03 その気持ちの真偽性について
文字数 5,665文字
凪沙と柚月は昔から仲が悪かったわけではない。今も別に仲が悪いわけではないのだけれど、凪沙が何かについて柚月に突っかかる。それについても、出会った当初からそうだったわけではない。
入り口は違っていたとしても、二人とも根っからの研究者基質だったので、お互いの興味のある分野についてよく語り合っていたし、凪沙は柚月に相談に乗ってもらうことも多かった。
二人の関係が変わる出来事は、学部3年の時に起きた。
けれど、柚月としては全く身に覚えがなく、ある日突然、凪沙の態度が一変したのだった。
当の凪沙はというと、その時は本当にショックで、しかし落ち込むというよりかは、今にも討ち入りしそうな勢いで憤怒していたのだけれど、その内容がどのようなものだったのか、今となっては思い出せずにいた。
その後すぐ、二人は今の研究室で各々の研究に携わることになり、研究対象の相性の悪さから、今のような “犬猿の仲” が誕生したのだった。
微かに、記憶の片隅にあるのは、『名前』が原因だったような気がするということ。凪沙———という名前は、海洋学者である凪沙の父がつけたもの。正確にいうと、魚にちなんだ名前がいいと言った父が、散々女の子らしからぬ候補を挙げ連ねた結果、母に止められ、議論の末、決まった名前が『凪沙』だったらしい。言わずもがな、海からとった名前だ。
この “凪” の選択が、後にその意味とは正反対な性格に育った凪沙の揶揄いのネタになることを、第一子の誕生に喜ぶ両親は知りもしない。
***
年に何度か、院生だけの飲み会が開かれる。親睦会と銘打ってはいるけれど、結局のところは単なるの飲み会だ。ただ、研究室の垣根を越えて交流できる場だということもあり、出席率はかなりいい。
斯くいう凪沙もおおよそ参加していたのだけれど、うっかり日時を忘れて実験の予定を入れてしまっていたので、途中から参加することにした。
——————————————————
—————————
できるだけ早く実験を終わらせ駆けつけると、すでにほとんどの人が
どこに入ればいいのかわからないほどにスペースはなく、盛り上がりを見せるその空気に、気づかれないうちに帰ってしまいたいと思うほどだった。その願いが、足を一歩後ろに下げる。けれど、凪沙の願いはすぐに叶わないものとなった。
「あ、高見先輩だ! お疲れ様です!」
何ともご親切に、凪沙の後輩が先輩の到着に
お疲れ様です、と各々声をかけ、最初に凪沙に気づいた後輩が凪沙のために席を空けた。なされるがままま席へと誘導され、彼女の隣に座る。凪沙が腰を下ろすのとほぼ同じタイミングで、飲み物は何にするかと訊ねられ、ウーロン茶をお願いした。
「あれぇ? 高見先輩、お酒飲まないんですかぁ?」
隣席の後輩が呂律が回らない口調で、凪沙に素朴な疑問を投げかける。いつもなら2、3杯は付き合うので、珍しいと思ったのだろう。もしくは、この場で飲まないのか、と言いたいのかもしれない。
それに対し、少し控えているのだと軽く伝えると、聞いた張本人はさほど興味がないらしく、すでに別の話題へと変換された。
「高見先輩ってぇ、西宮先輩と付き合ってるんですかぁ?」
いつの間に、どこから持ってきたのか、隣に座る後輩—————来栖 が日本酒の瓶を片手に凪沙に絡む。どこの酒豪だよ、とツッコミを入れたくなるところだけれど、彼女にはよく見られる光景なので、特に誰も何も言わない。それが今では普通なのだ。
しかしながら、投げかけられた質問については、凪沙にとって謂れのない内容で、日頃あんなに言い合っている場面しか見せていないのに、なぜそんな発想に至るのか。相当に酔っているか、もしくは彼女の目が節穴かのどちらかだ。—————と、それは言い過ぎか。
