20.双蛇と業

文字数 3,774文字

 扉を開ける耳障りな音がする。
 部屋を照らすほの明かりの中心で、ろうそくの炎が揺れている。その光の中で顔を上げる兄の瞳に、アルティアは笑いかけた。
「お兄様」
 扉を閉じて――鍵をかける。
 光を頼りに読んでいたらしい本を閉じて、オルテールが応じるように身じろいだ。
 ベッドに座る彼が、アルティアを待っていたのは明白だ。自分とよく似た瞳が穏やかに瞬くのを見つめて、彼女は彼の隣に腰掛ける。
 二人目の体重で、安物のベッドがきしんだ。
 硬さにも慣れたものだ。家で提供されていたそれとは全く違うが、兄が寝ていたという書庫のソファと似たような感覚だと言われれば、悪い気はしなかった。
 オルテールの指先が髪をなぞる。心地よく受け入れたそれに応じるように、彼の胸へ身を預けた。
「ルネリアは」
「眠ったわ。よっぽど疲れてたのね」
 睦言めいて声を交わす。囁くように耳をくすぐる自分の笑声が、ひどく上機嫌に響いた。
 まるで恋人のようだ――と、兄の瞳を見上げるたびに思っている。まっすぐに交わされた視線の奥に、とろけるような甘さを孕んで、彼は彼を連れ出した双子星(アルティア)を見る。瞳の奥に映る自分もまた、似たような表情で彼の腕を受け入れている。
 アルティアには恋人がいたことはない。もとより政略的な意味合いしかなかった婚約者からも、ことごとく愛想を尽かされてきた。彼女が連れ出すまで、広い書庫に押し込められていたオルテールも、彼女の他に誰かに触れたことはないだろう。
 ――けれど。
 けれどこれは、恋人のための行為であって――。
 兄妹にとっては、神聖な儀式(、、)だった。
 どちらともなく指を絡ませながら、部屋の中に視線を巡らせる。アルティアが気になっているのは、机の上に置かれた灯火だ。先ほどまで兄の読書を手助けしていたのだろうそれは、暖かな光を孕んで揺れている。
 施されているはずの魔術が感じ取れなくて、アルティアはオルテールを見上げた。
「普通の火? 魔術、教えてあげたじゃない」
「あれは――難しい」
「私にできて、お兄様にできないことはないと思うけど」
 端的な返答には、首を横に振る。
 ――兄には魔術の才がない。
 それはアルティアにもわかっていることだった。不器用に描かれた不格好な術陣と、到底美しいとは言えない詠唱は、部屋で眠るルネリアを想起させる。最初のうちは思わず笑ってしまっては、彼に不思議そうな顔をされたものだった。
 だが、オルテールがやってできないことはないだろう。
 彼は――アルティア(、、、、、)だ。
 当時のことを思い出してころころと笑えば、小さく開いた兄の口が掠れた声を紡いだ。
「機嫌が良いな」
「ようやく二人に会えたんだもの、当たり前よ」
 この日をどれだけ待ち望んだか――。
 きっと二人にすらわかりはしないだろうと、アルティアは目を細める。
 兄の存在を否定され、妹と断絶されてから、いつか三人でてらいなく笑い合える日を夢見てきた。それだけを糧に日々をしのぎ、愛する悲劇の脚本だけを溜め込んで、おとぎ話の世界を語った。
 それが今――。
 ここにあるのだから、機嫌が悪いはずはない。
「ルネリアを連れてきてくれてありがとう。あの子、一人じゃ何もできないから、不安だったの」
 抱き寄せた耳元で囁けば、オルテールは息を吐いた。
 無感情な中に憂鬱を感じ取って体を離す。視線の先の瞳が、わずかに狼狽を湛えているのが見て取れた。
 それで、兄の髪に指を通す。
「――何か、気がかりでもある?」
 のぞき込むようにして問えば、オルテールはわずかに視線を揺らした。
「追っ手に見つかった」
 その声に目を細める。剣呑な光を宿した双子の妹に、兄の腕がすがるような力を込めたのが伝わった。
 彼にはすまなく思わないでもないが――。
 アルティアには、愛しい妹を襲った悲劇が許せない。
「ルネリアは何も言ってなかったけど」
「左腕を――痛がっていたから」
 怖かったんだろう。
 溜息のように絞り出された声に頭痛がした。心拍が上がる。視界が白んでよく見えない。耳の奥で、嫌な音が聴覚を覆った。
「あの子の左腕に何をしたの」
 せめて落ち着こうと吐き出した声が、獣のように這いずった。肩に触れる兄の手だけが、意識を現実につなぎ止めている。
 怒りの矛先はオルテールではない。彼がルネリアを傷つけるようなことをするはずがないと、アルティアは確信している。鋭利な殺意がうがつべきは、彼女たちを追い回す、あの忌々しい家の方だ。
 そのことをよく理解しているから――。
