02 好意の捉え方について
文字数 5,635文字
この1週間、凪沙は毎日同じ時間にサンプルを回収していた。現在進行している実験は、タイムコースが決められていて————決められて、と言っても決めたのは凪沙なのだけれど————体調が悪くても、行きたい気分ではなかったとしても、二日酔いの状態であっても、自分の都合は優先されない。優先するのは自由だけれど、決めた通りに進めていかないと、この実験は無駄に終わってしまう。
そして、
サンプリング自体は難しいものではないし、もう何度も行っていて操作は慣れていた。特に今日はいつも以上に早く終わった。
凪沙は焦っていた。早くすずなのところに行かなければと、それだけが頭を占めていた。本当は良くないこととわかってはいたけれど、急ピッチで作業を終わらせたのだった。
すずなにはひとまずメッセージだけ送っておいた。すずなが所属する木構研は、9時から17時までをコアタイムとして、研究室にいることが義務付けられているので、大学に来ていることは把握していた。ちなみにこのコアタイムは、教授の思し召なので、どの研究室にも適応されるものではない。凪沙の所属している保生研はそのような縛りはなかった。
実験器具を片付け、植物園を思わせる実験室を後にする。
二重扉になっている部屋を出て、一仕事を終えたかのように目を閉じ、一つ深呼吸をした。
すずなのところに行く前に、実験器具を戻しに研究室に寄る必要がある。せっかく急いだのだから、ここでのんびりする理由はない。
急いで研究室に戻ろうと凪沙が目を開けた瞬間、視界に
刹那、全身に鳥肌が立った。取り払おうと腕をさすってみるけれど、収まるよりも前に頭の中で何かが切れた。
冷静ではいられない状況に、それでも心を無にする。凪沙は持っていた器具の中から使用済みのピンセットと、予備で持ってきておいたサンプルケースを取り出すと、恐る恐る
そんなことをしている心の余裕はないのに、先に片付けなければいけない用事ができてしまった。
————————————————————
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「あれ、高見 先輩どうしたんですか?」
ものすごい剣幕で————まるで道場破りの類かと思わせる勢いでやってきた凪沙に、一つ年下の後輩が声をかける。
「西宮いる?」
「俺に用事?」
不意に後ろからかけられた声に、凪沙の肩が跳ねる。驚いた表情で振り返ると、思ったよりもすぐそばに柚月が立っていた。
凪沙は表情を怪訝そうなものに戻すと、後ずさるように柚月から距離をとり、先程のケースを柚月の前に突き出した。
「これ、西宮のとこの蜂?」
ケースの中には蜂が入っていた。そう、凪沙の天敵とも言える “蜂” だ。
生き物に関して多少の知識はあれど、ほとんど素人である凪沙は、見ただけで種類を見分けることはできない。中分類くらいはできても、その詳細はわからなかった。まして、それが野生種なのかどうか、判断できるはずもない。
この大学で “蜂” を飼育しているのは柚月が所属する研究室だけなので、それだけを理由にここに来たのだった。柚月を指名したのは、博士課程の学生がいない進生研では、柚月が最年長だからという理由だ。そうでなければ、なるべく顔を合わせたくはなかった。
「ん? ……いや、野生の子じゃないかな」
柚月は渚からケースを受け取ると、それをまじまじと見つめた。何をどう確認しているのかは、凪沙にはわからない。聞くと、飼育しているものには種類や研究別に、羽の部分に印がつけられているとのことだった。
凪沙が持ってきた蜂には、それがなかったらしい。
どこで飛んでいたのか訊ねられ、それに答えると、柚月は少し考える素振りをしてから口を開いた。
