04-2 苦手なものとその効果について(後編)

文字数 2,672文字

 何の巡り合わせなのか、天の悪戯か。距離を置きたいときに限って、関わる理由ができてしまう。心模様と同じように空も曇り、雨の一つでも降ってくれればいいのに—————天気さえも味方してはくれない。むしろ、嫌味なほどに晴れ渡っていた。雲一つない晴天だ。

 そんな午後の昼下がり、フィールドワークに出るという進生研の人たちに混ざって調査をしてくるようにと、保生研の教授(ボス)からお達しがきた。進生研の教授にも、研究室のメンバーにも話は通してあると言う。それならば、こちらにも前もって知らせてほしいと思うのだけれど、そんなのは日常茶飯事なので、文句を言ったところでどうにもならないことも知っていた。
 いつ出動命令がかけられてもいいように、ロッカーの中にはいつもフィールドワーク用の服類が入っていた。トレッキングシューズも、軽く登山ができるほどの装備を携えたリュックも常備されている。重装備で挑む必要のないフィールドワークもあるけれど、今日はきちんと

する必要があるらしい。
 凪沙はお気に入りのダークグリーンのジャケットを羽織り、靴を履き替えた。

 進生研の人たちのフィールドワークに同行させてもらうのはこれが初めてではない。なので、特に説明は必要なかった。今回の彼らの目的を把握し、こちらの要望に関しても伝えてから目的地へと向かった。

 進生研からは柚月を含め、その他5名が参加していた。
 保生研からは凪沙と、来栖が駆り出された。来栖とはいうのは、先日の院生飲みの際に、凪沙に絡んできていた酒豪(後輩)だ。彼女も突然の招集だっただろうに、凪沙と同じ手段を取っているのか、格好は万全だった。



 保生研の今回のフィールドワークの目的はというと、自然界で捕食された木の状態を調査することにあった。森林の状態は、雨や風などによる風化によっても、その状態は影響を受ける。森林は一つひとつの木から構成され、それが山を形成している。その構成要素の木が一つでも蝕まれてしまうと、連鎖的に他の木にも影響を及ぼしかねない。それはすなわち、その森林一体を滅ぼすと言っても過言ではないのだ。

 ということで、保全目的と現状把握、可能であれば早期発見のための試料採取、そして新たな品種がどこまで侵食されると伐採対象になるのか————以上、大まかに分けて4つの確認を兼ねてのフィールドワークだった。
 特に、木の内部に巣が作られているような場合、素人にはわかりにくいため、その手のプロとも言える進生研の人たちとはよくフィールドワークに同行させてもらっていた。




 フィールドワークは元々、わいわいと楽しく行うものではないけれど、凪沙はこの日まだ一度も柚月と口を聞いていなかった。何もこの日に限った話ではないけれど、とても話しかけられる雰囲気ではなかった。他の人たちとは普通に話をしているようだったので、尚更気まずさが募る。
 けれど、全体の雰囲気は悪くなさそうだったので、一人気にしても仕方ないと仕事をこなしていった。何か別のことに集中していた方が気が紛れると思ったことも否定はできない。



 この日は思いの外作業が順調に進み、もう少し範囲を広げてみようということになった。それは凪沙もまだ足を踏み入れたことがない場所で、そこに何が広がっているのか好奇心でいっぱいだった。————けれど、凪沙はすぐに後悔することになる。





 先程まで調査をしていた地点から少し進むと、水の音が聞こえてきた。微かに耳に届く程度だったものが、歩みが進むにつれ、音の発信源もわかるようになる。その音の方に向かうと、川が流れている場所に突き当たった。
 川が見つかった時点で————いや、水の音が聞こえてきた時点で、凪沙は嫌な予感がしていた。森の中でフィールドワークをしていると、たまに遭遇するのだけれど、今日は