「西宮先輩モテるのに、誰とも付き合わないし〜。それに、告白した友達が『好きな人がいるから』って断られたって言ってて〜」
何も言わない凪沙に、彼女はその返事が待てないとばかりに言葉を続ける。その中には、プライバシーが漏洩されている部分もあるような気がするけれど、凪沙は敢えて気にしないようにした。
来栖の口はまだ閉じることを知らない。
「高見先輩じゃないなら、新野 先輩ですかぁ?」
と、今度はすずなに矛先が向かう。意外にも、院生飲みの出席率が凪沙とほぼ変わらないすずなは、凪沙の目の前の席に座り、別の学生と話していたのだけれど、来栖から声がかかったことで目線を移動させた。突然の問いかけにも顔色ひとつ変えない。
「わたし、彼氏いるから」
その言葉に、この周辺では好奇と悲憤の声が上がる。
最初は驚きを見せていた学生たちも、すずなに彼氏がいないことの方が不思議だという見解に至ったらしく、相手はどんな人なのか、どちらから告白したのかなど、普段であれば絶対にすずなに聞けないようなことも、お酒の力を借りて詮索していた。
すずなも隠すつもりはないのか、聞かれたことに一つひとつ答えていく。その内容について、彼らがどこまで覚えていられるのかは、凪沙の知るところではなかった。
自身の話題から逃れられたことに安堵しながら、凪沙は辺りを見回した。凪沙の周辺もそうだけれど、人数が増えると、近くの人たちで集まるものだ。それぞれがそれぞれの場所で、異なる話題で盛り上がっていた。
「西宮先輩と高見先輩って、いつからそんな感じなんすか?」
凪沙が他のグループに目を配っていたせいか、少し離れたところの声を拾ってしまった。見ると、柚月の目の前に座っている学生が、顔を赤くして柚月に問い質している。誰がそんなに飲ませたのか、勝手に自分が飲んだのか。その両方かもしれないけれど、その彼は他の学生に違わず、相当酔っている様子だった。
柚月は、もうこいつに飲ませるな、と言いながら水を勧める。
「答えてくださいよー! 噂では、西宮先輩が高見先輩の名前? をバカにしたとか何とかーってことになってますよ」
「は?」
その言葉に、柚月は怪訝そうな表情を浮かべた。それでもお酒が回り、柚月の表情の変化にも、声のトーンが下げられたことにも気づかない彼はさらに話し続ける。
彼の説明をまとめるとこうだ。
凪沙たちがまだ学部生だった頃、授業でフィールドワークに出かけることがあった。何度目かのフィールドワークで慣れてきたにも関わらず、説明が長い教授に飽きてきた学生が、不意に真昼の月を見上げて小声で呟いた。
『西宮の名前にも、自然界のもの入ってんなぁ』
『“にも” って?』
『ほら、高見の名前—————凪沙って言うんだけど。俺、高見と中学が一緒でさ、あの性格で “凪” って柄じゃないだろって散々揶揄われてたんだよ』
凪、は本来 “風” を意味する言葉で、風力ゼロのことを言う。それが派生して、海に波がない状態、穏やかな海を表す言葉としても用いられているのだ。
しかしながら、幼い頃からおてんばで、おまけに男子顔負けの運動神経を携えていた凪沙は、その負けん気な性格から名前負けだと言われ続けていた。
けれど、その頃から凪沙 はそう言われることに関して、特に何の感情も示さなかった。
『お前ら仲良いし、月と凪 なんてまるで、潮の満ち引きみたいだな』
『それなら、月の方が有利じゃん』
『それって、高見の方が西宮よりも劣ってる ってこと?』
酔っ払いの彼が、どこでその情報を入手したのかはわからないけれど、聞いているうちに段々と記憶が呼び戻されてきた。
