10-1 事件と犯人の信憑性について(前編)

文字数 3,891文字

 その日、柚月は午後から大学を訪れた。午後と言っても、大学に着いたのは午後3時を過ぎた頃だった。
 大学に着くとすぐ、すずなと遭遇した。すずなは後輩を連れて研究室に戻るところのようで、今来たばかりの柚月とは違い、本日の予定を全て終え、あとは片付けだけなのだと挨拶がわりにそう告げた。その言葉が皮肉に取れなかったのは、次にすずなが口にした言葉の方が、柚月にはよっぽど嫌味に聞こえたからだ。すずなは意味深な笑みを浮かべて『よかったね』と言った。
 いいことがないどころか、むしろ柚月にとって状況はかなり悪いものだった。詩織(しおり)—————久我のことだけれど—————のことを弁解しようにも、あれ以来、凪沙と話せていなかった。

 詩織とは両親が友人同士で、いわゆる幼馴染の関係だった。
 許嫁というのも、二人が小さい時に親が冗談半分で話していたことで、もう誰もそれについて本気にしている人はいなかった。—————詩織だけを除いて。
 詩織は、柚月より二つ年下で、現在大学4年なのだけれど、卒業したら柚月と結婚するのだと一人で勝手に盛り上がっているとのことだった。柚月が家を出てから、詩織とは会う機会も減っていたし、それも半分冗談だと思っていた。けれど、日が経つにつれ、それはどんどんエスカレートしていた。相手にするのも面倒で、放っておけばそのうち熱も冷めるだろうと高を括っていたのだけれど、凪沙に対してそれを提言されたのは少しばかり痛手だった。決してやましいことはない。どちらの両親にも、はっきりと断りを入れ、詩織の親からも気にすることはない、こちらで何とかする、と約束を取り付け、この件は柚月の手から離れていった。あとは、話すことさえできればそれで解決できるのに、なかなかそれが叶わなかった。
 タイミングが悪過ぎた。まだ関係性が安定していないこの状態で、弁解の余地もないまま時間が過ぎることは、何としてでも避けたかった。
 けれど、柚月の想いとは関係なく、時は無情にも刻々と進んでいった。

 そんな中での、すずなからの言葉は不可解以外の何者でもなかった。
 けれど、教授に報告に行くからと、すずなは何の説明もせず、後輩を連れ、エレベーターへと乗り込んだ。人数が多く、柚月が乗れる余裕がなくなった箱を、柚月は一旦見送ることにした。


 階段で5階まで上る選択肢もあったけれど、考え込んでいる間に、上に行っていた箱が戻ってくる。柚月は促されるように、開いた扉の中へと吸い込まれた。
 いくら考えても、答えには辿り着けそうにはなかった。すずなが柚月にそのような言葉をかけるとすると、その内容は限られているのだけれど、それを加味したとしても、『よかったね』と言われる覚えはなかった。

 エレベーターの扉が開き、そこで現実に戻る。ふと顔を上げると、自分が降りる階の数字が光っていて、柚月は扉が閉まる前にエレベーターを降りた。
 そこへ慌てたように、見知った顔がやってくる。エレベーターに乗りたいのだと思い、柚月は扉を手で抑えた。走ってきた彼は、柚月の顔を見るなり、苦虫を潰したような表情を浮かべた。柚月は不思議に思ったけれど、その彼は柚月に会釈だけして、そのままエレベーターの中に消えていった。

 生物生産工学研究室、通称生産研に所属している笹山(ささやま)は、柚月たちとは同期で、彼も学部からそのまま進学した組だ。決して仲がいいとは言い難いけれど、顔を合わせるなり、あんな顔をされたことは今までになく、何かしてしまったのだろうかとも考えたけれど、それができるほど関わりがなかった。

 今日は一体どうしたというのだろうか。謎は深まるばかりだ。極めつけは、研究室に到着した時の光景だった。
 研究室には数人の学生がいて、そこにいる全員が集まって談笑していた。普段、研究室内では雑談するようなことは滅多にないので、違和感を感じた。
 その中の一人が柚月に気づくと、すずなとは別の種類の意味深な笑みを浮かべる。

「先輩、遅いっすよ」

「?」

「高見先輩、すっごいかっこよかったのに」

 みんなが揃いも揃って同じことを口にする。柚月には何のことかさっぱりわからない。ニヤニヤ、という表現がしっくりくる表情を浮かべている彼らを横目に、今日は仏滅か何かか、なんてことを考えながら、柚月は自分のデスクに荷物を置き、椅子に腰掛けた。
 それを待っていたかのように、一つ下の後輩が口を開いた。







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 —————————






 時間が遡ること、ちょうど今から9時間前。早朝に事件は起きた。事件というほど、仰々しいものではないのかもしれないけれど、凪沙にとっては大事(おおごと)だった。
 この日もいつも通りに朝のサンプリングのために、実験室で作業していた。もはや日課と言っても過言ではないその作業は、準備を含めて一時間もかからないうちに終わってしまう。その後は、夕方まで特に予定もなく、一度家に戻ることも考えたけれど、せっかく時間があるので、データの整理をしようと、研究室へと戻った。

 凪沙の研究は、メインテーマ一つとサブテーマが二つで構成されていた。それとは別に、後輩の指導にも当たっていたのだけれど、凪沙が主に行っている研究はその三つだ。研究ごとに実験ノートを分け、それとは別にデータをUSBに保存していた。もちろん研究室の備品であるパソコンにもデータを随時入れていたけれど、万が一の時のために、USBにもデータを保管していた。
 さらに、共通機器を使用した際に、データを移行する時に用いるUSBもそれぞれで用意している。そこまでする必要もないのだけれど、凪沙の性格上、これがデフォルトだった。

