08-2 その気持ちの答えについて(後編)

文字数 2,675文字

 どれだけ走り回ったのか、普段あまり運動習慣のない凪沙は、ずっと息が上がりっぱなしだった。一旦、呼吸を落ち着かせようと速度を落とす。辺りを見回すと、研究室のある棟ではなく、全学共通の授業が行われる中央棟まで来ていた。研究室を背に中央棟の2階を歩き、窓側に寄ると、外にも視線を走らせた。
 一体どこにいるのだろうか。もしかすると、もうすでに研究室に戻っているかもしれない。
 そんなことを考えながら、もう一度走り出そうと踏み込んだ瞬間、探し人が視界に入った。見間違いかもしれないという不安はなかった。
 その人は外に—————構内の

と呼ばれている場所にいた。教授たちが好き勝手に植え付けた植物が立ち込めているところだ。二人は、すでに退官された教授が在学中に植えた楠の下で、向かい合って立っていた。
 やはり一緒にいる人は、遠目に見ても綺麗な人だった。それだけで足が竦んだけれど、何とか踏ん張り、凪沙は再び駆け出した。

 焦りと肺の苦しさで、足が絡まりそうになる。それでも、凪沙は必死に走っていた。
 外に出て、庭にたどり着くと、さらに足を取られた。庭は、木だけではなく、大小さまざまな草や花も植えられていた。花壇と呼べる部分もあれば、無方に植えられている場所もあった。それらを踏みつけないように歩くのは労を成した。
 庭は、何箇所か入り口があるのだけれど、全てが

として機能しているわけではなかった。頭が働いていない凪沙は、特に歩きにくい位置から入り込んでしまっていた。
 いつもなら植物に囲まれ大好きな場所が、その時初めて憎らしく思った。

 どこのジャングルだよ、と悪態をつきながらも、草木をかき分け、

へ向かう。
 二人がいる少し手前でジャングルから解放され、目の前にその人を確認すると、凪沙は最後の力を振り絞り、後ろから思いきり飛びついた。
 背後からの衝撃に、柚月は後ろを振り返る。かろうじて凪沙であることはわかったようだけれど、何が起きたのか状況を把握できず、戸惑っている様子で凪沙の名前を呼ぶ。
 凪沙は少し呼吸を整えると前を向いた。柚月を呼び出したであろう女性が目に写り、彼女の驚いた表情が飛び込む。

「……にし、……柚月は、私の彼氏なので、ごめんなさい」

 言った。言ってやった。
 そう思ったのも束の間、熱が冷めるように自分が仕出かしてしまったことに気がつくと、凪沙は段々と恥ずかしさが全身を満たした。勘違いだったらどうしようとか、どの面下げてそんなこと言ってるんだと思われたらどうしようとか、そんなことが脳内を占める。穴があったら入りたい気持ちになる。—————と、今から掘るわけにもいかないので、目の前にあった柚月の背中に、隠れるように身を潜めた。
 凪沙の一連の行動を眺めていた柚月は、先程までの勢いはどうしたのだろうかと笑った。そして、自分にしがみつく凪沙の頭にキスを落とす。

「そういうことだから、ごめんね」

 柚月の言葉に対し、呼び出した女性が何か言っていたようだけれど、テンパっている状態の凪沙には届かなかった。







 ———————————————
 ———————






 楠の近くにはベンチが置いてあって、凪沙たちはそこに腰掛けた。
 二人の間には沈黙が走り、凪沙は少し前の自分の行動を反芻しては、一人反省会をしていた。

「“彼女” って言ってよかったの?」

 揶揄うでもなく、子どもをあやすような口調で柚月が凪沙に声をかける。
 凪沙は顔を上げられず、先程の勢いはどこへ行ってしまったのだろうかと思うほどに小さい声で「ごめんなさい」と紡ぐ。何とも消えてしまいそうな声だ。
 柚月は目を丸くし、「どうして謝るの?」と訊ねた。一人グルグルと負のループに囚われている凪沙には聞こえなかったようで、さらに小さくなった声で「自分勝手なのは重々承知してるんだけどさ……やっぱり付き合ってること、隠してるの嫌かも」と呟く。おまけに体も小さく見えるほどに萎縮していた。