そうだ。歳を重ね、大人と言っても過言ではない年齢となった大学生活で、もう名前のことをとやかく言われることはなくなったと思った矢先、元クラスメイトがバラすようなことを口にしたのだった。それに便乗するように、
それでも凪沙は、柚月がそんな話に興味を示すわけないと、参入するわけないと思っていた。柚月は、そういうことで人をバカにしたりするような人間ではないと信じていた。
それなのに—————
「そんな話が繰り広げられる中、西宮先輩が『あいつは俺の下僕だからな』とか何とか言ったのを、高見先輩がブチギレて…」
「おいおい、捏造がすごいな。俺、そんなこと言ってないけど」
涼しい顔でシラを切る柚月に、グラスを置こうとしていた手に力が入る。テーブルとグラスが衝突し、予想以上に大きな音が発生した。その音に、来栖が驚いた顔を凪沙に向け「どうしました?」と声をかける。来栖の声に我に返った凪沙は、羞恥を覚えた。ちょっと冷静になろうと、「何でもない」とだけ返して、そのまま席を離れた。
店内を歩きながら、言葉を反芻する。
そうだ、思い出した。バカにしたんだ。一緒になって、笑ったんだ。
思い出した途端、ふつふつとあの時と同じ怒りが湧き上がってきた。笑った当の本人は、そんなこと言っていないと言うし。別に、昔のことを掘り返して怒ったりはしないけれど————いや、すでに怒りの感情が全身を占めているけれど————なぜそこで嘘をつく必要があるのか。覚えていないのならば、覚えていないとそう言えばいいだけの話なのに。
と、そこまで考えて自分が何のために席を立ったのかを思い出した。これでは逆効果だ。冷静になるどころか、どんどん加熱している。
いっそ外に出て、夜風にあたろう。そう思い立ち、凪沙は扉を開けた。
「凪沙」
お店の敷居を越えるとすぐ、名前を呼ばれた。聞き慣れた声で、
そこには、予想通り柚月の姿があった。
「さっきの聞こえてた? もしかしたら誤解してるかもしれないから、弁解しておきたいんだけど……俺、あんなこと言ってない」
最近の柚月は何かとタイミングが悪かった。せっかく落ち着きに来たというのに、今それを柚月 に触れられると、簡単に再燃してしまう。
「……言ったじゃん!」
下僕云々の件については、正直記憶がないけれど、月と海の関係について、話題になったのは覚えている。
海の満ち引きは、月の引力によって引き起こる。月の位置により、つまり、月が物理的に近くにあるとその引力により水面が引き上げられ、満ち潮となる。
月の力が海に作用することから、
「西宮、あの時一緒になってバカにしたじゃん」
「凪沙、それは勘違いだよ。俺は、『愛おしいな』って思ったんだ」
柚月はさらに言葉を続けて、「声に出ちゃってたらしくて、そしたら『何だそれ?』って。バカにされたのはむしろ俺」と肩をすくめ、困ったように笑った。
「どういう意味?」
凪沙は柚月が言わんとすることが理解できず、その真意を問いただす。
「月と海って満ち引きだけじゃなくて、見た目?って言うのかな。特に満月の日は海に月明かりが浮かんで、それが道みたいに見えるだろ? それが繋がって、巡り会うことができる。それが何だか愛おしく思えて、まるで凪沙に対する俺の気持ちみたいだなって」
恥ずかしげもなく説明する柚月に対して、顔を赤くしたのは凪沙の方だった。そんな顔を見られたくないとでも言うように、凪沙は俯く。
照れ隠しなのか、まだ信じられないのかは定かではないけれど、凪沙の顔を覗き込もうとする柚月に向かって「嘘だ!」と声を荒げる。柚月は至って冷静に返答した。
「嘘ついて何になるんだよ」
「でも、だって……」
柚月の真剣な表情に、凪沙は口籠もる。
