13 相談とすれ違いの相互作用について
文字数 5,583文字
凪沙の周囲では、就活人口が増えつつあった。企業等であれば大学院の就活も、新卒採用として学部生と混ざって就職活動を行う。
説明会に参加する人もいれば、すでに選考が始まっている人もいた。
すずなに聞くと、本命はまだだけれど、何社か受けていると言っていた。
凪沙がリクルートスーツを着て学部生に混ざると、おそらく院生ではなく、学部生に見られるだろうけれど、すずなの場合、リクルートスーツですら、そうは見られないのだろうなと思った。悲しいような、羨ましいような。
とはいえ、凪沙は博士課程への進学を考えていて、就活前線からは外れていた。けれど、それも決定事項ではなく、お金がかかることなので、理想と現実の狭間で葛藤していた。
柚月はどうするのだろうか。凪沙と同じく、柚月も就活しているような雰囲気はなかった。柚月なら、進学という選択肢もあるような気がした。そうであればいいなと思った。むしろ、そうであってほしかった。
「ねぇ、西宮は修士終わったらどうするの?」
珍しくお昼の時間が被り、凪沙と柚月は一緒にお昼ご飯を食べていた。
そんな折、凪沙から突然投げかけられた質問に、柚月は驚いた表情を浮かべる。柚月は、口に含んでいた物を飲み込み、お茶も流し込むと、いつもの表情に戻った。
「俺は就職するよ。今、研究で関わりあるとこからも声かけてもらってて」
「あ、そうなんだ……」
凪沙は表面に出そうになる心情を、ギリギリのところで抑え込む。気持ちの暗い部分は笑顔で隠した。
柚月は、同じ質問を凪沙にも訊ねたけれど、悩み中なのだと誤魔化した。
***
会わない時は本当に全くと言っていいほど会わないのに、会い始めると、今度は途端にその回数が増える。
今は、大輔がその一人だった。
「若者よ。何か悩んでるみたいだな」
院生室にて、修士論文のデータをまとめていた凪沙の元にやってきた大輔は、「お兄さんに話してみなさい」とない髭を撫でるような仕草をした。一つしか変わらないのに、その口調は大輔の流行りなのだろうか。
いつもふざけているし、今だってその喋り方は真面目なものではないのに、こういうところはどうしてかいつも鋭い人だった。凪沙がわかりやすいのかもしれないけれど、今回に限っては、表に出さないようにしていたつもりだ。
「真面目な話してもいいですか?」
「俺はいつだって真面目に話してるよ」
それがすでにふざけているのだけれど、気にしないことにした。
「大輔先輩は、学生と社会人の恋愛ってうまくいくと思いますか?」
「うーん、それはケースバイケースだな……ってそれだと、どんなことでも当てはまるか」
そう言って笑うと、大輔は凪沙に社会人と付き合っているのかと聞いた。そうではないのだと、否定する。
「私、進学を考えてるんですけど、向こうは就職するって言ってて。何か勝手に進学するんだと、安心しちゃってたんですよね」
「安心?」
「学生と社会人って、どうしても壁ができちゃうじゃないですか。社会人一年目とか、慣れないことも多くて大変だろうし、相談されても働いたことないからちゃんとしたことも言えないし。支えられるのかなとか、そもそも話してくれるのかなとか、そんなことばかり考えちゃうんです」
「ちゃんとしたことってのは、よくわからんけど、何かトラウマがありそうだな。でも、付き合う人が変われば、結果も変わると思うけど。そいつはそんな信じられないやつなの?」
「信じてないとかじゃなくて……嫌われるのが怖いんだと思います」
ふと、大輔は考え込む仕草をすると、何かを思い出したように顔を上げた。
「あれだ。高見の彼氏って、西宮だろ」
「どうして知ってるんですか?」
やっぱりか、となぜかドヤ顔をする。情報源は不明だけれど、風の噂とやらで聞いたらしい。