「どうして? どうしてそう思ったの?」

 柚月の声はどこまでも優しく、さらに声を和らげて、凪沙のそばで耳打つ。顔を覗き込もうと試みるけれど、それは叶わない。

「だって……嫌だったから……西宮がモテるのは知ってたけど、今の彼女は私だもん……」

「仮だけど」ともはや聞かせるつもりもないほどに、虫の息ほどの声で呟く。
 凪沙は無意識に柚月の袖を掴んでいた。その仕草に、言葉に、柚月は凪沙の顎を掴み自分の方へ向かせると、吸い込まれるように凪沙の唇に自分のそれを重ねた。凪沙は驚いて距離を取ろうとしたけれど、顔を上げさせるために触れていた手が頭に移動し、そのまま抑えられたため、身動きが取れない。

 凪沙が抵抗することを諦めた頃、柚月はゆっくり離れると、小さくため息を吐いた。

「凪沙の気持ちを聞くまでは、手出さないつもりだったのに……でも今のは凪沙が悪い」

 柚月は拗ねているかのように、口を窄めていた。そんな柚月の表情がおかしく、それに加えて、柚月が怒っているわけでも、呆れているわけでもないことが声の調子から読み取ることができると、安心した凪沙はほっとしたように笑みを浮かべた。
 安堵すると同時に頭が傾き、近くにあった柚月のおでこに軽くぶつかる。痛くはなかったけれど、「ごめん」と自然と言葉が出る。凪沙が離れようと顔を上げると、柚月との距離が再び縮まっているような気がした。その距離がゼロになるあと一歩のところで阻止する。

「この手は何?」

「いや、今さっき手出さないって言った!」

「凪沙が可愛いのが悪い」

 どこかで頭でもぶつけたのだろうか、と疑いたくなる。—————であれば、先程おでこをぶつけた時に、もう少し強く当てておけばよかったと思ったことは秘密だ。そんなことを考えてしまうほど、近頃の柚月は凪沙には甘すぎた。

「それにさっきの……凪沙、俺のこと好きだって言ってるみたいだった」

「は?」

「だって、じゃあどうして、さっき走ってきてくれたの? 何で俺がモテるの嫌なの?」

 早くも意地悪な柚月に戻っている。こうなると、答えるまで帰してもらえない。
 凪沙はどうしたものかと思案した。言葉には出せそうにもない。なので、必死に代替案を考える。

「凪沙?」

 凪沙は意を決したように柚月に向かい合う。柚月の方を向き、キッと勇ましく立ち向かうと、柚月の腕を引き、そのまま柚月の頬へと唇を触れさせた。

「今日のところは、これで勘弁!」

 そう言って、凪沙は走って逃げて行った。

「何それ……可愛すぎるだろ」

 柚月はしばらく放心状態で、その場を動けずにいた。
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登場人物紹介

*高見 凪沙(たかみ なぎさ)

修士2年(M2)

保全生態研(保生研)所属

負けん気が強く、時々口調が荒くなる

柚月を天敵だと思っている

*西宮 柚月(にしみや ゆづき)

修士2年(M2)

進化生物研(進生研)所属

頭が良く、面倒見もいい

凪沙をいつも揶揄っているが、気持ちを伝えてからは溺愛が過ぎる

*新野 すずな(にいの すずな)

修士2年(M2)

木質構造研(木構研)所属

凪沙の友人

凪沙と柚月とは学部時代からの仲

クールで、凪沙とは性格が真逆

凪沙に対しては少し冷たい一面も

*三上 大輔(みかみ だいすけ)

博士課程1年(D1)

木質構造研(木構研)所属

すずなと研究室が同じ先輩

凪沙とも仲がいい

フランクな性格だが、浮ついた噂が後を立たない

✳︎来栖 愛里紗(くるす ありさ)

修士1年(M1)

保全生態研(保生研)所属

凪沙の直属の後輩

もったりとした喋り方が特徴

可愛いもの好き

でも虫なども平気で触れる

酒豪

✳︎水沢 修平(みずさわ しゅうへい)

修士1年(M1)

進化生物研(進生研)所属

柚月の直属の後輩

凪沙とも仲が良い

穏やかな性格で頭もいい

凪沙と仲がいいことで、柚月から少し羨ましがられている部分もある

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