8.蛇と魔術
文字数 2,640文字
――パンドルフィーニは蛇の家だから。
そう声を立てるときの姉は、いつもわたしの知らない顔をしていた。
美しい紅玉で弧を描き、口許を引き攣らせ、甘やかに通った鼻梁の先に皺を寄せる。そうすると、普段の優しげな色はすっかりなり を潜めてしまって、いびつな笑みを張り付けた女が座るだけになる。
それが――恐ろしかった。
少しばかりの自嘲のほかは、彼女が他人を拒絶するときの表情とよく似ていた。それがわたしに向けたものでないと知っていても、彼女の領域から追い出されている気分になる。
そうしてわたしが声を失くすと、姉は初めて気付いたように、優しく笑いかけてくれる。それでようやく、いつものように話を始めてくれるのだ。
蛇は――。
この世界にとってあまり良いものではないのだと、姉は自嘲気味に繰り返していた。
――人が竜の子だってことは知ってるわよね。
確認の意を強める語気に、わたしは努めて神妙に頷いた。そのくらいは誰だって知っている。創世記は飽きるほど聞いてきた。創世記の竜のようになれと上機嫌に言う父の声を思い出すと、心に影が差す。
俯いたわたしの頭を撫でながら、姉は歌うように続けた。
――蛇は人のなり損ない。竜の子になりたがった獣のことを言うのよ。ほら、顔が竜に似てるでしょう?
言いながら、彼女の指先が机の上をなぞる。零れ落ちる声が静かな部屋に満ちて、張り詰めた空気に波紋が走る。
術陣の真ん中に現れたのは、竜によく似た目をした、手足のない生き物だった。
姉が好んで使役している飛蛇だ。気に入ったものに装飾をするのが好きな彼女は、蛇に結ばれたリボンを神経質に結びなおす。
――本当、この家に似合いの使いだわ。
その言葉とは裏腹に、彼女の手つきは優しい。翼をはためかせた飛蛇が静かにすり寄るのを撫でて、潔癖であるはずの姉は穏やかに笑う。
彼女は蛇に親しむのが得意だった。他の動物はそんなこともないのだけれど、この竜に似た生き物は、よく彼女の手に近寄ってくる。
代わりのように、わたしは全く懐いてもらえない。
父からもらった飛蛇は、わたしの求めにはいつも応じてくれない。そっぽを向いてどこかへ飛んでいってしまう。
それが、今も続くわたしの一番の悩みだ。
――わたし、まだ飛蛇に懐いてもらえないの。
――そうだったの。
情けない声を上げたわたしに、姉はころころと笑った。飛蛇に巻き付くリボンは、手の中で綺麗な左右対称に戻っている。
――きっと、貴女に嫉妬してるのね。
姉はいつもそう言う。
わたしが苦難に項垂れているときには、優しい声で嫉妬なのだと諭す。特別な貴女が羨ましいのよと、赤い瞳で弧を描くのだ。
お姉ちゃんはどうなの――と、問うたことはない。
いつでも穏やかで、わたしの持っていないものをたくさん持っている彼女が、わたしに嫉妬することなんて考えられない。そもそも、この物静かな人に、嫉妬などという言葉は似合わないのだ。
飛蛇の背を撫でながら、姉はふと視線を落とした。その目が長い髪の間に隠れて、唇が弧を描いているのだけが見えた。
――でも、ルネリアがこれを使える必要なんか、ないのかもしれないわよ。
――どうして?
――だって貴女は竜じゃない。竜がなり損ないに目をかける必要なんか、なくてよ。
姉がわたしを竜と呼ぶときには、父に伝承を語られるときの重苦しさは感じない。けれど、その声がひどく軽薄な皮肉を孕んでいて、わたしは思わず黙り込む。
そうすると、姉はいつも繕うように笑うのだ。
――お父様とお母様になんか、従わなくていいわ。パンドルフィーニは蛇だもの。
――でも、わたしもパンドルフィーニの娘だよ。
お姉ちゃんと同じ。
とは言えないまま、俯くのが常だった。
魔術の才は、全て血によっている。古く竜に産み落とされた八人の人間は、母の恩恵として、魔術を手にして生まれた。
そのうち末の三人は、獣と交わって子を成したらしい。その三人の子の中で力を持つ者たちが魔導三家の祖となり、純血を残した五人の子が王の血となり、残る者たちが人になった。竜が人の世を見るために遣わす竜の使いのほかには、受け継ぐ血に抗う術はない。
そういうわけだから――。
パンドルフィーニの血にはほとんど魔力がない。一般人にしてみれば、魔術が使えるだけでも敬意の対象だろうが、他の三家に並ぶほどの術式を行使できるほどの家系ではない。
人でもなく、竜でもない。
そういう――中途半端な家だ。
魔術を行使するためには国の許可が要る。六代前の当主である男は、持って生まれた力を活かそうとしたらしい。その動機までは伝わっていないけれど。
何にせよ、彼はほんの少しの魔力で魔術を行使する術を手に入れた。
術陣と詠唱で不足分を補う。一見すれば魅力的な話だけれど、姉はそうではないと吐き捨てた。
――三家の連中は、こんなものを使う方が無駄だって思ってるもの。
――そうなの?