柚月が言っていることが嘘ではないとすると、凪沙が勝手に勘違いして、怒って、この数年柚月に不条理な態度をとっていたことになる。自分が一番そういうのを嫌っているのに、それを自分がしてしまうなんて……
「……ごめんなさい」
凪沙は小さく呟いた。事の次第が明らかとなり、柚月に呆れられたのではないかと内心不安でいっぱいだった。
「凪沙は、俺にバカにされたことが嫌だったの? 俺がそんなことを言ったと思ってショック受けてたの?」
「いや、そういうわけじゃあ……」
凪沙の言葉に、柚月はあからさまにがっかりした表情を浮かべた。その真意はわからなかったけれど、凪沙が心配しているようなことはなさそうだということに安堵する。
長年の誤解が解決に向かったことで、そろそろ戻った方がいいのではないかと、抜けてきていることを思い出した。けれど、扉に近い位置に立つ柚月は動こうとしない。
「誤解が解けたなら、俺とのことちゃんと考えてくれるよな?」
「え?」
「え?」
二人して顔を見合わせる。お互い、頭の上にクエスチョンマークを乗せているかのようだ。
「それ……まだ続いてたの?」
「は?」
「いや、それって励まそうとして言ってくれてたんだよね?」
柚月の言葉は、凪沙がフられて落ち込んでいたため、気を遣ってくれているものだと思っていた。—————それにしては、キスまでされて、少々オーバーな気もしたけれど。
ただ、優しさはもう十分だった。実を言うと今となってはあの失恋はもうそこまで落ち込んではいなかった。もう大丈夫だという旨と、感謝を伝えようと柚月を見上げると、なぜか柚月は見るからに不機嫌そうな表情を浮かべていた。
「これだけ言っても、まだ冗談にされんの? 嫌いなら嫌いって、はっきり言えば?」
「え……ちょ…なんで、」
苛立ちを隠そうともしない柚月は、そのまま店内へと戻っていった。
柚月が凪沙に対して怒ったことはこれまで一度もなく、初めてのことに凪沙は戸惑いを隠せなかった。
入り口は違っていたとしても、二人とも根っからの研究者基質だったので、お互いの興味のある分野についてよく語り合っていたし、凪沙は柚月に相談に乗ってもらうことも多かった。
二人の関係が変わる出来事は、学部3年の時に起きた。
けれど、柚月としては全く身に覚えがなく、ある日突然、凪沙の態度が一変したのだった。
当の凪沙はというと、その時は本当にショックで、しかし落ち込むというよりかは、今にも討ち入りしそうな勢いで憤怒していたのだけれど、その内容がどのようなものだったのか、今となっては思い出せずにいた。
その後すぐ、二人は今の研究室で各々の研究に携わることになり、研究対象の相性の悪さから、今のような “犬猿の仲” が誕生したのだった。
微かに、記憶の片隅にあるのは、『名前』が原因だったような気がするということ。凪沙———という名前は、海洋学者である凪沙の父がつけたもの。正確にいうと、魚にちなんだ名前がいいと言った父が、散々女の子らしからぬ候補を挙げ連ねた結果、母に止められ、議論の末、決まった名前が『凪沙』だったらしい。言わずもがな、海からとった名前だ。
この “凪” の選択が、後にその意味とは正反対な性格に育った凪沙の揶揄いのネタになることを、第一子の誕生に喜ぶ両親は知りもしない。
***
年に何度か、院生だけの飲み会が開かれる。親睦会と銘打ってはいるけれど、結局のところは単なるの飲み会だ。ただ、研究室の垣根を越えて交流できる場だということもあり、出席率はかなりいい。
斯くいう凪沙もおおよそ参加していたのだけれど、うっかり日時を忘れて実験の予定を入れてしまっていたので、途中から参加することにした。
——————————————————
—————————
できるだけ早く実験を終わらせ駆けつけると、すでにほとんどの人が