「何かに紛れて入ってきたのかも。こっちで預かっていい? 調べてみるよ」
その言葉に凪沙は頷いた。よろしく、と言葉を足すと、柚月は嬉しそうに微笑んだ。
柚月の笑顔に、再び凪沙の眉間にシワが寄る。笑みを浮かべられている理由がわからないのだ。
そんな凪沙の表情がおかしかったのか、さらに破顔した柚月が、凪沙の頭に手を置いた。そっと、優しく。
「ありがとう、凪沙」
優しく言葉が紡がれる。後輩がいることも忘れ、見つめ合う二人の間には甘い空気が流れて————いるわけもなく、見つめ合うまではあっていたけれど、凪沙の表情はここでも怪訝さを隠してはいなかった。なぜ柚月からお礼を言われるのだろう、と訝しんでいる表情だろうか。
「別に。じゃあ、私急いでるから」
頭に乗った柚月の手を払い除け、何とも可愛げのない態度のまま、凪沙は研究室へと戻って行った。進生研と保生研はご近所さんなので、あっという間に凪沙の姿が見えなくなる。
逃げるように去る後ろ姿を見送ると、柚月が小さく笑った。
「高見先輩って蜂、苦手なんですか?」
「ん? あぁ、まぁ苦手と言えば苦手かな」
得意な人間もそういないだろう、と心の中で呟くと、そばにいた後輩はなぜか目を見開いていた。
「それなのに、わざわざあんなに丁寧にケースに入れて持ってきてくれたんですか?! 俺だったら苦手なものが飛んでたら、逃げるか、処分しちゃいそう……」
「その気持ちは分からなくはないけど、場所的に逃げるという選択肢は凪沙にはないだろうし。それに、後者については、もっとないよ」
「どういう意味ですか?」
首を傾げる後輩に、柚月は不敵とも言える笑みを浮かべ、口に人差し指を当てると「内緒」と言った。
その表情が、纏う空気が終始穏やかなことに、それを作り出せるのは
***
研究室に戻り、先程回収したサンプルを保管場所に置くと、すぐさまスマホを確認した。スマホの画面にはすずなからの返信が表示されている。その内容にほっと胸を撫で下ろした。
安心したのも束の間、落ち着きなく、先程戻ってきたばかりの研究室を早々と後にした。研究室を出る前に、入り口付近で立ち止まり、人気 がないことを確認することも怠らなかった。
「すずな!」
先に待ち合わせ場所に来ていたすずなは、凪沙の声に顔を上げた。
会えない時は、何日も顔を合わせないなんてことも多いのに、今週は昨日の今日ですでに2回目だ。しかも、どちらも凪沙の急な呼び出しで時間を作ってもらっていた。
「すずながいながら、どうして止めてくれなかったの!?」
出会い頭に凪沙が理不尽に捲し立てる。しかも、誰に聞かれるか分からないからと、わざわざ校舎の外に呼び出しておいて、この発言だ。それでもすずなは表情を変えない。慣れっこなのだろう。いつものように温度差を保ちつつ、おおよそ何を言われるかわかっていたのか「お酒のこと? それとも柚月のこと?」と返答した。
「どっちも!」
思いの外大きな声が出て、凪沙の方が恐縮した。人のせいにしているという自覚はあるようだ。
けれど、まさか自分がお酒の飲み過ぎで記憶をなくし、あんな過ちを犯すとは思っていなかったようで、その相手が柚月ということもまた、理解に苦しむ要因となっていた。
「柚月だから大丈夫だと思ったんだけど」
「大丈夫じゃなかったでしょうって……」
「何があったか詳しくは知らないけど、元はと言えば、凪沙が柚月の服掴んで離さなかったんだからね。それで、柚月が送ってくれることになったんだから」
すずなの言葉に、凪沙は目を丸くした。俄かには信じられないといった様子だ。けれど、ここですずなが嘘をつくとも思えない。嘘をついたところで、何のメリットもない。
何より、その辺のことですら、全く身に覚えがないことに、昨日の自分がいかにどうかしていたかということを思い知らされる。
