12 言葉と気持ちの伝え方について

文字数 5,467文字

「高見先輩、彼氏できました?」

 実験の片付けをしているところに、唐突に来栖から質問が投げかけられる。急だったことと、あまりにも予想外だったために、凪沙はすぐには反応できなかった。

「……いるけど、どうして?」

「何か、最近すごい女子感出てるんで」

「今まではなかったってこと?」

 失礼ともとれる言葉にも冷静に返すと、来栖は考え込むような素振りを見せる。ここで考えられてしまうと、肯定しているようなものだ、とちょっと可笑しくなった。

「今までもないわけではなかったんですけど、何かいつもと違うんですよね」

 具体的にこうっていうのはないんですけど、と付け加えると、その答えを知りたいのか来栖は一人で唸っていた。その答えは凪沙も気になるところではあったけれど、来栖の様子を見ると、彼女から答えが得られる雰囲気はなかった。
 自分としてはいつもとさして変わらないと思っているのだけれど、他者から見てそう感じるということは、自分では知らないうちに何か違いが生じているのだろう。元々、恋愛に溺れるタイプではないし、どちらかというと研究をしている方が楽しかったので————それが理由でフラれたこともあるけれど————彼氏ができても周りには気付かれないことの方が多かった。
 なので、来栖からそんなふうに言われるのは驚きだったけれど、悪い気はしなかった。むしろ、安心している自分もいた。
 どんどん柚月に惹かれていっているのは明白だったし、何より、すごく大切にされていることが実感できた。そう思えるのも正直初めてだった。

 自分の気持ちが変化していることに気づくと、それと同時に凪沙はあることが気になり始めていた。それは、今の凪沙にとっては気付かない方がよかったことかもしれない。けれど、一度はまってしまうと抜け出せなくなるのが凪沙の性格だ。そして、その被害に遭うのは、もれなくすずなだった。とはいえ、今回ばかりは、すずなにさえ相談できずにいた。






 ***





 凪沙の心情は、よく歩みに出る。気分が落ちていると、それがゆったりとしたものになるのだ。普段、一人で歩いているときは、何をそんなに急いでいるのかと思わせるほどなのに、気分が沈んでいる時は、進んでいないのではないかと言う表現が当てはまるほど鈍くなる。子どもが横に並んで歩いていたとしても、遅いと感じるだろう。

 その日、とぼとぼと帰り道を歩いていたところに、誰かが凪沙の肩を叩いた。振り返るとそこには柚月がいて、帰るところなのかと訊ねられたので、凪沙は頷いた。

「時間あるなら、ちょっとお茶しない?」

 新しく抹茶スイーツ専門店ができたので、そこに行かないかとのことだった。凪沙はここ数年、抹茶スイーツに目がなかった。そのことを柚月が知っていたのかどうかは定かではないけれど、凪沙はそのワードに食いついた。柚月は嬉しそうに笑うと、凪沙の手を取り歩き出した。










 お店に着くと、ほんの少し待った程度で、想像していたよりもすんなりと入ることができた。平日の夕方遅い時間だからだろう。
 席に案内され、メニューを開くと、凪沙は真剣な面持ちで写真と文字を眺めていた。時折、百面相もしている。
 メニューにはパフェ、シフォンケーキのような洋菓子もあれば、あんみつのような和菓子もラインナップ豊富に揃えられていた。もちろん、全て抹茶が用いられている。その素敵すぎる選択肢に、嬉しい気持ちと、悩ましい思いで表情がコロコロ変わっていたのだ。

「何で悩んでる?」

「うーんとね、このパフェとロールケーキかな」

「それなら、このロールケーキは小さいのもあって、それをパフェに乗せられるらしいよ」

「! それはすごく素敵だね!」

 自分の好きなものを目の前にしたときの凪沙は、まるで子どものように目を輝かせる。そんな表情が可愛くて、柚月は思わず笑みが溢れた。

「それにする?」

「うん! 西宮は何にするの?」

「俺はこれ」

 柚月はメニューを指差す。その先には見た目はパフェのようで、けれど一般的なパフェとは違い、白玉や小豆、抹茶ソフトがのった、あんみつをパフェにしたようなものだった。
 それも美味しそうだな、と凪沙はメニューを見比べる。また選択肢が増えてしまったようだ。眉を下げて頭を抱える凪沙の行動が面白かったのか、柚月はシェアすればいいよ、と笑った。






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 ————————






 せっかく美味しいものを食べて幸福感いっぱいだったのに、その費用を柚月がもったことに凪沙はご立腹だった。柚月と出かけて、お金を支払ったことがない。いつも知らないうちに支払いが終わっているし、それを自分も実践したいと思っても、いつも先を越されるのだった。
 先日ご飯をご馳走すると言って、結局行けずじまいだったので、今日こそは! と思っていたのに、結局実現しないのだ。一度支払いが終わると、絶対に柚月はお金を受け取ってはくれないので、どうしようもなく、凪沙は一人むくれていた。