凪沙が柚月と付き合っていることを知ると、大輔は何かをぶつぶつ言いながら頷いていた。
「そうか、あいつ就職組か。博士まで取るのかと思ってたわ」
「そうなんですよ。私もそう思ってました」
「ま、もしそれでフラれたら、俺のところに来ればいいよ」
先程まで珍しく真面目に答えてくれていたのに、その空気を変えるためなのか、大輔の真面目タイムが限界を迎えたのか、いつも通りの軽口を叩く。
「さすが、大輔先輩」
「本気なんだけどな」
呟くように言った大輔の言葉は、凪沙には届かなかった。聞き返そうとしたけれど、大輔が先に口を開く。
「高見の恋愛って、もっと淡泊かと思ってたけど、ちゃんと相手のこと想えたんだな」
何か安心したよ、となぜか哀愁を漂わせていた。それもふざけているように見えて、凪沙は笑っておいた。
***
正直、あの二人は絶対にくっつかないと思っていた。すずなは応援していたようだったけれど、凪沙が柚月に好意を抱くことはないと思って高を括り、余裕をかましていたら、このザマだ。
けれど、それもいつまでも続くというわけでもない。今、凪沙は不安を抱えていて、それが解消されない限りは、この問題はいつまでも付き纏う。少なくとも、あと三年はある。その間に、チャンスはいくらでもあるだろう。向こうの距離が離れる分、こちらが有利になる。一生共有できない三年という時間を、こちらは得られるのだ。
それでもダメな時は……その時はその時だ。
研究室に戻ろうとしていると、目の前を見慣れた人物が歩いていた。何ともタイミングがいい。少しばかり、かき回してやろう。ちょっとくらいなら、バチは当たらないだろう。
「よ、西宮」
「……三上先輩、お疲れ様です」
振り返った柚月の顔は、あからさまに嫌そうな表情を浮かべていた。わかりやすくて、可愛いものだと大輔は思った。
「西宮、就職するんだってな」
「……」
「お前も高見と一緒で、進学するんだと思ってた」
「は?」
先輩に対して無言を決め込んでいたのに、凪沙の名前を出すと、すぐに反応するのだから、大輔は笑いを禁じ得なかった。
これは面白い、と大輔はさらに意地悪心に火がつく。
「学生と社会人じゃあ、時間軸が変わるからなぁ。それにあいつ、友達でも彼氏でも、働いてるやつにあんまりいい思い出ないだろうし。学生の間は、疎遠になるかもなぁ」
「……」
「社会人と付き合うなんて、もっての外だろうなぁ」
「……それ、凪沙が言ったんですか?」
「ん? あぁ、何か悩んでるぽかったけど」
柚月の表情が歪む。大輔は笑いを堪えながら「俺が言ったことは内緒な?」と付け足した。
この程度で二人がどうにかなるとは思わないけれど、だからこそ、このくらいのことは許されるだろうと思った。
柚月とはそこまで関わりがなかったし、何より嫌われているだろうことは気づいていた。けれど今日、柚月と話してみて、大輔は柚月という人間が少し好きになった。いつもはすましているくせに、意外と人間臭いやつだなと思った。
***
凪沙は、柚月の家の前で立ち往生していた。インターホンを鳴らそうと思って、もうすでに10分は経過している。その間、マンションの住人は出入りしていないけれど、ちょっと間違えれば完全に変質者だ。
なぜ、そんなことになっているのかというと、実験が終わり、帰り支度をしている時に柚月からメッセージが入ったことに起因する。届いたメッセージは、ただ一言『今日、家来て』とだけ書かれてあった。その文章自体におかしなところはないのだけれど、何となく雲行きの怪しい気配を感じた。それは、凪沙が柚月に対して後ろめたい————この場合は、まだ自分の気持ちが落ち着いていないので、顔を合わせづらいというのが適当だ————ことがあるからそう感じるのか。面と向かって話していないと、そういう感情のようなものが、受け手側の作為をいくらでも操作できるから厄介だ。