だったようだ。
 さらに進むと、川の上流には橋があり、先に行くにはその橋を渡らなくてはならないようだった。

 その橋は吊り橋ほど不安定なものではなく、しっかりとした作りで手すりもついていた。けれど、高さがあり、その下には先程から耳を流れていた川が見える。水は透き通り、底まで見通すことができた。
 あまりの綺麗な風景に、一同のテンションは上がる。盛り上がりを見せる中、さすがに全員で通れるほどには大きな橋ではないため、突っ込んでいきそうになっている彼らを柚月が制すと、一人一人順番に渡るようにと指示を出した。

 まず、進生研のメンバーが先に進み、次に来栖がその橋を渡る。最後は柚月が渡ることになっていた。
 順当に来栖まで橋を進んだところで、配列に乱れが生じる。見ると、凪沙が立ち止まったまま、一向に進む気配を見せない。凪沙に対して機嫌の悪い柚月が痺れを切らし、先に行くとだけ伝えて橋に足をかけた。
 しかし、一歩だけ踏み出されたまま、柚月の足はそれ以上には進まない。

「は?」

 何かに袖を掴まれ、進めなくなった柚月は悪態をつきながら振り返る。もちろん、柚月の袖を掴んでいるのは凪沙で。
 振り返ると、目を瞑って、震えている凪沙の姿が目に飛び込んできた。

「え……? もしかして、怖いの?」

 そう。凪沙は、高所恐怖症なのだ。高所、というか地に足がついていない感じが、どうしようもなく怖かった。橋なんかはもってのほかで、足が震えて、進もうにも動けなかった。
 恐怖で、柚月の言葉への返答もままならない凪沙は、それでも柚月に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだった。足を引っ張っているのが明白だったからだ。
 そんな自己嫌悪に陥っている最中(さなか)、頭上から舌打ちが聞こえる。もちろん、誰が発したものかは明白で。この高さからくる恐怖と、柚月の苛立ちでどうしようもなくなった凪沙は泣き出しそうだった。

「ごめんね、西宮……迷惑かけて……大丈夫だから、先に行って?」

 強がりいっぱいに震える手を離そうとすると、反対にその手を掴まえられた。

「こういうのは迷惑って言わないんだよ。そういうとこ、ほんと不器用だよな」

「掴まって、俺だけ見てろ」と言って、凪沙の手を優しく包み込むと、柚月はゆっくりと歩き出した。渡り慣れているのか、柚月の足取りに迷いはない。それに、凪沙が怖くないように、渡りやすいように、気を配りながら進んでくれていることが伝わってきて、久しぶりに柚月の優しさに触れたような気がする凪沙だった。そんなことに安堵する。

 途中、「凪沙からくっついてくれるなら、こういうのも悪くないね」なんて冗談を言っていたのは、それも柚月なりの優しさの一つだということにしておいた。
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登場人物紹介

*高見 凪沙(たかみ なぎさ)

修士2年(M2)

保全生態研(保生研)所属

負けん気が強く、時々口調が荒くなる

柚月を天敵だと思っている

*西宮 柚月(にしみや ゆづき)

修士2年(M2)

進化生物研(進生研)所属

頭が良く、面倒見もいい

凪沙をいつも揶揄っているが、気持ちを伝えてからは溺愛が過ぎる

*新野 すずな(にいの すずな)

修士2年(M2)

木質構造研(木構研)所属

凪沙の友人

凪沙と柚月とは学部時代からの仲

クールで、凪沙とは性格が真逆

凪沙に対しては少し冷たい一面も

*三上 大輔(みかみ だいすけ)

博士課程1年(D1)

木質構造研(木構研)所属

すずなと研究室が同じ先輩

凪沙とも仲がいい

フランクな性格だが、浮ついた噂が後を立たない

✳︎来栖 愛里紗(くるす ありさ)

修士1年(M1)

保全生態研(保生研)所属

凪沙の直属の後輩

もったりとした喋り方が特徴

可愛いもの好き

でも虫なども平気で触れる

酒豪

✳︎水沢 修平(みずさわ しゅうへい)

修士1年(M1)

進化生物研(進生研)所属

柚月の直属の後輩

凪沙とも仲が良い

穏やかな性格で頭もいい

凪沙と仲がいいことで、柚月から少し羨ましがられている部分もある

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