「……しばらく禁酒します」
「ご自由に」
「あ、それとさ」
暗い表情から一変、何かを思い出したかのように顔を上げ、凪沙が言葉を続ける。
「昨日のお金は? いくら払えばいい?」
今度はすずなが目を丸くした。驚くすずなに凪沙が首を傾げると、「そういうところはきちんとしてるよね」とすずなが笑った。
「柚月が奢ってくれた」
お礼言っといてね、と淡々と口にする。
「え、なんで? なんで西宮がお金出してくれるの?」と、早口に問うた。昨日からわからないことだらけで、凪沙の疑問は尽きない。けれど、その答えについて言及できることはないのだと、すずなは肩を窄めるだけで、説明は控えた。
そして、郊外に試料を集めに行く時間だと言って、凪沙を残して行ってしまった。
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————————
一人残された凪沙は、どうしたものかと思案していた。いまだに後悔の気持ちが全体を占めていたけれど、いつまでもグダグダと考えていても仕方ない。昨日のことはお酒の席の失敗としてしっかりと反省することにして、忘れてしまおう。柚月にもそう言ったではないか。
そうと決まれば、もう蒸し返さない。柚月に対しても、昨日のことは一切触れないように気をつけよう。できればそれに付随する話題も控えたいところだけれど、そうもいかない理由ができてしまった。
凪沙はスマホを手に、しばらく睨めっこを続けていた。文字を打ち込んでは消し、消しては打ち込むという動作を何度か繰り返した末、「お金返します。いくらか教えて」と、簡素な文言を柚月宛に送信した。本日の一大イベントが終わったかのようにドッと疲労に襲われたため、今日は早めに帰宅することにした。
「凪沙」
そう思った矢先、目の前に
「ちょうどいいところに! 昨日の飲み代、自分の分払うよ」
饒舌にそう言っては見たものの、凪沙が現在所持しているものはスマホのみだった。空を切る手に、バツの悪さを感じながら頭をかくと、「研究室に戻ってからでいい?」と目線を合わせないまま口にする。
「いいよ。いらない。受賞祝いとでも思って、奢られときなよ」
「え、やだ。受け取れない」
こんな場面でも可愛げのなさを発揮する凪沙に、柚月はなぜか渋るような顔をして何やら考え込んでしまった。凪沙としては考え込む必要性を感じず、むしろ何をそんなに考えることがあるのだろうかと不可解な気持ちに頭を捻る。
「じゃあ、今度ご飯行こうよ。凪沙と二人で行きたい」
何かを思いついたようにパッと顔を上げると、柚月は満面の笑みでそう告げた。「いいアイデアだ」と言いたげな表情に、それは一体誰得何だろうか、と凪沙は答えに窮する。
やはり新手の嫌がらせだろうか。その場合、どう返事をするのが正しいのか。すぐには考えが及ばず、頭を抱えながら柚月の言葉を反芻していると、とある違和感に気づく。
「ねぇ……何で名前で呼んでるの?」
確かずっと苗字で呼んでいたはずだ。それがなぜ、しかもこうナチュラルに名前で呼ばれているのだろうかと疑問を抱く。もっと記憶を遡ると、今朝の段階ですでに名前呼びに変わっていたような気もする。
「凪沙が名前で呼んでって言ったからだけど?」
「は?」
何を寝ぼけたことを言っているのだろうか。そんなこと言うわけないじゃないか、柚月相手に。
凪沙は心の中で悪態をついた。
夢でも見たんじゃないか。いや、そんな夢を見られても困る。そんな思考がグルグルしていた。
頭を抱えるように添えられた凪沙の手を柚月が掴み、そのまま強引に自分の元へと引き寄せる。何が起こったか理解する間もなく、その反動で下を向いていた顔が柚月に向けられた。間近にある柚月の顔に、凪沙が離れようと抵抗するけれど、びくともしない。