というわけで、断ることもできず、とりあえず来てみたはいいけれど、乗り込むこともできず、今に至るというわけだ。どうしたものかと思案を続けていると、スマホが鳴り、着信を知らせる。ディスプレイには “柚月” の文字。
凪沙は恐る恐る電話に出る。
『今どこ?』
「えーとね……ちょうど今着いたとこ」
少しだけ嘘をついた。けれど、柚月は気にする様子もなく、オートロックを解除する。さすがにもう逃げ場はないので、意を決して凪沙は足を踏み入れる。ある意味、敵地に乗り込もうとする心持ちだ。
しかし、なぜこんなにビビっているのか。そもそも柚月が呼び出した理由も、それほどの意味はないものかもしれない。夕飯を一緒に、くらいの内容かもしれない。そう思おう。それがいいに違いない、と自分に言い聞かせた。
けれど、気持ちの浮上は儚くもすぐに打ち砕かれる。
柚月の部屋に入り、リビングに案内されると、柚月はテーブルにココアの入ったマグカップを置くと、ソファに腰掛け、凪沙も座るように隣をトントンと叩いた。その雰囲気は明らかに怒っているもので、逆らうのも、従うのも遠慮したかった。それでも、やはり今以上に怒らせる方が怖いので、少し距離を置いて隣に座る。
「凪沙、俺に隠してることない?」
「?」
質問の意図がわからず、凪沙は答えに窮する。
「進学するらしいな」
「な! ……なんでそのこと……」
「三上先輩に聞いた」
油断していた。大輔が柚月と話すとは思っていなかった。なぜそういう話になったのかはわからないけれど、必要最低限のことしか話さないくらいの仲だと思っていたので、想定外だった。そこから漏れるとは思わなかった。
「俺に言えなかったのって、俺が就職するって言ったから?」
「……」
凪沙は何も返せなかった。上手く取り繕う言葉が何一つ出てこない。取り繕う必要はないということもわかっている。こんな時に、取り繕おうとしてしまう自分も、それが上手くできない自分も嫌いだった。
「何で、俺に話してくれないんだよ」
「……言えるわけないじゃん」
言えないから悩んでいるというのに。どうするのが正解だったのか、そもそも正解なんてあるのか。あるなら教えてほしい。
「他のやつと一緒にすんなよ。距離ができただけで、終わるような関係だと思ってんの?」
大輔がどこまで柚月に話したのかはわからないけれど、少なくとも凪沙の進学の話だけではないということだけはわかった。
今日、この家についてから、柚月の機嫌はずっと悪いままで、不安が積もり積もっている凪沙にとってはキャパオーバーで、今にも爆発しそうだった。
「そんなのわかんないでしょ。どっちかというと、変わるのは柚月の方だからね」
「信じろよ」
「信じたいよ!」
どうしたらいいの……
どうすれば、柚月の隣にずっといられると思えるようになるのだろうか。人の心というのは、言葉ほど単純なものではないのだ。
凪沙は口を閉ざして、俯いてしまう。柚月も口を開こうとせず、そこにはただ沈黙が広がっていた。
物理的距離がなくても離れていってしまう人の心を、どうやって引き留めておくことができるのだろうか。社会に出て、新しい環境で、新しい出会いがあって、凪沙が向こう三年ほとんど変わらない生活を送っていく中で、柚月の気持ちが変わらないとは思えなかった。自分よりも柚月に相応しい人はもっといて、そんな人と出会ってしまったら、捨てられるのは自分だ。
またしても陥るネガティブループに、仮定レベルの未来のことを考えるだけで怖かった。
「一緒に住む?」
負のスパイラルに囚われていた凪沙は、柚月の言葉に我に返り、目を丸くして柚月を見る。柚月は真剣な表情を浮かべていて、どうやら聞き間違いでも、冗談でもないようだった。
「それは、嫌」
「は?」