「せめて割り勘にしてくれないと、もう一緒に出かけない」

「それは困るな」

 その言葉とは裏腹に、全く困っている様子もなく、柚月は何だか楽しそうだった。余裕そうに笑っていることも悔しくて、柚月から顔を逸らすと、「せっかくちょっと元気になったと思ったのに」と凪沙の腕を引く。

「凪沙、機嫌直して?」

 そう言うなら少しは譲歩してよ! と内心悪態をつきながらも、言葉にすることは自重した。ここで言い争いたくないという気持ち半分、そして残りの半分は落ち込んでいたことが柚月にバレていたことに対する恥ずかしさだ。お茶に誘ってくれたのも、凪沙の好きなものをチョイスしたのも、結局のところ柚月の優しさだったのだ。

「凪沙?」

 凪沙が嬉しい気持ちと照れくさい想いを噛み締めていると、自分の名を呼ぶ声が聞こえた。それは隣を歩く柚月の声ではなく、後ろの方から響く。凪沙が振り返ると、柚月もその声に反応するように後ろに顔を向けた。

「……海里(かいり)……」

 そこには、凪沙が飲んだくれて記憶をなくすきっかけとなった元カレが立っていた。別れて以来、会うどころか、連絡すらとっていなかったので、まさかこんなところで遭遇するとは思っていなかった。世間は狭い。
 何ともタイミングが悪いような気がした。何より、見かけたからといって声をかけてくれるな、というのが凪沙の本音だ。よりにもよって、柚月と一緒の時に会ってしまうなんて——————海里は柚月のことを気にする様子もなく、そして凪沙に対して何の気まずさも感じていないかのように話し始める。内容は、今度ゆっくり話したいということだった。今更何を—————と思ったけれど、とりあえずこの場を収束させるために、凪沙は了承すると、改めて連絡するとだけ伝えた。海里もそれで納得してくれたようで、笑顔を見せる。そこで初めて柚月を認識したかのように少しだけ会釈をすると、街中へと消えていった。

 海里の姿が見えなくなると、凪沙は一安心する。けれど、ほっとしたのも束の間、柚月の方を見るのが怖かった。それでも意を決して、ちらりと視線を見上げる。—————けれど、すぐにその視線を逸らした。やはり、機嫌が悪い。表情でそれを読み取ることができるレベルだ。
 声をかけようにも何といえばいいのかわからない。けれど、何か言わなければ、帰ることもできない。どうしたものかと思い悩んでいると、凪沙の腕を掴んでいた柚月の手に、力が入る。

「今の誰?」

「あ、えーと……」

「元カレ?」

 鋭い言葉に、凪沙は口籠もる。この場合、沈黙は肯定だ。
 凪沙の恋愛遍歴は柚月に筒抜けではあったけれど、紹介したこともなければ、写真を見せたこともない。話している雰囲気から察したのだろうか。柚月なら考えられなくもない。
 海里に遭遇してしまった動揺と間の悪さ、そして機嫌の悪い柚月に、凪沙は何と説明すればいいのだろうかと考えを巡らす。そんな中、不意にため息が聞こえた。見上げると、俯く柚月の顔が映る。その表情は不安そうな、寂しそうな色を浮かべていた。

「凪沙は、まだあの人のこと好きなの?」

「え?」

 俯いたまま、それでも表情は真剣そのものである柚月の言葉に、凪沙は面食らう。
 急に何を言い出すのだろうか。好き? 誰が、誰を? その答えが頭に浮かぶと、凪沙は鼻で笑いそうになった。もちろん、笑いが漏れそうになる間一髪のところで抑える。

「私が今付き合ってるのは、西宮だよ? 違う?」

「でも、俺は…半ば強引に付き合わせてるみたいなものだから……」

 凪沙から好きって言ってもらったことないし、と付け加えると、今度は握っていた手を緩める。凪沙の意思次第で、いつでも離れられると言わんばかりに。

 凪沙はそこでやっと腑に落ちた。原因は全て自分にあったのだ。
 伝わっていると思っていた。そう言ってしまうと、自分がいかに怠惰であったかが浮き彫りになる。柚月は、こんなにも想いを伝えてくれていたのに。

「もう、こんなに好きなのにな」

「え?」

「あ…」

 しまった、と凪沙は口を抑えた。思わず心の声が出てしまっていた。もちろん、柚月がそれを聞き逃すはずもなく、「本当?」と距離を縮める。

「少なくとも、西宮のことで一喜一憂できるくらいには好きですよ?」

「一喜一憂って何?」

「それは……」

 凪沙は口籠もった。落ち込んでいた理由を思い出して、それを柚月に話していいものか——————いや、柚月だからこそ言えなくて、悩んでいたのではないのか。柚月が関わることなのに。
 俯く凪沙の手を引き、柚月は人通りの少ない場所へと移動する。話しにくいのは場所のせいだと思ったのか、もしくは単に落ち着いた場所の方がいいと思ったのか。答えはわからないけれど、大通りを逸れ、脇道に入った柚月は、そこから少し歩いたところにある広がったスペースの一角に凪沙を座らせた。柚月はしゃがみ込み、凪沙と目線を合わせる。