「そんなことより、今朝流れたからもう一度言うけど。俺、凪沙のこと好きだから」
せっかく忘れようと決意したところだったのに、目の前のこの男はいとも簡単に崩れさせる。凪沙は呆れてため息をついた。
「こんなに考え方も何もかも正反対で、言い争ってばかりなのに?」
「俺は凪沙と考え方が違うなんて思ったことないし、何より考え方が一緒じゃないと好きになっちゃダメなわけ?」
「そ、それは…」
「凪沙が俺の言葉を信じられないって言うなら、信じてもらえるまで何度でも言うよ。それとも、凪沙の好きなとこ言おうか?」
いくらでも言えるよ、と口にした。また急に何を言い出すのかと思ったけれど、その表情は冗談を言っている風でもない。むしろすごく真剣な顔で、声で、凪沙に向き合っていた。
「何でも一生懸命に頑張れるところ。いじっぱりなとこ。負けん気が強いとことか、警戒心強いわりに無防備なとこ。蜂得意じゃないのに、それでも研究に使う可能性があるものだからって大切に扱ってくれるとことか」
「わーわー! ちょっと待って……!」
あまりの羞恥に耐えきれず、凪沙が遮るように握られていない方の手で柚月の口を抑えようとした。けれど、逆に柚月に捕まってしまい、とうとう身動きが取れなくなる。
「そうやって恥ずかしがるところも、全部好き」
凪沙は穴があったら入りたい気分だった。なぜこんな至近距離で、逃げ場も失った状態で、恥ずかしめを受けなければならないのか。言葉がストレートすぎる。
せめて顔を隠したくて、俯いて見るけれど、赤面した状態でのその行動は逆効果だった。もちろん、凪沙はそのことに気づいてはいないのだけれど。
「それに……」
今度は自ら言葉を切り、掴んでいる腕を引っ張って凪沙を引き寄せると、唇を重ねた。
「好きでもないやつにキスなんてしない」
本気だから、と柚月は付け加えた。
放心状態の凪沙に、その言葉が届いていたかどうかは定かではない。
そして、
この日
も例外ではなかった。サンプリング自体は難しいものではないし、もう何度も行っていて操作は慣れていた。特に今日はいつも以上に早く終わった。
凪沙は焦っていた。早くすずなのところに行かなければと、それだけが頭を占めていた。本当は良くないこととわかってはいたけれど、急ピッチで作業を終わらせたのだった。
すずなにはひとまずメッセージだけ送っておいた。すずなが所属する木構研は、9時から17時までをコアタイムとして、研究室にいることが義務付けられているので、大学に来ていることは把握していた。ちなみにこのコアタイムは、教授の思し召なので、どの研究室にも適応されるものではない。凪沙の所属している保生研はそのような縛りはなかった。
実験器具を片付け、植物園を思わせる実験室を後にする。
二重扉になっている部屋を出て、一仕事を終えたかのように目を閉じ、一つ深呼吸をした。
すずなのところに行く前に、実験器具を戻しに研究室に寄る必要がある。せっかく急いだのだから、ここでのんびりする理由はない。
急いで研究室に戻ろうと凪沙が目を開けた瞬間、視界に
あるもの
が入ってきた。それは微かに音を発しながら凪沙の前を通り過ぎると、近くの窓の淵へと止まる。刹那、全身に鳥肌が立った。取り払おうと腕をさすってみるけれど、収まるよりも前に頭の中で何かが切れた。
冷静ではいられない状況に、それでも心を無にする。凪沙は持っていた器具の中から使用済みのピンセットと、予備で持ってきておいたサンプルケースを取り出すと、恐る恐る
それ
を掴み、ケースに仕舞った。そんなことをしている心の余裕はないのに、先に片付けなければいけない用事ができてしまった。
————————————————————