「誰かと一緒に住むとか想像できない」
「いずれ結婚したらそうなるんだし、今からそんなこと言っててどうするんだよ」
その言葉に、凪沙は再び目を見開く。
けっこん? 血痕? いや、結婚のことだろうか。
「えーと……結婚って、誰と誰が?」
「凪沙と俺」
「西宮、結婚するの?」
「凪沙は考えてないの?」
「……考えてないというか、西宮が考えてたことが意外だったというか、」
「俺は、凪沙と付き合う前から考えてたよ」
凪沙が戸惑っていると、柚月は空いていた距離を詰める。その勢いに押され、思わず後ろに下がったけれど、肘置きがそれ以上の逃亡を阻止する。
「正直に言うと、俺は今すぐにでも籍入れたいと思ってる。もし、それで凪沙が安心してくれるなら尚更。でも現実、今はまだ学生で、養うこともできないから、その辺はちゃんと自立してからがいいと思ってて」
その口調は、いつもの柚月に戻っていた。根が真面目というか、けれどまさかそんなことまで考えてくれているとは思わなくて、正直驚いた。それでも、単純に、ただ単純にその気持ちは嬉しかった。嬉しい気持ちとは反面、今すぐに同棲と言うことはやはり考えられなかった。何より、柚月の負担になりなくなかった。
「じゃあ、西宮の仕事が休みの時は、どっちかの家に泊まるっていうのはどう? もちろん毎回じゃなくてもいいし、西宮が一人で休みたい時は——————」
「仕事がある日でも、凪沙に会えるなら、その時間は買ってでも欲しい」
「慣れない環境だと絶対しんどくなるから、一人の時間も欲しくなるって」
「凪沙に会えば癒される」
「西宮のこと思って言ってるんだから、ちょっとは譲歩して! 会いたくないって言ってるわけじゃないんだから」
柚月は納得したのか、頷いた。そして、ご飯食べてくだろ、と言ってキッチンへと消えた。その足取りは軽やかで、なぜかご機嫌に鼻歌まで唄っていた。
説明会に参加する人もいれば、すでに選考が始まっている人もいた。
すずなに聞くと、本命はまだだけれど、何社か受けていると言っていた。
凪沙がリクルートスーツを着て学部生に混ざると、おそらく院生ではなく、学部生に見られるだろうけれど、すずなの場合、リクルートスーツですら、そうは見られないのだろうなと思った。悲しいような、羨ましいような。
とはいえ、凪沙は博士課程への進学を考えていて、就活前線からは外れていた。けれど、それも決定事項ではなく、お金がかかることなので、理想と現実の狭間で葛藤していた。
柚月はどうするのだろうか。凪沙と同じく、柚月も就活しているような雰囲気はなかった。柚月なら、進学という選択肢もあるような気がした。そうであればいいなと思った。むしろ、そうであってほしかった。
「ねぇ、西宮は修士終わったらどうするの?」
珍しくお昼の時間が被り、凪沙と柚月は一緒にお昼ご飯を食べていた。
そんな折、凪沙から突然投げかけられた質問に、柚月は驚いた表情を浮かべる。柚月は、口に含んでいた物を飲み込み、お茶も流し込むと、いつもの表情に戻った。
「俺は就職するよ。今、研究で関わりあるとこからも声かけてもらってて」
「あ、そうなんだ……」
凪沙は表面に出そうになる心情を、ギリギリのところで抑え込む。気持ちの暗い部分は笑顔で隠した。
柚月は、同じ質問を凪沙にも訊ねたけれど、悩み中なのだと誤魔化した。
***
会わない時は本当に全くと言っていいほど会わないのに、会い始めると、今度は途端にその回数が増える。
今は、大輔がその一人だった。
「若者よ。何か悩んでるみたいだな」
院生室にて、修士論文のデータをまとめていた凪沙の元にやってきた大輔は、「お兄さんに話してみなさい」とない髭を撫でるような仕草をした。一つしか変わらないのに、その口調は大輔の流行りなのだろうか。