 三つの研究のうち、サブテーマの一つのデータ更新が滞っていたので、このタイミングで行うことにした。けれど、解析前の元データを入れたUSBが見当たらない。今まさに、必要としているものだけがなくなっていた。
 USBはまとめて袋に入れているのだけれど、その中から一つだけが見つからない。どこか別のところに仕舞ったのだろうかと、考えられるところを全て探してみたけれど、やはり見つからなかった。

 凪沙は基本的に、全てのものにパスワードをかけるように癖がついていた。なので、データが盗られる可能性は低い。また、幸か不幸か、そのUSBは最近新しいものに変えたばかりで、まださほどデータは入っていなかった。加えて、保生研で所有している機械を用いたデータしか入っていないはずだった。共通機器の場合、基本的にはデータを取り出した後は、データを削除し、残さないようにすることとなっている。それでなくとも、定期的にデータは消去され、データが重くなって、機械が故障する可能性を防いでいた。自分たちの研究室で所有している機械の場合、そこまで厳重ではなく、使用頻度も共有のものよりは限られているため、もう一度データを取り出すことは可能だった。
 それでもやはり、あったものがなくなるというのは気持ち悪い。時間もあることだし、凪沙はもう少し探してみることにした。


 研究室は一通り探し終わった凪沙は院生室に行き、自分のデスク周辺を探した。
 院生室は、専攻別に部屋が分けられ、大学院生一人ひとりにデスクが与えられる。デスクの場所は空いているところであれば、自分で自由に選ぶことができ、凪沙も入学時に自分のデスクを選択していた。
 凪沙が院生室に行くと、数人がそこで作業していたのだけれど、凪沙の行動を不思議に思ったのか、どうしたのかと訊ねてくれた。凪沙はUSBがなくなって探しているのだと言い、もし見かけたら教えて欲しいと、ざっとした特徴を伝えた。
 院生室の自分のデスクにもやはりそれは見つからなかった。



 鞄の中ももう一度探し、行きそうな実験室も行ってみたけれど、やはり見当たらない。
 途中、院生室に行くというすずなに遭遇し、USBを見なかったかと聞いてみたけれど、見ていないとのことだった。見かけたら連絡すると言って、すずなは院生室の方へと向かった。
 もしかすると、家に置いてきたのかもしれない。けれど、それを入れた袋を持ち帰ることはほとんどなかったので、可能性としては低かった。

 半ば諦めモードになっていた。それでも最後の望みとして、家にあることを願い、凪沙は研究室に戻ろうとした。そのタイミングで、すずなから連絡が入る。確認すると、凪沙の探し物が見つかったとのことだった。驚きながらも、さらに下にスクロールすると、『院生室にいるから来るように』とあり、凪沙は不思議に思いながらも、指定された場所へと向かった。





 院生室に到着し、扉を開けようとした凪沙は、一瞬ドアノブに触れることを躊躇った。扉の一部がガラスのようになっていて、中を覗くことができる。そこから、すずなと笹山が向き合い、何やら話している様子だった。

「どうして凪沙のUSBがなくなったこと知ってるの?」

「高見が誰かに話してるのが耳に入ったんだよ」

「じゃあ、どうしてそれが凪沙のだってわかったの? どうして、わざわざここまで来て、しかも柚月(他人)の机まで探してくれたの?」

 すずなはたじろいでいる笹山を見て笑った。

「詰めが甘いんだよ」

 入りにくい空気ではあったけれど、凪沙は扉を開けて院生室へと足を踏み入れる。凪沙には二人の会話はほとんど聞こえていなかったけれど、すずなの雰囲気から、すずなが怒っているということだけはわかった。
 凪沙がそばまでやってくると、すずなはことのあらましを話した。
 凪沙のUSBは、院生室の柚月の机から見つかったとのことだった。
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登場人物紹介

*高見 凪沙(たかみ なぎさ)

修士2年(M2)

保全生態研(保生研)所属

負けん気が強く、時々口調が荒くなる

柚月を天敵だと思っている

*西宮 柚月(にしみや ゆづき)

修士2年(M2)

進化生物研(進生研)所属

頭が良く、面倒見もいい

凪沙をいつも揶揄っているが、気持ちを伝えてからは溺愛が過ぎる

*新野 すずな(にいの すずな)

修士2年(M2)

木質構造研(木構研)所属

凪沙の友人

凪沙と柚月とは学部時代からの仲

クールで、凪沙とは性格が真逆

凪沙に対しては少し冷たい一面も

*三上 大輔(みかみ だいすけ)

博士課程1年(D1)

木質構造研(木構研)所属

すずなと研究室が同じ先輩

凪沙とも仲がいい

フランクな性格だが、浮ついた噂が後を立たない

✳︎来栖 愛里紗(くるす ありさ)

修士1年(M1)

保全生態研(保生研)所属

凪沙の直属の後輩

もったりとした喋り方が特徴

可愛いもの好き

でも虫なども平気で触れる

酒豪

✳︎水沢 修平(みずさわ しゅうへい)

修士1年(M1)

進化生物研(進生研)所属

柚月の直属の後輩

凪沙とも仲が良い

穏やかな性格で頭もいい

凪沙と仲がいいことで、柚月から少し羨ましがられている部分もある

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