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「あれ、
ものすごい剣幕で————まるで道場破りの類かと思わせる勢いでやってきた凪沙に、一つ年下の後輩が声をかける。
「西宮いる?」
「俺に用事?」
不意に後ろからかけられた声に、凪沙の肩が跳ねる。驚いた表情で振り返ると、思ったよりもすぐそばに柚月が立っていた。
凪沙は表情を怪訝そうなものに戻すと、後ずさるように柚月から距離をとり、先程のケースを柚月の前に突き出した。
「これ、西宮のとこの蜂?」
ケースの中には蜂が入っていた。そう、凪沙の天敵とも言える “蜂” だ。
生き物に関して多少の知識はあれど、ほとんど素人である凪沙は、見ただけで種類を見分けることはできない。中分類くらいはできても、その詳細はわからなかった。まして、それが野生種なのかどうか、判断できるはずもない。
この大学で “蜂” を飼育しているのは柚月が所属する研究室だけなので、それだけを理由にここに来たのだった。柚月を指名したのは、博士課程の学生がいない進生研では、柚月が最年長だからという理由だ。そうでなければ、なるべく顔を合わせたくはなかった。
「ん? ……いや、野生の子じゃないかな」
柚月は渚からケースを受け取ると、それをまじまじと見つめた。何をどう確認しているのかは、凪沙にはわからない。聞くと、飼育しているものには種類や研究別に、羽の部分に印がつけられているとのことだった。
凪沙が持ってきた蜂には、それがなかったらしい。
どこで飛んでいたのか訊ねられ、それに答えると、柚月は少し考える素振りをしてから口を開いた。
「何かに紛れて入ってきたのかも。こっちで預かっていい? 調べてみるよ」
その言葉に凪沙は頷いた。よろしく、と言葉を足すと、柚月は嬉しそうに微笑んだ。
柚月の笑顔に、再び凪沙の眉間にシワが寄る。笑みを浮かべられている理由がわからないのだ。
そんな凪沙の表情がおかしかったのか、さらに破顔した柚月が、凪沙の頭に手を置いた。そっと、優しく。
「ありがとう、凪沙」
優しく言葉が紡がれる。後輩がいることも忘れ、見つめ合う二人の間には甘い空気が流れて————いるわけもなく、見つめ合うまではあっていたけれど、凪沙の表情はここでも怪訝さを隠してはいなかった。なぜ柚月からお礼を言われるのだろう、と訝しんでいる表情だろうか。
「別に。じゃあ、私急いでるから」
頭に乗った柚月の手を払い除け、何とも可愛げのない態度のまま、凪沙は研究室へと戻って行った。進生研と保生研はご近所さんなので、あっという間に凪沙の姿が見えなくなる。
逃げるように去る後ろ姿を見送ると、柚月が小さく笑った。
「高見先輩って蜂、苦手なんですか?」
「ん? あぁ、まぁ苦手と言えば苦手かな」
得意な人間もそういないだろう、と心の中で呟くと、そばにいた後輩はなぜか目を見開いていた。
「それなのに、わざわざあんなに丁寧にケースに入れて持ってきてくれたんですか?! 俺だったら苦手なものが飛んでたら、逃げるか、処分しちゃいそう……」
「その気持ちは分からなくはないけど、場所的に逃げるという選択肢は凪沙にはないだろうし。それに、後者については、もっとないよ」
「どういう意味ですか?」
首を傾げる後輩に、柚月は不敵とも言える笑みを浮かべ、口に人差し指を当てると「内緒」と言った。
その表情が、纏う空気が終始穏やかなことに、それを作り出せるのは
彼女
くらいなものだろうと思う後輩くんだった。***
研究室に戻り、先程回収したサンプルを保管場所に置くと、すぐさまスマホを確認した。スマホの画面にはすずなからの返信が表示されている。その内容にほっと胸を撫で下ろした。
安心したのも束の間、落ち着きなく、先程戻ってきたばかりの研究室を早々と後にした。研究室を出る前に、入り口付近で立ち止まり、
