを、ルネリアはどこか遠いもののように見詰めた。
 インクが見当たらない。恐らく、姉の術式が込められている。魔術があれば何でもできるのだ。逆に言えば、魔術の使えない者たちは、何もできないということでもあるのだが。
 獣の肉を焼く間、彼は淀みなくペンを走らせていた。香ばしい肉のにおいが鼻を刺激するころになって、筆記具をしまい込んだオルテールが顔を上げる。
「少し待っていてくれたまえ。今からアルティアのところに飛ばす」
 言いながら、地に落ちた枝の一本を拾って、柔らかな土に術陣を記す。突っかかりながらの詠唱でも、無事に呼び出された飛蛇には、青いリボンが几帳面に巻かれていた。
 ――飛蛇を使えるのか。
 昨日も聞いたことだった。しかし、目の前にこうして呼び出されると心が揺れる。甘えるようにすり寄るそれに適度に応じながら、白い手袋は伝書をリボンへ巻き付けている。
「あまり音沙汰がないと心配するんだよ。ただでさえ、お前と早く会いたくて仕方がないんだからな、あいつは」
 そろそろパンドルフィーニの家も動き出しているだろうしね。
 言われると、あやふやだった姉の存在が一気に輪郭を取り戻した。同時に頭を打つ父の怒号が、えもいわれぬ不安とともにルネリアに絡みつく。その怒声の対象にされたことは一度もないが、今度こそ許されることではないだろう。何しろ、彼女は自らの意思で身も知らぬ青年について歩いているのだ。
 飛び去る蛇の翼を見上げている間に、焦げ付いた肉の表面を削るオルテールへ、ルネリアは物憂げに目を向ける。
「見つからない、でしょうか」
「大丈夫だよ」
 明るい声で返答がある。楽天的と言うべき範疇を超えて、いっそ呑気にさえ聞こえる台詞に、ルネリアは初めて明確な不服を浮かべた。
 差し出された肉に息を吹きかける。その表情の何が面白かったのか、抑えた笑い声がやまないことに、余計に心がささくれる。
「見つかったら、どうするんですか?」
 思ったよりも拗ねた色の声にも、兄を名乗る男の表情は揺らがない。
「いざとなれば何とでも。アルティアから許可は得てあるしね」
 どうにでもなる問題なのか。
 ――なるのだろうな。
 理不尽な納得にふてくされたまま、渡された肉を見る。オルテールはそのままかぶりついているようだが、それは下品ではないだろうか。
 思ってから――。
 ここが家でないことを思い出した。
 恐る恐る唇で肉に触れる。じんわりと熱さを伝えてくるそれを一気に口に含むが、案の定、ルネリアの知った肉の味はしなかった。
 味気ない何かの塊をどうにか咀嚼しきったのを見計らって、オルテールの声がする。
「疲れたろう、そろそろ寝た方がいい。明日も歩くからね」
「オルテールさんは、どうするんですか」
「私は火の番だよ」
「でも」
「大丈夫、寝るのは元から下手なんだ」
 それは――。
 思わず声を上げようとして口をつぐむ。息と一緒にうまく飲み込んだ言葉を殺している間に、青年の方が穏やかに笑う。
「おやすみ」
 向けられた瞳は凪いでいる。
 だから。
「おやすみなさい」
 ――今日は、笑って返事ができた。
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