15.竜と双蛇

文字数 5,378文字

 折り返しの手紙を首に巻き、飛蛇がオルテールの手元に戻ってきたのは、ちょうど三日が経つころだった。
 この先に村があると口を開いた直後のことである。心なしかよろめいて手元に戻るそれを、しばし真剣なまなざしで見つめていた彼は、その首につながれた紙束を見るなり安心したように苦笑した。手早く外したそれの大半をルネリアに渡す。
「お前宛てだ」
「こんなにですか?」
 見上げた先で、無言のまま頷いた顔が前を向く。
「もうじき村があるから、宿で目を通すといい」
 よほどお前に会いたいようだね――。
 呟くような声にかすかな呆れが混じっているのを、ルネリアは聞き逃さない。待ち望んでいた再会を、姉もまた同じように待ちわびている証左に、心の奥底がむずがゆいような気持ちがした。
 手の中に収まった紙を見る。きっと、姉が持っていたノートの切れ端だ。几帳面に破られた跡が残っている。
 兄を名乗る青年の足が視界から外れるのを、紙越しに見た。慌てて後を追おうとして、手にした紙を美味くまとめられずに、緩やかな速度で前を行く背を呼び止める。
「オルテールさん!」
 振り返るローブの下に、赤い瞳を想起する。この数日でずいぶん脳裏に染みこんだ整った顔立ちが、瞬くように睫毛を動かしたのを、確かに見た気がした。
 そのまま足を進める。
 棒立ちのまま首を傾げる彼へ、手紙を差し出す仕草に恐れはない。
「あの、これ、持っててくれませんか? わたし、うまくしまえなくて」
 そこで初めて、オルテールは合点がいったように大きく頷いた。
「気が利かなくてすまないね」
「いえ、わたしこそ――」
 うまくできなくてごめんなさい。
 口の中で呟いた声が、伝わったかどうかは知れない。
 それでも、頭に触れる手には、少しの気遣いがあったような気がした。
 村に入るまではいつも同じ流れであるらしい。ルネリアはオルテールの影に隠れて、彼が朗々と嘘を吐くのを黙って見つめている。
 剣が量産品であること。
 この近辺の出身ではないこと。
 魔物を斬るために砥石が欲しいこと。
 町中で剣を抜かないこと。
 ルネリアが人見知りをする――妹であること。
 世間話のように繰り出される言葉を、村の衛兵はさしたる感慨もなく聞き流している。慣れたような口調で紡ぐ、最低限の確認事項を聞いていた彼は、旅慣れした訳ありの兄妹(、、、、、、)に、わずかな憐憫の視線をくれただけだった。
 ――旅人というのは、そういうものらしい。
 住処を持たない相手に対して、人々は必要以上に干渉しない。顔なじみらしい相手と親しげに話しているパン工房の職人も、ルネリアとオルテールのローブを見るなり、口を閉ざした。威勢が良いのは露店の商人くらいのものである。
 小さな拒絶をものともせず、買い込んだパンを抱えたオルテールが前を行くのを、ルネリアは見つめている。
 彼は――。
 否。
 彼と、姉は。
 拒絶されている方が心地良いのだろうか。
 ルネリアなどは、何度経験しても、あの居心地の悪さに耐えきれないような気がする。間違っても、世間話のさなかに割り入って、すまないがこれをいくつ頼むよ――などと声を上げることはできない。
 オルテールの足取りは軽い。楔から放たれたことを喜んでいるように見える。名前を失った自分に、何の違和感も覚えていないようだ。
「パンドルフィーニの馬車が出てるって」
 思わず肩がこわばった。
 突然、耳に飛び込んできた家名に、フードの端を引き下げる。前を行くオルテールの袖を引けば、かすかに頷くような仕草を見せたあと、ルネリアを庇うように手を引いてみせた。
 会話を続ける婦人たちが、挙動不審な旅人に気づく様子はない。ゆるゆると肩の力を抜いても、跳ねた心臓に引きずられた荒い呼吸は、しばらく元には戻らなさそうだ。
「こんなところまで? 嫌ね」
「ご息女の葬式以来じゃない?」
「また誰か亡くなったの?」
 ――馬車が出ている。
 口の中に満ちる嫌な体温が、水分を奪っていく。不安を紛らわすように見上げた青年は、こちらを見てはいなかった。
 口許から表情が抜け落ちている。隠れた紅玉の瞳は見えないが、この数日、穏やかに笑みを湛えていた唇が引き結ばれているのが、いやに心を波立てた。
 期待していたのは――暢気な言葉だったのだが。
