おもいゆき

文字数 1,724文字

 おもいゆき

 しんしんと音も無く降り積もる雪。
 それを見て、寂しいと思うのは何故だろう。

 コートの隙間から覗く喪服と線香の香り。客のまばらな新幹線で、青年はひとり車窓から雪を見ていた。

* * *

 半年ほど前のことである。
 青年は東京発盛岡行きの新幹線へと乗り込んだ。盆前の立て込む仕事を終わらせて、ようやくの帰省。席は指定だが、人の出入りが多く、落ち着かない。青年は雑踏から逃れるために目を伏せた。

 祖母に変化があったのは10年前。私はまだ高校生だった。当初は、ただの物忘れだと思っていた。そのうち財布を忘れ、用事を忘れ、趣味の手芸もやらなくなった。症状は日に日に悪化し、今では家族の顔すら判らない。

 祖母は、共働きの両親に代わって、私の側にいつもいてくれた。休みの日、祖母が作ってくれたチャーハンは、私にとって最高のご馳走で、何度もおかわりをした。その作り方は実に豪快!祖母は日本酒の一升瓶を片手で軽々と持ち上げ、親指で注ぎ口を調節するという技を見せてくれた。その姿はまるで、テレビの料理人のよう。幼い私の目にはとても魅力的に映った。『すごい!カッコイイ!』そう言うと、少し照れたように、歯を見せて笑っていた。いつも隣にいるのが当たり前で、そこが一番安心できる場所だった。

 半年ぶりの実家。帰省は盆と正月の二回が定番になっていた。
 就職先が東京に決まり、すぐに一人暮らしを始めた私には、新幹線を使って片道3時間の交通費は痛く、帰省は年に2回が限界だった。

「ただいま、おばあちゃん」

 祖母は振り返ることも無く、外を見続けている。すべてを忘れてしまった祖母は、今、幸せなのだろうか?せめて楽しい記憶の中にいてくれたらと、願わずにはいられなかった。

 その日の夜、私は夢を見た。
 濃い霧の中に一匹の黒猫。その猫は、私に気付くと前足をあげ、2本足でゆっくりと近付いてきた。

「いらっしゃいませ、私は思い出屋。あなたの望むものをご用意できますよ」

「思い出屋?それって、何?」

「そうですね、例えば、忘れてしまった思い出を、蘇らせることが出来たりしますよ」

「それって、おばあちゃんの記憶を戻せるってこと?」

「ええ、容易いことです。ただし、それをするには対価として、あなたの思い出をいただくことになりますが、それでもよろしいですか?」

「いい!それでもいい!おばあちゃんの記憶を戻して欲しい!」

 ……受け承りました。

 私は何かを叫びながら目を覚ました。
 しかし、一体何の夢を見ていたのだろう?全く覚えてはいない。

 それから半年後、祖母は亡くなった。

 亡くなる3ヶ月前から、急激に体が弱りだした。日に日に痩せ細り、その時が近いと素人目にもわかるほどだ。その頃には私も会社に事情を話し、有給休暇や週末を使ってなるべく実家にいるようにしていた。

 祖母は口数が少なかったが、穏やかな表情で、話しかけると必ず目を見て、優しい笑顔を向けてくれた。大好きだった祖母。でも、なぜだろう。祖母との思い出が出てこない。ずっと一緒にいたはずなのに。

* * *

 深く濃い霧の中に一人の老婦が立っていた。
 黒猫は老婦を見付けると、前足を上げ二本足で歩き、深々と頭を下げた。

「いらっしゃいませ、私は思い出屋。あなたの望むものをご用意できますよ」

「……孫に思い出を返してくれないかしら?」

「ええ、お安いご用です。ただし、対価として、あなたの思い出を全ていただくことになりますが、よろしいのですか?」

「ええ、私はもう上にあがる身ですし、幸せだったこの気持ちだけで十分です」

「その願い、承りました」

「あ、あとひとついいかしら」

「何でしょうか?」

「その……思い出を一気に返すのではなく、少しずつ、気付かないくらいゆっくりと……そう、雪が降り積もるみたいに、そっと返して欲しいのです。あの子は優しくて、とても弱い子だから心配で。あ、でも私、思い出を全部使うから、支払うものが何もないわ……」

「いいえ、大丈夫ですよ。対価はあなたのその、想いをいただきますから」

 霧は一層濃くなり、老婆と黒猫を包むと、青年に変化が現れた。消えた祖母との思い出が静かに心に降り始めたのだ。

 ゆっくりと、ゆっくりと、雪のように……
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