「すずな!」
先に待ち合わせ場所に来ていたすずなは、凪沙の声に顔を上げた。
会えない時は、何日も顔を合わせないなんてことも多いのに、今週は昨日の今日ですでに2回目だ。しかも、どちらも凪沙の急な呼び出しで時間を作ってもらっていた。
「すずながいながら、どうして止めてくれなかったの!?」
出会い頭に凪沙が理不尽に捲し立てる。しかも、誰に聞かれるか分からないからと、わざわざ校舎の外に呼び出しておいて、この発言だ。それでもすずなは表情を変えない。慣れっこなのだろう。いつものように温度差を保ちつつ、おおよそ何を言われるかわかっていたのか「お酒のこと? それとも柚月のこと?」と返答した。
「どっちも!」
思いの外大きな声が出て、凪沙の方が恐縮した。人のせいにしているという自覚はあるようだ。
けれど、まさか自分がお酒の飲み過ぎで記憶をなくし、あんな過ちを犯すとは思っていなかったようで、その相手が柚月ということもまた、理解に苦しむ要因となっていた。
「柚月だから大丈夫だと思ったんだけど」
「大丈夫じゃなかったでしょうって……」
「何があったか詳しくは知らないけど、元はと言えば、凪沙が柚月の服掴んで離さなかったんだからね。それで、柚月が送ってくれることになったんだから」
すずなの言葉に、凪沙は目を丸くした。俄かには信じられないといった様子だ。けれど、ここですずなが嘘をつくとも思えない。嘘をついたところで、何のメリットもない。
何より、その辺のことですら、全く身に覚えがないことに、昨日の自分がいかにどうかしていたかということを思い知らされる。
「……しばらく禁酒します」
「ご自由に」
「あ、それとさ」
暗い表情から一変、何かを思い出したかのように顔を上げ、凪沙が言葉を続ける。
「昨日のお金は? いくら払えばいい?」
今度はすずなが目を丸くした。驚くすずなに凪沙が首を傾げると、「そういうところはきちんとしてるよね」とすずなが笑った。
「柚月が奢ってくれた」
お礼言っといてね、と淡々と口にする。
「え、なんで? なんで西宮がお金出してくれるの?」と、早口に問うた。昨日からわからないことだらけで、凪沙の疑問は尽きない。けれど、その答えについて言及できることはないのだと、すずなは肩を窄めるだけで、説明は控えた。
そして、郊外に試料を集めに行く時間だと言って、凪沙を残して行ってしまった。
————————————————
————————
一人残された凪沙は、どうしたものかと思案していた。いまだに後悔の気持ちが全体を占めていたけれど、いつまでもグダグダと考えていても仕方ない。昨日のことはお酒の席の失敗としてしっかりと反省することにして、忘れてしまおう。柚月にもそう言ったではないか。
そうと決まれば、もう蒸し返さない。柚月に対しても、昨日のことは一切触れないように気をつけよう。できればそれに付随する話題も控えたいところだけれど、そうもいかない理由ができてしまった。
凪沙はスマホを手に、しばらく睨めっこを続けていた。文字を打ち込んでは消し、消しては打ち込むという動作を何度か繰り返した末、「お金返します。いくらか教えて」と、簡素な文言を柚月宛に送信した。本日の一大イベントが終わったかのようにドッと疲労に襲われたため、今日は早めに帰宅することにした。
「凪沙」
そう思った矢先、目の前に
天敵
がやってくる。顔を合わせる心の準備はできていなかった。————先程すでに対面しているではないかって? あの時の状況と今では雲泥の差なのだ。けれど、後悔したところで会ってしまったものはしょうがない。ここは割り切って、凪沙は柚月に向かった。「ちょうどいいところに! 昨日の飲み代、自分の分払うよ」