「――あいつは葬式を出してもらえたのか」
 雑踏に紛れる声にも感情はない。
 吐き捨てるような低音に柔和な色は見て取れず、ルネリアは数日ぶりに、彼へ声を伝えるのを躊躇した。白い手袋がフードの端を神経質につまんでいる癖さえ、何か恐ろしいものに思えてならない。
 似たような調子でひそめた声は、幾ばくかの震えをごまかすにはちょうど良かった。
「お父様のご意向で」
「そうか」
 返る言葉にも、鋭さが滲んでいた。姉が時折見せた、茨毒のような表情を想起して、それを振り払うように息を吐く。
 ふと、フードの下から瞳を覗かせて、オルテールが笑った。
「もう少し進もうか。ずっと歩き通しだが、大丈夫か?」
 その声が、ルネリアの知る柔らかさを孕んでいて、ようやく肩の力が抜ける。
 唇を努めて持ち上げて頷いてみせれば、彼も笑みを濃くした。
 村を出るのには、あまり労力はいらない。盗みを働いていなければ良いだけだ。パン職人が紙袋へ押した印を見せて、通り過ぎるだけで済む。
 続く野道を歩くのも、この数日でずいぶん慣れた。それでも、無造作に転がった小石と、整備されないまま踏み固められた土は、足に絡みつくような感覚だ。
 地面に意識を集中させながら進むルネリアとは裏腹に、長身はいともたやすく前を行く。姉の大人びた背格好にふてくされたときに似た、憎らしい感覚に任せるまま、その背を呼び止める。
 ゆるりと振り向いた口許が、驚いたように小さく開いていた。
 それで頬を膨らませる。
「早いです」
「ああ、すまないね。人に合わせて歩くのには、あまり慣れなくて」
「わたしは大丈夫ですけど、パンが落ちちゃいます」
「そうだな。気をつけるよ」
 返答は軽い。何度不満をぶつけても変わらぬ声音に不服はあれど、そろそろ彼がこういう人間であることには慣れ始めた。
 それに。
 言えば歩調が緩むのだから、それでいい。
 踏みしめる土の感覚を足の裏になじませながら、ルネリアはふと口を開いた。
「オルテールさんって、いつからお姉ちゃんと一緒にいるんですか?」
 意外そうに步みを止めたのはオルテールである。一歩半ばかり後方に置き去りにしてしまった体を振り返って、ルネリアも首を傾げる。
 ――彼の事情を問うのは、これが初めてだった。
 考えるまでもなく疑問は尽きない。あの屋敷の中では存在の片鱗すら感じ取れなかったオルテールが、確かにパンドルフィーニの血族の証を手にしていることもそうだ。
 ただ、なんとなく――。
 以前訊きそびれてからは、それを面と向かって問うことが、禁忌(タブー)であるような気がしていた。
 自然と口をついてしまった質問に、フードの下で血の気をなくしたルネリアの不安とは裏腹に、オルテールの方はさしたる逡巡もなく口を開いた。
「一年前からだよ。家を出たのと同時だな」
「それまでは、どこに?」
「地下の書庫にね――何だ、あいつから何も聞いてないのか?」
 苦笑する声はいたく柔らかい。
 語りによれば――。
 彼は生まれてすぐに、地下にある書庫に閉じ込められたのだそうだ。乳飲み子である彼の面倒を見たのはもっぱら乳母で、彼自身は母の顔も、父の顔も知らない。
 食事を運んでくる使用人の存在だけが、彼に書庫の外があることを教えていた。朝と昼と夜――という、言葉だけは知っていた概念を理解したのも、つい一年前のことなのだという。
 だからうまく眠れないのだそうだ。
 何も教わらずに育った彼が唯一知っていたのが、使用人と意思疎通をするための言葉だった。それでも喋れるようになるのには時間がかかって――。
 姉と会ったころは、ようやくまともな会話ができるようになった時分だった。
 とうとうと続く語りには、感慨も悲哀もまるでない。代わりのように傷つくのは、ルネリアの心の方だった。
「なんで、そんな」
 漏らした声に、ようやくオルテールの声が揺らいだ。
「双子は蛇なんだ。一つで生まれてくるべきだったのに二つに分かれた――竜の子のなり損ないだな」
 溜息と共に吐き捨てられる言葉は、彼女の生きてきた世界とはまるで無縁に思える。姉がことあるごとに虐げられてきたのも、彼女が二つに割れたうちの片割れだったからだとでもいうのか。
「そんな話、聞いたことないです」
「迷信だ、迷信。とっくの昔に廃れてるよ。でもそういうのを気にするのがあの家だろう? 未だに創世の神話にご執心のようじゃないか」