できあがっている
状態だった。何ともカオスな現場だ。どこに入ればいいのかわからないほどにスペースはなく、盛り上がりを見せるその空気に、気づかれないうちに帰ってしまいたいと思うほどだった。その願いが、足を一歩後ろに下げる。けれど、凪沙の願いはすぐに叶わないものとなった。
「あ、高見先輩だ! お疲れ様です!」
何ともご親切に、凪沙の後輩が先輩の到着に
歓喜
の声を上げた。もちろん彼女もすでに酔っ払いのそれだったので、いつもよりも高めの声がざわついているその場に響き渡る。会場は一瞬静まり、多くの学生が凪沙の方に視線を集中させた。お疲れ様です、と各々声をかけ、最初に凪沙に気づいた後輩が凪沙のために席を空けた。なされるがままま席へと誘導され、彼女の隣に座る。凪沙が腰を下ろすのとほぼ同じタイミングで、飲み物は何にするかと訊ねられ、ウーロン茶をお願いした。
「あれぇ? 高見先輩、お酒飲まないんですかぁ?」
隣席の後輩が呂律が回らない口調で、凪沙に素朴な疑問を投げかける。いつもなら2、3杯は付き合うので、珍しいと思ったのだろう。もしくは、この場で飲まないのか、と言いたいのかもしれない。
それに対し、少し控えているのだと軽く伝えると、聞いた張本人はさほど興味がないらしく、すでに別の話題へと変換された。
「高見先輩ってぇ、西宮先輩と付き合ってるんですかぁ?」
いつの間に、どこから持ってきたのか、隣に座る後輩—————
しかしながら、投げかけられた質問については、凪沙にとって謂れのない内容で、日頃あんなに言い合っている場面しか見せていないのに、なぜそんな発想に至るのか。相当に酔っているか、もしくは彼女の目が節穴かのどちらかだ。—————と、それは言い過ぎか。
「西宮先輩モテるのに、誰とも付き合わないし〜。それに、告白した友達が『好きな人がいるから』って断られたって言ってて〜」
何も言わない凪沙に、彼女はその返事が待てないとばかりに言葉を続ける。その中には、プライバシーが漏洩されている部分もあるような気がするけれど、凪沙は敢えて気にしないようにした。
来栖の口はまだ閉じることを知らない。
「高見先輩じゃないなら、
と、今度はすずなに矛先が向かう。意外にも、院生飲みの出席率が凪沙とほぼ変わらないすずなは、凪沙の目の前の席に座り、別の学生と話していたのだけれど、来栖から声がかかったことで目線を移動させた。突然の問いかけにも顔色ひとつ変えない。
「わたし、彼氏いるから」
その言葉に、この周辺では好奇と悲憤の声が上がる。
最初は驚きを見せていた学生たちも、すずなに彼氏がいないことの方が不思議だという見解に至ったらしく、相手はどんな人なのか、どちらから告白したのかなど、普段であれば絶対にすずなに聞けないようなことも、お酒の力を借りて詮索していた。
すずなも隠すつもりはないのか、聞かれたことに一つひとつ答えていく。その内容について、彼らがどこまで覚えていられるのかは、凪沙の知るところではなかった。
自身の話題から逃れられたことに安堵しながら、凪沙は辺りを見回した。凪沙の周辺もそうだけれど、人数が増えると、近くの人たちで集まるものだ。それぞれがそれぞれの場所で、異なる話題で盛り上がっていた。
「西宮先輩と高見先輩って、いつからそんな感じなんすか?」
凪沙が他のグループに目を配っていたせいか、少し離れたところの声を拾ってしまった。見ると、柚月の目の前に座っている学生が、顔を赤くして柚月に問い質している。誰がそんなに飲ませたのか、勝手に自分が飲んだのか。その両方かもしれないけれど、その彼は他の学生に違わず、相当酔っている様子だった。
柚月は、もうこいつに飲ませるな、と言いながら水を勧める。