いつもふざけているし、今だってその喋り方は真面目なものではないのに、こういうところはどうしてかいつも鋭い人だった。凪沙がわかりやすいのかもしれないけれど、今回に限っては、表に出さないようにしていたつもりだ。
「真面目な話してもいいですか?」
「俺はいつだって真面目に話してるよ」
それがすでにふざけているのだけれど、気にしないことにした。
「大輔先輩は、学生と社会人の恋愛ってうまくいくと思いますか?」
「うーん、それはケースバイケースだな……ってそれだと、どんなことでも当てはまるか」
そう言って笑うと、大輔は凪沙に社会人と付き合っているのかと聞いた。そうではないのだと、否定する。
「私、進学を考えてるんですけど、向こうは就職するって言ってて。何か勝手に進学するんだと、安心しちゃってたんですよね」
「安心?」
「学生と社会人って、どうしても壁ができちゃうじゃないですか。社会人一年目とか、慣れないことも多くて大変だろうし、相談されても働いたことないからちゃんとしたことも言えないし。支えられるのかなとか、そもそも話してくれるのかなとか、そんなことばかり考えちゃうんです」
「ちゃんとしたことってのは、よくわからんけど、何かトラウマがありそうだな。でも、付き合う人が変われば、結果も変わると思うけど。そいつはそんな信じられないやつなの?」
「信じてないとかじゃなくて……嫌われるのが怖いんだと思います」
ふと、大輔は考え込む仕草をすると、何かを思い出したように顔を上げた。
「あれだ。高見の彼氏って、西宮だろ」
「どうして知ってるんですか?」
やっぱりか、となぜかドヤ顔をする。情報源は不明だけれど、風の噂とやらで聞いたらしい。
凪沙が柚月と付き合っていることを知ると、大輔は何かをぶつぶつ言いながら頷いていた。
「そうか、あいつ就職組か。博士まで取るのかと思ってたわ」
「そうなんですよ。私もそう思ってました」
「ま、もしそれでフラれたら、俺のところに来ればいいよ」
先程まで珍しく真面目に答えてくれていたのに、その空気を変えるためなのか、大輔の真面目タイムが限界を迎えたのか、いつも通りの軽口を叩く。
「さすが、大輔先輩」
「本気なんだけどな」
呟くように言った大輔の言葉は、凪沙には届かなかった。聞き返そうとしたけれど、大輔が先に口を開く。
「高見の恋愛って、もっと淡泊かと思ってたけど、ちゃんと相手のこと想えたんだな」
何か安心したよ、となぜか哀愁を漂わせていた。それもふざけているように見えて、凪沙は笑っておいた。
***
正直、あの二人は絶対にくっつかないと思っていた。すずなは応援していたようだったけれど、凪沙が柚月に好意を抱くことはないと思って高を括り、余裕をかましていたら、このザマだ。
けれど、それもいつまでも続くというわけでもない。今、凪沙は不安を抱えていて、それが解消されない限りは、この問題はいつまでも付き纏う。少なくとも、あと三年はある。その間に、チャンスはいくらでもあるだろう。向こうの距離が離れる分、こちらが有利になる。一生共有できない三年という時間を、こちらは得られるのだ。
それでもダメな時は……その時はその時だ。
研究室に戻ろうとしていると、目の前を見慣れた人物が歩いていた。何ともタイミングがいい。少しばかり、かき回してやろう。ちょっとくらいなら、バチは当たらないだろう。
「よ、西宮」
「……三上先輩、お疲れ様です」
振り返った柚月の顔は、あからさまに嫌そうな表情を浮かべていた。わかりやすくて、可愛いものだと大輔は思った。
「西宮、就職するんだってな」
「……」
「お前も高見と一緒で、進学するんだと思ってた」
「は?」
先輩に対して無言を決め込んでいたのに、凪沙の名前を出すと、すぐに反応するのだから、大輔は笑いを禁じ得なかった。
これ