――貴女はそう思わない?
わたしが問うと、姉はひどく困ったように笑った。問い返されて、首を横に振る。
わたしは術陣と詠唱が苦手だった。複雑な文様をそらで描きながら、特殊な発声で呪言を紡がねばならないのだ。見ているぶんには美しくて好きなのだけれど、いざ自分で覚えようと思うと上手くはいかない。
逆に、姉はそれらをよく覚えた。陣は父母よりも綺麗に描いたし、詠唱は軽やかに耳を打った。どんな術式もすぐに覚えてみせたし、父母から見捨てられたあとも、自力で術を習得しているようだった。
それこそが――わたしが竜の使いであり、姉が虐げられる理由であったことを、その頃のわたしは意識していなかった。
必要のないものを覚えるのは難しい。潤沢な力があるなら、時間を要するすべで負担を低減する意味がない。戦時ならまだしも、国同士の衝突が一つの大陸を滅ぼしたことで竜の怒りを買った人間たちは、争うことををやめると誓って久しい。
だから姉はわたしに問うたのだし、きっとわたしがそれを無駄だと感じているに違いないと思ったのだ。
けれど、わたしには言外の意を知ることはできなくて――。
――綺麗だと思うよ。早く、お姉ちゃんみたいにできるようになりたい。
――そう。
破顔したわたしの、白い手袋に覆われた左腕を見て、姉はいたく悲しげに笑った。
そう声を立てるときの姉は、いつもわたしの知らない顔をしていた。
美しい紅玉で弧を描き、口許を引き攣らせ、甘やかに通った鼻梁の先に皺を寄せる。そうすると、普段の優しげな色はすっかり
それが――恐ろしかった。
少しばかりの自嘲のほかは、彼女が他人を拒絶するときの表情とよく似ていた。それがわたしに向けたものでないと知っていても、彼女の領域から追い出されている気分になる。
そうしてわたしが声を失くすと、姉は初めて気付いたように、優しく笑いかけてくれる。それでようやく、いつものように話を始めてくれるのだ。
蛇は――。
この世界にとってあまり良いものではないのだと、姉は自嘲気味に繰り返していた。
――人が竜の子だってことは知ってるわよね。
確認の意を強める語気に、わたしは努めて神妙に頷いた。そのくらいは誰だって知っている。創世記は飽きるほど聞いてきた。創世記の竜のようになれと上機嫌に言う父の声を思い出すと、心に影が差す。
俯いたわたしの頭を撫でながら、姉は歌うように続けた。
――蛇は人のなり損ない。竜の子になりたがった獣のことを言うのよ。ほら、顔が竜に似てるでしょう?