「答えてくださいよー! 噂では、西宮先輩が高見先輩の名前? をバカにしたとか何とかーってことになってますよ」
「は?」
その言葉に、柚月は怪訝そうな表情を浮かべた。それでもお酒が回り、柚月の表情の変化にも、声のトーンが下げられたことにも気づかない彼はさらに話し続ける。
彼の説明をまとめるとこうだ。
凪沙たちがまだ学部生だった頃、授業でフィールドワークに出かけることがあった。何度目かのフィールドワークで慣れてきたにも関わらず、説明が長い教授に飽きてきた学生が、不意に真昼の月を見上げて小声で呟いた。
『西宮の名前にも、自然界のもの入ってんなぁ』
『“にも” って?』
『ほら、高見の名前—————凪沙って言うんだけど。俺、高見と中学が一緒でさ、あの性格で “凪” って柄じゃないだろって散々揶揄われてたんだよ』
凪、は本来 “風” を意味する言葉で、風力ゼロのことを言う。それが派生して、海に波がない状態、穏やかな海を表す言葉としても用いられているのだ。
しかしながら、幼い頃からおてんばで、おまけに男子顔負けの運動神経を携えていた凪沙は、その負けん気な性格から名前負けだと言われ続けていた。
けれど、その頃から
『お前ら仲良いし、月と
『それなら、月の方が有利じゃん』
『それって、高見の方が西宮よりも
酔っ払いの彼が、どこでその情報を入手したのかはわからないけれど、聞いているうちに段々と記憶が呼び戻されてきた。
そうだ。歳を重ね、大人と言っても過言ではない年齢となった大学生活で、もう名前のことをとやかく言われることはなくなったと思った矢先、元クラスメイトがバラすようなことを口にしたのだった。それに便乗するように、
彼
の周辺にいた数名が今度は柚月を引き合いに出し、面白おかしく話していたのだ。それでも凪沙は、柚月がそんな話に興味を示すわけないと、参入するわけないと思っていた。柚月は、そういうことで人をバカにしたりするような人間ではないと信じていた。
それなのに—————
「そんな話が繰り広げられる中、西宮先輩が『あいつは俺の下僕だからな』とか何とか言ったのを、高見先輩がブチギレて…」
「おいおい、捏造がすごいな。俺、そんなこと言ってないけど」
涼しい顔でシラを切る柚月に、グラスを置こうとしていた手に力が入る。テーブルとグラスが衝突し、予想以上に大きな音が発生した。その音に、来栖が驚いた顔を凪沙に向け「どうしました?」と声をかける。来栖の声に我に返った凪沙は、羞恥を覚えた。ちょっと冷静になろうと、「何でもない」とだけ返して、そのまま席を離れた。
店内を歩きながら、言葉を反芻する。
そうだ、思い出した。バカにしたんだ。一緒になって、笑ったんだ。
思い出した途端、ふつふつとあの時と同じ怒りが湧き上がってきた。笑った当の本人は、そんなこと言っていないと言うし。別に、昔のことを掘り返して怒ったりはしないけれど————いや、すでに怒りの感情が全身を占めているけれど————なぜそこで嘘をつく必要があるのか。覚えていないのならば、覚えていないとそう言えばいいだけの話なのに。
と、そこまで考えて自分が何のために席を立ったのかを思い出した。これでは逆効果だ。冷静になるどころか、どんどん加熱している。
いっそ外に出て、夜風にあたろう。そう思い立ち、凪沙は扉を開けた。
「凪沙」
お店の敷居を越えるとすぐ、名前を呼ばれた。聞き慣れた声で、
バカにした
あの口で名前を紡がれることに、眉が痙攣しながらも、凪沙は今しがた出てきたばかりの方向を振り返る。そこには、予想通り柚月の姿があった。
「さっきの聞こえてた? もしかしたら誤解してるかもしれないから、弁解しておきたいんだけど……俺、あんなこと言ってない」