饒舌にそう言っては見たものの、凪沙が現在所持しているものはスマホのみだった。空を切る手に、バツの悪さを感じながら頭をかくと、「研究室に戻ってからでいい?」と目線を合わせないまま口にする。
「いいよ。いらない。受賞祝いとでも思って、奢られときなよ」
「え、やだ。受け取れない」
こんな場面でも可愛げのなさを発揮する凪沙に、柚月はなぜか渋るような顔をして何やら考え込んでしまった。凪沙としては考え込む必要性を感じず、むしろ何をそんなに考えることがあるのだろうかと不可解な気持ちに頭を捻る。
「じゃあ、今度ご飯行こうよ。凪沙と二人で行きたい」
何かを思いついたようにパッと顔を上げると、柚月は満面の笑みでそう告げた。「いいアイデアだ」と言いたげな表情に、それは一体誰得何だろうか、と凪沙は答えに窮する。
やはり新手の嫌がらせだろうか。その場合、どう返事をするのが正しいのか。すぐには考えが及ばず、頭を抱えながら柚月の言葉を反芻していると、とある違和感に気づく。
「ねぇ……何で名前で呼んでるの?」
確かずっと苗字で呼んでいたはずだ。それがなぜ、しかもこうナチュラルに名前で呼ばれているのだろうかと疑問を抱く。もっと記憶を遡ると、今朝の段階ですでに名前呼びに変わっていたような気もする。
「凪沙が名前で呼んでって言ったからだけど?」
「は?」
何を寝ぼけたことを言っているのだろうか。そんなこと言うわけないじゃないか、柚月相手に。
凪沙は心の中で悪態をついた。
夢でも見たんじゃないか。いや、そんな夢を見られても困る。そんな思考がグルグルしていた。
頭を抱えるように添えられた凪沙の手を柚月が掴み、そのまま強引に自分の元へと引き寄せる。何が起こったか理解する間もなく、その反動で下を向いていた顔が柚月に向けられた。間近にある柚月の顔に、凪沙が離れようと抵抗するけれど、びくともしない。
「そんなことより、今朝流れたからもう一度言うけど。俺、凪沙のこと好きだから」
せっかく忘れようと決意したところだったのに、目の前のこの男はいとも簡単に崩れさせる。凪沙は呆れてため息をついた。
「こんなに考え方も何もかも正反対で、言い争ってばかりなのに?」
「俺は凪沙と考え方が違うなんて思ったことないし、何より考え方が一緒じゃないと好きになっちゃダメなわけ?」
「そ、それは…」
「凪沙が俺の言葉を信じられないって言うなら、信じてもらえるまで何度でも言うよ。それとも、凪沙の好きなとこ言おうか?」
いくらでも言えるよ、と口にした。また急に何を言い出すのかと思ったけれど、その表情は冗談を言っている風でもない。むしろすごく真剣な顔で、声で、凪沙に向き合っていた。
「何でも一生懸命に頑張れるところ。いじっぱりなとこ。負けん気が強いとことか、警戒心強いわりに無防備なとこ。蜂得意じゃないのに、それでも研究に使う可能性があるものだからって大切に扱ってくれるとことか」
「わーわー! ちょっと待って……!」
あまりの羞恥に耐えきれず、凪沙が遮るように握られていない方の手で柚月の口を抑えようとした。けれど、逆に柚月に捕まってしまい、とうとう身動きが取れなくなる。
「そうやって恥ずかしがるところも、全部好き」
凪沙は穴があったら入りたい気分だった。なぜこんな至近距離で、逃げ場も失った状態で、恥ずかしめを受けなければならないのか。言葉がストレートすぎる。
せめて顔を隠したくて、俯いて見るけれど、赤面した状態でのその行動は逆効果だった。もちろん、凪沙はそのことに気づいてはいないのだけれど。
「それに……」
今度は自ら言葉を切り、掴んでいる腕を引っ張って凪沙を引き寄せると、唇を重ねた。
「好きでもないやつにキスなんてしない」
本気だから、と柚月は付け加えた。
放心状態の凪沙に、その言葉が届いていたかどうかは定かではない。