18.蛇と爪痕

文字数 3,147文字

 その日に何があったのか、わたしはよく覚えていない。
 ただ、珍しく外から帰ってきたことだけは確かだ。父に連れられていたのだから――多分、パーティか何かだったのだろう。
 姉がようやく社交界に出ておかしくない年齢になったころだったから、本来ならばわたしが連れて行かれるのはおかしな話だったと、今になれば思う。
 けれど――。
 あの家にとって、姉とわたしはそういうものだった。
 姉は何かと父に反発した。恐ろしい拳と怒号にも、ますます瞳の険を強めて、生意気な顔をしてみせた。
 ――お父様は私を殺さないわ。
 見えないところにできた傷をさすって、自信を持って言い切った姉の声を、私はよく覚えている。
 ――私は蛇だもの。生まれたときに私を殺せなかった人に、そんなことできるわけない。
 十三の少女が言うような台詞では、きっとなかったと思う。わたしは今でもそう言える自信がない。
 姉よりもわたしの方が、父にいつか殺されるかもしれない恐怖に怯えていた。
 姉を殺せなかった父は、そういう姉の態度を危惧していたのかもしれない。社交界の場で失態を晒せば、嘲笑の的になるのはパンドルフィーニの家だ。
 だから、あの日は姉が家にいて、わたしが外にいた。
 わたしが帰ってきたとき、姉は――。
 姉は魔術の訓練を行っていた。
 その実情がどうあれ、術陣と詠唱はパンドルフィーニの汚点であり、誇りだった。父がわたしに術陣と詠唱を会得するよう迫るとき、いつもこの家を拓いた血族の名を口にしていたのを、よく覚えている。
 だから、父はわたしにも姉にも術式を習得するよう言い聞かせていて――。
 パンドルフィーニの術師としてみれば、姉には類い希なる才があった。
 その日の姉が扱っていたのは、わたしの知らない術式だった。早々に家に入った父の目を盗んで、姉の背に向けて走っていく。
 姉は、ときたまわたしに術式を見せてくれた。詠唱も術陣も覚えられない、パンドルフィーニの術師としては落ちこぼれともいえるわたしは、それでもその方式を気に入っていた。描き出される美しい陣と、立ち上る魔力の塊が目に見える力に変わっていく瞬間が、たまらなく好きだったのだ。
 わたしがせがめば、姉は苦笑しながら、魔術を発動して見せてくれる。
 だから――。
 だから今度も、姉の背にしがみついてせがめば、隣で見せてくれると――。
 そう思って駆け出したわたしは、何も知らなかった。
 姉が難解な術式を練習していたことも。
 魔力の制御にどれだけの集中力を費やしているのかも。
 わたしがどれだけ――魔術の素養に恵まれていたのかさえも。
 何も知らなかったから。
 ――お姉ちゃん!
 空気を全て吐き出すように叫んだ。弾かれたように振り返った姉の目が見開かれる。
 陣の前に飛び出すわたしの――。
 左腕を。
 ――ルネリア!
 掴まれた瞬間の衝撃から、記憶はない。
 目が覚めて初めて、意識を失っていたことを知った。父の声が響いていたのが恐ろしくて、わたしはベッドの上で身を固くした。勝手な行動を知られたらどうなるかわからない。
 息を殺すわたしの予想とは裏腹に、父は恐ろしいほど優しく笑った。
 ――大丈夫か? 痛くはないか?