最近の柚月は何かとタイミングが悪かった。せっかく落ち着きに来たというのに、今それを
「……言ったじゃん!」
下僕云々の件については、正直記憶がないけれど、月と海の関係について、話題になったのは覚えている。
海の満ち引きは、月の引力によって引き起こる。月の位置により、つまり、月が物理的に近くにあるとその引力により水面が引き上げられ、満ち潮となる。
月の力が海に作用することから、
彼ら
は月の方が有利だと言ったのだ。正直言って、そこに優劣なんて存在しないような気がするのだけれど、そこは価値観の違いなので否定はしない。「西宮、あの時一緒になってバカにしたじゃん」
「凪沙、それは勘違いだよ。俺は、『愛おしいな』って思ったんだ」
柚月はさらに言葉を続けて、「声に出ちゃってたらしくて、そしたら『何だそれ?』って。バカにされたのはむしろ俺」と肩をすくめ、困ったように笑った。
「どういう意味?」
凪沙は柚月が言わんとすることが理解できず、その真意を問いただす。
「月と海って満ち引きだけじゃなくて、見た目?って言うのかな。特に満月の日は海に月明かりが浮かんで、それが道みたいに見えるだろ? それが繋がって、巡り会うことができる。それが何だか愛おしく思えて、まるで凪沙に対する俺の気持ちみたいだなって」
恥ずかしげもなく説明する柚月に対して、顔を赤くしたのは凪沙の方だった。そんな顔を見られたくないとでも言うように、凪沙は俯く。
照れ隠しなのか、まだ信じられないのかは定かではないけれど、凪沙の顔を覗き込もうとする柚月に向かって「嘘だ!」と声を荒げる。柚月は至って冷静に返答した。
「嘘ついて何になるんだよ」
「でも、だって……」
柚月の真剣な表情に、凪沙は口籠もる。
柚月が言っていることが嘘ではないとすると、凪沙が勝手に勘違いして、怒って、この数年柚月に不条理な態度をとっていたことになる。自分が一番そういうのを嫌っているのに、それを自分がしてしまうなんて……
「……ごめんなさい」
凪沙は小さく呟いた。事の次第が明らかとなり、柚月に呆れられたのではないかと内心不安でいっぱいだった。
「凪沙は、俺にバカにされたことが嫌だったの? 俺がそんなことを言ったと思ってショック受けてたの?」
「いや、そういうわけじゃあ……」
凪沙の言葉に、柚月はあからさまにがっかりした表情を浮かべた。その真意はわからなかったけれど、凪沙が心配しているようなことはなさそうだということに安堵する。
長年の誤解が解決に向かったことで、そろそろ戻った方がいいのではないかと、抜けてきていることを思い出した。けれど、扉に近い位置に立つ柚月は動こうとしない。
「誤解が解けたなら、俺とのことちゃんと考えてくれるよな?」
「え?」
「え?」
二人して顔を見合わせる。お互い、頭の上にクエスチョンマークを乗せているかのようだ。
「それ……まだ続いてたの?」
「は?」
「いや、それって励まそうとして言ってくれてたんだよね?」
柚月の言葉は、凪沙がフられて落ち込んでいたため、気を遣ってくれているものだと思っていた。—————それにしては、キスまでされて、少々オーバーな気もしたけれど。
ただ、優しさはもう十分だった。実を言うと今となってはあの失恋はもうそこまで落ち込んではいなかった。もう大丈夫だという旨と、感謝を伝えようと柚月を見上げると、なぜか柚月は見るからに不機嫌そうな表情を浮かべていた。
「これだけ言っても、まだ冗談にされんの? 嫌いなら嫌いって、はっきり言えば?」
「え……ちょ…なんで、」
苛立ちを隠そうともしない柚月は、そのまま店内へと戻っていった。
柚月が凪沙に対して怒ったことはこれまで一度もなく、初めてのことに凪沙は戸惑いを隠せなかった。