のどこに不安を感じる必要があるのかと思うのだけれど、当人にしてみると、見えない
ことの方が多いのだろう。しかも、柚月の反応からして、進学を考えていることすら話していないようだ。話せない、という方が正しいだろうか。これは面白い、と大輔はさらに意地悪心に火がつく。
「学生と社会人じゃあ、時間軸が変わるからなぁ。それにあいつ、友達でも彼氏でも、働いてるやつにあんまりいい思い出ないだろうし。学生の間は、疎遠になるかもなぁ」
「……」
「社会人と付き合うなんて、もっての外だろうなぁ」
「……それ、凪沙が言ったんですか?」
「ん? あぁ、何か悩んでるぽかったけど」
柚月の表情が歪む。大輔は笑いを堪えながら「俺が言ったことは内緒な?」と付け足した。
この程度で二人がどうにかなるとは思わないけれど、だからこそ、このくらいのことは許されるだろうと思った。
柚月とはそこまで関わりがなかったし、何より嫌われているだろうことは気づいていた。けれど今日、柚月と話してみて、大輔は柚月という人間が少し好きになった。いつもはすましているくせに、意外と人間臭いやつだなと思った。
***
凪沙は、柚月の家の前で立ち往生していた。インターホンを鳴らそうと思って、もうすでに10分は経過している。その間、マンションの住人は出入りしていないけれど、ちょっと間違えれば完全に変質者だ。
なぜ、そんなことになっているのかというと、実験が終わり、帰り支度をしている時に柚月からメッセージが入ったことに起因する。届いたメッセージは、ただ一言『今日、家来て』とだけ書かれてあった。その文章自体におかしなところはないのだけれど、何となく雲行きの怪しい気配を感じた。それは、凪沙が柚月に対して後ろめたい————この場合は、まだ自分の気持ちが落ち着いていないので、顔を合わせづらいというのが適当だ————ことがあるからそう感じるのか。面と向かって話していないと、そういう感情のようなものが、受け手側の作為をいくらでも操作できるから厄介だ。
というわけで、断ることもできず、とりあえず来てみたはいいけれど、乗り込むこともできず、今に至るというわけだ。どうしたものかと思案を続けていると、スマホが鳴り、着信を知らせる。ディスプレイには “柚月” の文字。
凪沙は恐る恐る電話に出る。
『今どこ?』
「えーとね……ちょうど今着いたとこ」
少しだけ嘘をついた。けれど、柚月は気にする様子もなく、オートロックを解除する。さすがにもう逃げ場はないので、意を決して凪沙は足を踏み入れる。ある意味、敵地に乗り込もうとする心持ちだ。
しかし、なぜこんなにビビっているのか。そもそも柚月が呼び出した理由も、それほどの意味はないものかもしれない。夕飯を一緒に、くらいの内容かもしれない。そう思おう。それがいいに違いない、と自分に言い聞かせた。
けれど、気持ちの浮上は儚くもすぐに打ち砕かれる。
柚月の部屋に入り、リビングに案内されると、柚月はテーブルにココアの入ったマグカップを置くと、ソファに腰掛け、凪沙も座るように隣をトントンと叩いた。その雰囲気は明らかに怒っているもので、逆らうのも、従うのも遠慮したかった。それでも、やはり今以上に怒らせる方が怖いので、少し距離を置いて隣に座る。
「凪沙、俺に隠してることない?」
「?」
質問の意図がわからず、凪沙は答えに窮する。
「進学するらしいな」
「な! ……なんでそのこと……」
「三上先輩に聞いた」
油断していた。大輔が柚月と話すとは思っていなかった。なぜそういう話になったのかはわからないけれど、必要最低限のことしか話さないくらいの仲だと思っていたので、想定外だった。そこから漏れるとは思わなかった。
「俺に言えなかったのって、俺が就職するって言ったから?」
「……」