 その声に顔を上げる。
 創世の神話は世界共通だ。絶対の価値観であり、世界には敬虔な信者しかいないと教えられてきた。毎日のように屋敷に併設された教会に通い詰め、竜の像へ祈りを捧げるのが、ルネリアの日課だったのだ。
 彼女の口許を一瞥して、オルテールは小さく笑った。わずかに引きつったいびつな笑みが、自嘲のそれなのか、嘲笑のそれなのか、ルネリアには判別がつかない。
「竜の使いの価値はともかく、創世の神話なんかほとんど聞かない。竜教会で集会もあるようだし、みんな知ってはいるだろうが、まあ――そんなものだよ」
 そう――。
 なのか。
 ルネリアが縋るよう教えられ、自身が縋られるに足る存在だという理由は、所詮は理由付けにすぎないのか。
 そんなもの(、、、、、)なのか。
「もっと、その――大事なものかと思ってました」
「そういうことにしたいんだろう。アルティアが言っていたぞ」
 姉の名前を出して、彼は肩をすくめた。
 語りは続く。まるで姉がルネリアに聞かせたおとぎ話のようだが、続くのはもっと残酷な話だ。
 そういう意味で、姉の書く悲劇とよく似た筋書きではあった。
(ふたご)はな、男の方が災いを呼ぶんだそうだ。かといって殺すと呪う。捨てようにも、ほら、髪がこれだから、すぐパンドルフィーニの者だとばれるだろう? それで」
 父は息子を書庫に閉じ込めた。
「あの家にとって、私は生まれてもいないのさ」
 誰もが彼をなかったことにした。それが父と母の合意である以上、パンドルフィーニの総意が、彼を葬ることにあったのは間違いがない。事実、彼の存在を知るのは上級使用人だけで、それ以下の者たちが書庫に立ち入ることは一切禁じられていたという。
 ルネリアは――。
 地下の存在さえ知らなかった。
 オルテールの存在を唯一信じていた姉が、密かに練り上げていた計画を実行したのが一年前だったのだそうだ。もとより彼女もないがしろにされていたのである。使用人の目を盗み、彼を連れて屋敷を抜け出すのは、そう難しいことではなかったようだ。
 悲劇作家として劇団に寄せた作品が、まさか惨劇の土台になるとは――いくら彼女でも、思ってはいなかっただろうが。
 そこで口を閉じたオルテールに向けて、ルネリアはもう一つ、燻る疑問を吐き出すことに成功した。
「でも、お父様は追いかけませんでしたね」
「そりゃあ、おおっぴらに追いかけたらまずいだろう。私はいないことになってる。それに、なり損ないが一匹二匹消えたところで、どうでもよかったんじゃないか」
 今度の溜息は明確な自嘲だった。
 顔も知らない父母であっても、自身がないがしろにされ続けたことだけは知っているのだ。その感覚をルネリアが知ることはできないが、推し量ることはできた。
「じゃあ、剣は――どうやって覚えたんですか?」
 感情の矛先を変えるための質問は、果たして成功したようである。オルテールの指先が思い出したように柄に触れ、撫でるように剣を抜いた。
 陽光を反射するそれは、いつ見ても冷徹な鋭さを孕んでいる。見目だけで心臓を貫かれてしまうような、恐ろしい感覚がよぎるのも、少しは受け流せるようになってきた。
 しばし白銀の輝きを見つめていた彼は、自身の得物を片手で揺らしてみせる。
「こんなもの、誰でも振れる」
 ――そうだろうか。
 少なくともルネリアには振るえない。護衛は毎日剣術の訓練をしていたが、オルテールの一閃の前に、竜の翼を得てしまった。騎士団だって、相当の鍛練を積んでいなければ入れないわけだから――。
 誰にでも振るえるということはないだろう。
 剣術の才気に恵まれたらしい青年は、閉口したルネリアに笑いかけて見せた。
 その意図を掴みあぐねているうちに、手にある剣が無造作に差し出される。
「持ってみるか?」
「え、遠慮します!」
「冗談だよ。可愛いルネリアに、こんなものを持たせるわけにいかない」
 呆気なくしまい込まれた矛先に、ルネリアはしばし目を瞬かせて立ち尽くす。わずかな思考ののち、向けられた柄が冗談だったことを知って、再び膨らむ頬は抑えようがない。
 笑いながら歩み出したオルテールの歩調は、先ほどよりも緩やかだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み