言いながら、彼女の指先が机の上をなぞる。零れ落ちる声が静かな部屋に満ちて、張り詰めた空気に波紋が走る。
術陣の真ん中に現れたのは、竜によく似た目をした、手足のない生き物だった。
姉が好んで使役している飛蛇だ。気に入ったものに装飾をするのが好きな彼女は、蛇に結ばれたリボンを神経質に結びなおす。
――本当、この家に似合いの使いだわ。
その言葉とは裏腹に、彼女の手つきは優しい。翼をはためかせた飛蛇が静かにすり寄るのを撫でて、潔癖であるはずの姉は穏やかに笑う。
彼女は蛇に親しむのが得意だった。他の動物はそんなこともないのだけれど、この竜に似た生き物は、よく彼女の手に近寄ってくる。
代わりのように、わたしは全く懐いてもらえない。
父からもらった飛蛇は、わたしの求めにはいつも応じてくれない。そっぽを向いてどこかへ飛んでいってしまう。
それが、今も続くわたしの一番の悩みだ。
――わたし、まだ飛蛇に懐いてもらえないの。
――そうだったの。
情けない声を上げたわたしに、姉はころころと笑った。飛蛇に巻き付くリボンは、手の中で綺麗な左右対称に戻っている。
――きっと、貴女に嫉妬してるのね。
姉はいつもそう言う。
わたしが苦難に項垂れているときには、優しい声で嫉妬なのだと諭す。特別な貴女が羨ましいのよと、赤い瞳で弧を描くのだ。
お姉ちゃんはどうなの――と、問うたことはない。
いつでも穏やかで、わたしの持っていないものをたくさん持っている彼女が、わたしに嫉妬することなんて考えられない。そもそも、この物静かな人に、嫉妬などという言葉は似合わないのだ。
飛蛇の背を撫でながら、姉はふと視線を落とした。その目が長い髪の間に隠れて、唇が弧を描いているのだけが見えた。
――でも、ルネリアがこれを使える必要なんか、ないのかもしれないわよ。
――どうして?
――だって貴女は竜じゃない。竜がなり損ないに目をかける必要なんか、なくてよ。
姉がわたしを竜と呼ぶときには、父に伝承を語られるときの重苦しさは感じない。けれど、その声がひどく軽薄な皮肉を孕んでいて、わたしは思わず黙り込む。
そうすると、姉はいつも繕うように笑うのだ。
――お父様とお母様になんか、従わなくていいわ。パンドルフィーニは蛇だもの。
――でも、わたしもパンドルフィーニの娘だよ。
お姉ちゃんと同じ。
とは言えないまま、俯くのが常だった。
魔術の才は、全て血によっている。古く竜に産み落とされた八人の人間は、母の恩恵として、魔術を手にして生まれた。
そのうち末の三人は、獣と交わって子を成したらしい。その三人の子の中で力を持つ者たちが魔導三家の祖となり、純血を残した五人の子が王の血となり、残る者たちが人になった。竜が人の世を見るために遣わす竜の使いのほかには、受け継ぐ血に抗う術はない。
そういうわけだから――。
パンドルフィーニの血にはほとんど魔力がない。一般人にしてみれば、魔術が使えるだけでも敬意の対象だろうが、他の三家に並ぶほどの術式を行使できるほどの家系ではない。
人でもなく、竜でもない。
そういう――中途半端な家だ。
魔術を行使するためには国の許可が要る。六代前の当主である男は、持って生まれた力を活かそうとしたらしい。その動機までは伝わっていないけれど。
何にせよ、彼はほんの少しの魔力で魔術を行使する術を手に入れた。
術陣と詠唱で不足分を補う。一見すれば魅力的な話だけれど、姉はそうではないと吐き捨てた。
――三家の連中は、こんなものを使う方が無駄だって思ってるもの。
――そうなの?
――貴女はそう思わない?
わたしが問うと、姉はひどく困ったように笑った。問い返されて、首を横に振る。
わたしは術陣と詠唱が苦手だった。複雑な文様をそらで描きながら、特殊な発声で呪言を紡がねばならないのだ。見ているぶんには美しくて好きなのだけれど、いざ自分で覚えようと思うと上手くはいかない。
逆に、姉はそれらをよく覚えた。陣は父母よりも綺麗に描いたし、詠唱は軽やかに耳を打った。どんな術式もすぐに覚えてみせたし、父母から見捨てられたあとも、自力で術を習得しているようだった。
それこそが――わたしが竜の使いであり、姉が虐げられる理由であったことを、その頃のわたしは意識していなかった。
必要のないものを覚えるのは難しい。潤沢な力があるなら、時間を要するすべで負担を低減する意味がない。戦時ならまだしも、国同士の衝突が一つの大陸を滅ぼしたことで竜の怒りを買った人間たちは、争うことををやめると誓って久しい。
だから姉はわたしに問うたのだし、きっとわたしがそれを無駄だと感じているに違いないと思ったのだ。
けれど、わたしには言外の意を知ることはできなくて――。
――綺麗だと思うよ。早く、お姉ちゃんみたいにできるようになりたい。
――そう。
破顔したわたしの、白い手袋に覆われた左腕を見て、姉はいたく悲しげに笑った。