 何のことだかわからなかった。けれど何か反応を返さなくてはならないような気がして、わたしは父の視線を追った。
 その先にある左腕は――。
 包帯に包まれていた。
 そうしなくてはいけない理由があるのだろうに、わたしに痛みは知覚できない。それでも触れるのは怖かった。触れた瞬間に死んでしまう気がする。
 施された治療をまじまじと見つめてから、わたしは小さく首を横に振る。
 ――そうか、それは何よりだ。
 声は相変わらず優しいままだったが、その顔を見ることはできなかった。
 ややあって。
 口を閉ざして俯いたわたしの横に、父が座り込む気配がした。
 きっと顔を見ようとしているのだろう。それが嫌で、わたしは努めて背を丸めて、溜息が漏れないように口を閉ざしていた。
 しばらく無言の応酬があった。先に諦めたのは父で、ひどく大きな溜息を吐いたから、わたしは反射的にこわばる体を押さえつける。
 果たして、父は何にも気づかずに立ち上がった。
 ――もうアルティアに近寄るのはやめなさい。
 その声で初めて、顔を上げた。
 父の紫色をした瞳と、はっきり目を合わせたのは、それが最初だ。鏡に映るわたしと似たような、つり目がちの睫毛は、眉尻を持ち上げていると、それだけで恐ろしげに見えたのを覚えている。
 ルネリア様はお父様によく似ておられる――と、使用人が言っていたのを、場違いに思い出した。
 ――どうしてですか。
 どうでもいいことを考えていたせいで、普段なら口にできない台詞が口をついた。
 ――あれは蛇だ。
 お姉ちゃんと言いかけて、口を閉じる。
 父の前では、お姉ちゃんであってはならない。
 ――お姉様は、よくそう仰ります。
 ――あれは知っていてお前に近づいていたのか。
 それがますます父の不興を買ったようだった。眉間に寄ったしわから目が離せない。
 ――蛇などが偉大なる竜に近寄るものではない。お前の左腕にこんな傷を負わせてしまったような蛇には、もう会ってはならないよ。
 左腕。
 力を込めることもできないまま、しびれたような感覚が巡る腕を見た。包帯の下がどうなっているのか知りたくもないけれど、いずれ見ることになるのだろうと思った。
 父の口ぶりは――。
 それが姉のせいであるかのようだったが。
 ――わ、わたしが悪いんです。
 馬車から駆け出して、姉の術式の前に飛び出した。あの姉があれだけ必死に止めたのだから、もっとひどいことになったかもしれない。
 震える声で首を横に振ったわたしに、父はひどく優しく笑いかけた。
 何も理解はされなかったけれど、それ以上の言葉を吐き出したら、今度こそ泣き出してしまう気がして――。
 わたしは再び俯いた。
 父からはいくらかの気遣いの言葉があったはずなのだが、よく覚えていない。
 ただ、部屋を出て行く背が吐き捨てた声だけは、今も思い出せる。
 ――こんなことになる前に、殺しておけば良かった。
 やはり父は。
 姉を殺す気だったのだと思った。
 けれど殺せないと言っていた姉の声が蘇る。事実、姉は殺しておけば良かった(、、、、、、、、、、)と言わしめる事態の後にも、部屋に閉じ込められるだけだった。
 もっとも、その処理に関して、わたしは何も伝えられていなかった。だから、傷が治れば以前のように接してもらえるものだと思って、姉の部屋を訪れ続けた。
 そのたびに――。
 姉はわたしが扉をくぐるのを拒んだ。
 ――来ちゃ駄目。
 ――でも、お姉ちゃん。
 ――駄目なの。お父様も仰ってたでしょ。
 父の言うことを引き合いに、わたしを止める姉を初めて見た。肩を落として座る後ろ姿は、何度呼びかけても振り向かない。
 それが明確な拒絶のようで――。
 涙ぐんだわたしの気配を知ってか、姉は掠れた声で頭を振った。
 ――ごめんなさい。
 ひどい声だった。
 いつも自信にあふれ、わたしを導く姉の声だとは思いたくなかった。何も言えないわたしを追い払うように、彼女が本を開くのが見える。
 わたしは。
 扉を閉じるほかになかった。
 それ以来、包帯が手袋に変わってからも、姉はわたしを悲しそうな目で見た。そのたびに、彼女の手が本の表紙をなぞっていたのを覚えている。
 ――ごめんなさい。
 あのときと同じ掠れた声を上げる姉に、わたしは何も言葉を返せないままだった。
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