凪沙は何も返せなかった。上手く取り繕う言葉が何一つ出てこない。取り繕う必要はないということもわかっている。こんな時に、取り繕おうとしてしまう自分も、それが上手くできない自分も嫌いだった。
「何で、俺に話してくれないんだよ」
「……言えるわけないじゃん」
言えないから悩んでいるというのに。どうするのが正解だったのか、そもそも正解なんてあるのか。あるなら教えてほしい。
「他のやつと一緒にすんなよ。距離ができただけで、終わるような関係だと思ってんの?」
大輔がどこまで柚月に話したのかはわからないけれど、少なくとも凪沙の進学の話だけではないということだけはわかった。
今日、この家についてから、柚月の機嫌はずっと悪いままで、不安が積もり積もっている凪沙にとってはキャパオーバーで、今にも爆発しそうだった。
「そんなのわかんないでしょ。どっちかというと、変わるのは柚月の方だからね」
「信じろよ」
「信じたいよ!」
どうしたらいいの……
どうすれば、柚月の隣にずっといられると思えるようになるのだろうか。人の心というのは、言葉ほど単純なものではないのだ。
凪沙は口を閉ざして、俯いてしまう。柚月も口を開こうとせず、そこにはただ沈黙が広がっていた。
物理的距離がなくても離れていってしまう人の心を、どうやって引き留めておくことができるのだろうか。社会に出て、新しい環境で、新しい出会いがあって、凪沙が向こう三年ほとんど変わらない生活を送っていく中で、柚月の気持ちが変わらないとは思えなかった。自分よりも柚月に相応しい人はもっといて、そんな人と出会ってしまったら、捨てられるのは自分だ。
またしても陥るネガティブループに、仮定レベルの未来のことを考えるだけで怖かった。
「一緒に住む?」
負のスパイラルに囚われていた凪沙は、柚月の言葉に我に返り、目を丸くして柚月を見る。柚月は真剣な表情を浮かべていて、どうやら聞き間違いでも、冗談でもないようだった。
「それは、嫌」
「は?」
「誰かと一緒に住むとか想像できない」
「いずれ結婚したらそうなるんだし、今からそんなこと言っててどうするんだよ」
その言葉に、凪沙は再び目を見開く。
けっこん? 血痕? いや、結婚のことだろうか。
「えーと……結婚って、誰と誰が?」
「凪沙と俺」
「西宮、結婚するの?」
「凪沙は考えてないの?」
「……考えてないというか、西宮が考えてたことが意外だったというか、」
「俺は、凪沙と付き合う前から考えてたよ」
凪沙が戸惑っていると、柚月は空いていた距離を詰める。その勢いに押され、思わず後ろに下がったけれど、肘置きがそれ以上の逃亡を阻止する。
「正直に言うと、俺は今すぐにでも籍入れたいと思ってる。もし、それで凪沙が安心してくれるなら尚更。でも現実、今はまだ学生で、養うこともできないから、その辺はちゃんと自立してからがいいと思ってて」
その口調は、いつもの柚月に戻っていた。根が真面目というか、けれどまさかそんなことまで考えてくれているとは思わなくて、正直驚いた。それでも、単純に、ただ単純にその気持ちは嬉しかった。嬉しい気持ちとは反面、今すぐに同棲と言うことはやはり考えられなかった。何より、柚月の負担になりなくなかった。
「じゃあ、西宮の仕事が休みの時は、どっちかの家に泊まるっていうのはどう? もちろん毎回じゃなくてもいいし、西宮が一人で休みたい時は——————」
「仕事がある日でも、凪沙に会えるなら、その時間は買ってでも欲しい」
「慣れない環境だと絶対しんどくなるから、一人の時間も欲しくなるって」
「凪沙に会えば癒される」
「西宮のこと思って言ってるんだから、ちょっとは譲歩して! 会いたくないって言ってるわけじゃないんだから」
柚月は納得したのか、頷いた。そして、ご飯食べてくだろ、と言ってキッチンへと消えた。その足取りは軽やかで、なぜかご機嫌に鼻歌まで唄っていた。