 オルテールは、アルティアににらみ付けられても、視線を逸らすことはなかった。
「掴んだ」
 視界が弾けた。
 ひどい目眩に俯く。震える肩を抱きしめる兄の腕に縋った。あまりの怒りで、この宿ごと燃やし尽くしてしまいそうだ。
 ――パンドルフィーニの家に属する人間が、妹の傷を知らないはずがない。
 それなのに。
「――あの家だけは、本当に燃やして出てくるべきだったわ。後悔してる」
 感情の揺らぎを押し殺すように、長く深い息を吐く。その間、アルティアを抱きしめたままでいた胸板を押して、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「でも、殺してくれたんでしょう、お兄様?」
「もちろんだ」
「ふふ、そうよね。お兄様は私だもの。私のしてほしいことくらい、全部わかってるわよね――」
 うわごとのように呟いて、アルティアはゆったりと笑みを浮かべた。
 オルテールは彼女の期待を裏切らない。彼女の願いなど全てわかっているとばかりに、たとえどんなことであっても叶えてくれる。
 最初に出会ったときと変わらずに――。
 彼は王子のようだ。
 幼いころの面影を重ねて、喜色を浮かべるアルティアの頬を撫でて、オルテールの瞳が不安に陰った。
()は――」
 それは、彼の本当の口調だ。
 なあに――と、とびきり優しく問う。わずかに光を取り戻した瞳が、妹をまっすぐに見つめて首を傾げる。
「うまくやれたか」
「ええ。とっても。ルネリア、すごく驚いてたわよ。人が苦手だなんて思いもしなかったって」
 道中の話を聞く間、オルテールの名を口に出すたびに、ルネリアは視線を宙にさまよわせていた。本当だよ、と何度も繰り返したのは、姉が語る兄の姿が、自分の知るそれとは全くの別物だったからだろう。
 声を抑えて笑う。ころころと変わるアルティアの表情を見るオルテールは、瞬きの他に動こうとはしない。
 それが心地よくて――。
 彼女は甘えるように上体を預けた。
「それで、私の言ったとおりにしてくれた?」
 殺したら金品を奪えと言ったのはアルティアだ。
 整った顔立ちが、かすかに頷いたのが見えた。自然と口許が持ち上がる。
 彼が持っているであろうものは、隙を見て行商人にでも売りつければいいだろう。パンドルフィーニの家を示す紋章がなければ、そこらの貴金属とさして変わりはない。旅人相手に商売をする行商人など、王都の片隅で闇取引をする商人と似たようなものだ。訳あり(、、、)の旅人が、どこから貴重品を手に入れたかなど、関係のないことだろう。
「ありがとう。それでこそ私のお兄様だわ」
 笑いながら、オルテールの膝へ乗った。
 見つめる先の顔に表情はない。垂れ目がちの赤い瞳、長く伸びた緑の髪、吊り上がった眉――鏡の中の自分を男にすれば、きっと兄のようになるだろうと、幾度も思った。男の子供がいなかった(、、、、、)家では、男の格好をすることは叶わなかったが。
 兄はもしかすれば、あの地下の書庫で、女の服をねだったのかもしれない。
 白い手袋を外して、何度も夢想した面影に指を這わせる。兄もまた、むき出しの肌でアルティアに触れた。
 そのたびに、彼女はえもいわれぬ安堵に陶酔する。
 手袋を外した手で触っても、オルテールは燃えない。妹を傷つけた日からまとい続ける白色をほどいても、兄だけが傷つかずにそこにいる。
 彼は。
 ――私であるから(、、、、、、)
 壊れやすい外界を拒むための枷を外して、二人はしばし見つめ合った。鏡にそうするように、唇を交わそうとして、オルテールはふと視線を落とす。
「俺の左腕も傷つけるべきかな」
「駄目よ。ルネリアがびっくりしちゃうじゃない。もう少し待って頂戴」
 至近距離でぴしゃりと撥ねつける。曖昧な落胆が顔を覆うのが見えて、思わず笑った。
 彼は傷を見るたびに同じことを言うが、当面、彼の願いを叶えるつもりはない。
 オルテールは――。
 いつでもアルティアが言うことに抗議をしたりしない。それでも、今日はいつにもまして聞き分けが良いように感じる。
 ルネリアの名にすっかり弱くなったらしい彼が愛しくて、赤い瞳に笑いかける。
「家のことと傷のことは後」
 これから飽きるほど話すのだ。こうして毎日兄に寄り添うたびに、あの忌々しい家を思い出すことになる。
 だから今は――。
 久しぶりの再会に、無粋な話はしたくない。
「早く(ひとつ)になりましょう、お兄様――」
 返答の代わりに近づく唇を受け入れて、アルティアは陶酔に目を閉じた。
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