「教えて、凪沙」

 話してくれないと帰れないよ、と付け足す。おまけに「俺はそれでもいいけど」なんてことも口にする。

「……怒らない? というか、今日で終わるかもしれない」

「は? 何それ」

 空気が変わる。怒らないか、と聞いた直後に怒られた気分だ。まだ何も言っていないのに。今からこの調子では、言うに言えない。それでも、柚月は先程よりも強めに凪沙に自供を促す。柚月の迫力に押されつつ、凪沙が少しずつ言葉を紡ぐ。

「あのね……」

 凪沙は一度口を閉ざした。言葉を選んでいるようだった。

「西宮……最近、何もしてこないでしょ? それって、私に魅力がないか、もう飽きたのか。それとも、付き合ってみたら、やっぱり思ってた感じじゃなくなったとか……」

 様子を伺うように、ちらりと視線を柚月に送ると、再び目線を逸らした。怒っている。先程とは違った不機嫌さで、顔を顰めている。
 だから言いたくなかったのに、と凪沙は泣き出したい気持ちになった。少し前の柚月の言葉も忘れ、お得意のネガティブ思考へと突入する。帰りたい。柚月の返事も聞かずに家に帰り、今日のことはなかったことにしてしまいたい。そう思うのに、足は動こうとしない。おかげで、柚月の深いため息を聞く羽目になる。凪沙はそれを、終了の合図かのように聞いていた。

「俺は、凪沙の気持ち無視して、暴走して、嫌われたくなかったんだよ」

「へ?」

 予想外な柚月の言葉に、凪沙は間抜けな声が出る。柚月の声はやはり不機嫌さを醸しているのに、改めて見た顔は、何やら気まずそうな表情を浮かべていた。

「でも、……私たちシてるんだよね?」

 であれば、何を今更、といった様子で凪沙が首を傾げる。

「……最後まではヤってないよ」

 いくら好きな人が目の前にいて、無防備な姿を晒していたとしても、最後まで至るほど理性がないわけではなかった。自分だけが記憶しているという寂しさも感じていたのかもしれない。
 それでも、相当キツいものはあったけれど……

「キスしてこなくなったのもそのせい?」

「ちょっとでも触れると、抑え効かなくなりそうだったからな。それに俺言ったよね? 凪沙の気持ち知るまでは手出さないって」

 忘れたの? と柚月が悪戯っぽく笑う。まだ眉は下げたままだったけれど。
 柚月の言葉に、凪沙は心の靄が晴れていくのがわかった。悩みの種は自分が作っていたのだ。もっと早く自分の気持ちを伝えていれば、柚月のことも悩ませずにすんだのに。重ね重ね申し訳ない気持ちでいっぱいだった。それでも、悩み事が解消されて、凪沙はスッキリした気分だった。

「俺に触れられなくて、不安だったの?」

 柚月はいつもの意地悪な口調に戻っていた。先程までの重い空気もどこかに行っていて、心なしか表情もいたずらっ子のようなものになっている。
 凪沙はその余裕そうな表情にまたしても悔しさを感じたけれど、反抗する気にはなれず、俯いたまま小さく頷いた。
 すると突然、柚月に腕を引かれ、気づいた時には柚月の腕の中にいた。

「このまま連れて帰りたい」

 その言葉に凪沙が反応する前に、柚月は冗談だと言って笑った。柚月は立ち上がり、家まで送る、と歩き出す。けれど、一歩足を踏み出したところで、柚月の足は止まった。——————いや、止められたのだ。見ると、凪沙が柚月の腕を掴んでいる。

「……いいよ?」

 微かに聞こえた声に、柚月は目を見開く。

「それ、意味わかって言ってる?」

 凪沙が頷くと、柚月は自分の腕を掴んでいた凪沙の手を取ると、凪沙の家とは反対方向に歩き出した。
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登場人物紹介

*高見 凪沙(たかみ なぎさ)

修士2年(M2)

保全生態研(保生研)所属

負けん気が強く、時々口調が荒くなる

柚月を天敵だと思っている

*西宮 柚月(にしみや ゆづき)

修士2年(M2)

進化生物研(進生研)所属

頭が良く、面倒見もいい

凪沙をいつも揶揄っているが、気持ちを伝えてからは溺愛が過ぎる

*新野 すずな(にいの すずな)

修士2年(M2)

木質構造研(木構研)所属

凪沙の友人

凪沙と柚月とは学部時代からの仲

クールで、凪沙とは性格が真逆

凪沙に対しては少し冷たい一面も

*三上 大輔(みかみ だいすけ)

博士課程1年(D1)

木質構造研(木構研)所属

すずなと研究室が同じ先輩

凪沙とも仲がいい

フランクな性格だが、浮ついた噂が後を立たない

✳︎来栖 愛里紗(くるす ありさ)

修士1年(M1)

保全生態研(保生研)所属

凪沙の直属の後輩

もったりとした喋り方が特徴

可愛いもの好き

でも虫なども平気で触れる

酒豪

✳︎水沢 修平(みずさわ しゅうへい)

修士1年(M1)

進化生物研(進生研)所属

柚月の直属の後輩

凪沙とも仲が良い

穏やかな性格で頭もいい

凪沙と仲がいいことで、柚月から少し羨ましがられている部分もある

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